この記事は約20分で読めます。
.png&w=3840&q=75)
監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
この投稿をシェアする
建築基準は血で書かれている。ロンドン大火が保険を生み、リスボン地震が防災思想を生んだ。10億人のスラム、月面基地、そして「私たちは建てたものに建てられ返す」——全25回の連載を締めくくる最終回です。
AI搭載
コンクルーAI
顧客管理・見積作成・原価管理・電子受発注・請求支払いなど全ての業務がコンクルーAIひとつで完結

「建設と人類史」の最終回——そして、米国・日本・中国・ヨーロッパと続けてきた連載「建設業の歴史」全25回の、締めくくりです。最後は三つの話。災害がどうやって知識になるか。宮殿ではなく「ふつうの家」から見た人類史。そして、建てるヒトの現在地と、地球の外。結びに、40万年を貫く5つの真理と、人類史×建設史の並列年表を置きます。
ここまでの各国編で、私は建設という営みを、権力・技術・労働という縦糸で追いかけてきました。ピラミッドを積んだ農閑期の労働者、ゴシックの塔を競った石工の親方、鉄道を敷いた移動労働者ナヴィー、団地を量産した戦後のハウスメーカー。彼らはいずれも「新しく建てる」ことで歴史を動かしてきました。けれど最終回で私が置きたいのは、少し違う三つの視点です。人類は建てるだけでなく、壊れることからも学んできた。人類は宮殿だけでなく、名もなき家を圧倒的多数に建ててきた。そして人類はいま、地球という舞台そのものの外に、初めて足を踏み出そうとしている。この三つを順に見ていくと、建設という行為の輪郭が、これまでとは別の角度から立ち上がってきます。

建設の知識には、独特の刻まれ方があります。英語圏の建設業には「Building codes are written in blood(建築基準は血で書かれている)」という言い回しがありますが、これは文字通りの歴史記述です。人類は、崩れ、燃え、揺れるたびに、その犠牲を条文に変えてきました。ハンムラビ法典229条(建てた家が倒れて人が死ねば建築者は死刑)が、その最古の一行です。第2章のバビロンで触れたこの一条は、いま読めば残酷ですが、裏を返せば「建てた者はその建物の安全に生涯責任を負う」という思想を、人類が四千年近く前に条文として持っていたことを意味します。近代の建築基準法も、建設業許可制度も、瑕疵担保の責任も、突き詰めればこの一行の子孫なのです。
ここで大事なのは、こうした規制のほとんどが、机の上の理想ではなく、実際に人が死んだ後に、その死を無駄にしないために書かれてきたという事実です。平時に「もし燃えたら」「もし倒れたら」と想像して先回りで規制を整えるのは、いつの時代もむずかしい。規制はたいてい、破局のあとから追いかけてやってきます。だからこそ歴史をさかのぼると、いまある基準の一つひとつの背後に、具体的な災害と、具体的な死者の数が刻まれているのが見えてきます。
近代におけるこの学習の原点は、二つの都市の破局でした。一つは1666年のロンドン大火です。木造密集市街の8割以上、1万3千戸が焼失したこの火災の後、再建法は煉瓦・石造を義務づけ、街路幅を定め、建物を等級化しました——近代的な建築規制の誕生です。当時のロンドンは、木骨造の家々が上階ほど道の上にせり出し、向かいの家と屋根が触れ合わんばかりに密集した、いわば燃えるべくして燃える都市でした。九月初めの乾いた風にあおられた火は、パン屋の一室から四日間で市壁内の大半を舐め尽くします。再建にあたって定められた、通りに面した壁を不燃材にする、階数ごとに壁の厚みを決める、隣家との境界を石でつくるといったルールは、そのまま「延焼をどう止めるか」という工学的な問いへの答えでした。火は、都市の作り方そのものを書き換えたのです。
そして焼け跡で、ニコラス・バーボンという事業家が世界初の火災保険会社を興します。建設の災害から、保険という産業そのものが生まれた。焼け出された市民が次に恐れたのは「また燃えたら今度こそ立ち直れない」ことでした。バーボンは、その恐れを商品に変えます。多数の家主から少しずつ保険料を集め、火事に遭った少数に再建費を支払う——リスクを確率として引き受け、分散し、証券化するという近代金融の中核的発想は、燃えたロンドンの再建から立ち上がったのです。興味深いのは、火災保険会社が自前の消防隊まで持ち、自社が保険を引き受けた建物を優先して守ったこと。損害を減らせば支払いも減るという計算が、都市の防災体制そのものを前に進めました。建てることの災害が、金融を生み、その金融が防災を育てる。この循環は、いまの建設業が当然のように付き合っている保証・保険・与信のすべての遠い源流です。町場の工務店が工事のたびに掛ける各種保険も、四百年近く前のロンドンの焼け跡と、一本の糸でつながっています。
火災保険が定着していく過程には、もう一つ見落とせない副産物がありました。保険会社は、燃えにくい建物には安い保険料を、燃えやすい建物には高い保険料を求めます。すると家主は、保険料を下げるために、進んで不燃の材料を選び、隣家との間に防火の壁を設けるようになる。法が命じるより先に、経済の計算が防火を広めていったのです。安全に金銭的な価値がつき、安全を高めた者が報われる——この仕組みは、いまの建設業における各種の性能評価や認定制度、そして事故の少ない事業者ほど有利になる仕組みの、遠い原型でもあります。人を守る工夫が、精神論ではなく損得の言葉で語られ、だからこそ広く根づいた。ここには、現場の安全を「掛け声」ではなく「割に合う投資」に変えていくヒントがあるように、私には思えます。
もう一つが、1755年11月1日のリスボンです。諸聖人の日の朝、大地震と津波と火災が欧州有数の都市を壊滅させ、数万人が死にました。よりによって多くの市民が教会に集まっていた祝日の午前、大地が激しく揺れ、崩れた聖堂の下敷きになった人々の上に、今度は港から引いた海がふくれ上がって津波となって襲い、さらに炊事や蝋燭の火が燃え広がって市街を焼く——揺れ・波・火という三つの災いが、半日のうちに次々と重なった破局でした。当時のリスボンは大西洋交易で栄えた大都市であり、その繁栄の象徴だった密集した石造市街が、そのまま被害を増幅させました。
この破局は三つのものを生みます。第一に、近代的な災害対応。実権を握ったポンバル侯は「死者を葬り、生者を養え」と即断し、略奪を抑え、疫病を防ぎ、都市を格子状に再建しました。混乱のさなかに秩序を回復し、食料と住まいを確保し、遺体を処理して疫病の連鎖を断つ——今日の災害対応マニュアルが説くことのほとんどを、彼は理屈より先に実行しています。第二に、地震工学の原点。再建されたバイシャ地区の建物には「ガイオラ」と呼ばれる木造の耐震フレームが組み込まれ、模型を兵士に踏み鳴らさせて揺れを試したと伝えられます。壁の中に木の斜め材を格子状に組み込み、地震の揺れをこの木の骨組みで受け止めて逃がすという発想は、いまの耐震壁やブレースの祖先にあたります。実物大に近い模型のまわりで兵士に足踏みをさせ、人工的に揺れをつくって壊れ方を確かめたという逸話は、実験によって構造の安全を確かめるという近代の姿勢の、早すぎる先取りでした。
ガイオラの発想は、単に個々の建物を丈夫にしただけではありません。バイシャ地区の再建は、道幅や街区の大きさ、建物の高さまでを含めて、都市全体を一つの設計対象として計画し直した点に意義がありました。壊れた街をただ元通りに戻すのではなく、次の災いに耐えられる形に組み替える——復興を「原状回復」ではなく「作り変える機会」と捉えるこの姿勢は、その後の被災都市の復興計画にも受け継がれていきます。個の建物の強さと、街全体の組み立ての両方を同時に問うたところに、リスボン復興の近代性がありました。
そして第三に、思想の転換です。「最善の世界でなぜ無垢の民が死ぬのか」を問うたヴォルテールに対し、ルソーはこう反論しました——被害を大きくしたのは神ではなく、7階建ての家を2万戸も密集させた人間の側ではないか、と。災害は天罰ではなく、都市の作り方の帰結である。同じ規模の揺れでも、まばらな村と、石造の高い家がひしめく大都市とでは、犠牲の数はまったく変わる。ならば死者の多寡を決めているのは天ではなく、どう建て、どう街を組んだかという人間の選択だ——これがルソーの論点でした。この一節をもって、リスボンは「自然災害は実は人災である」という近代防災思想の出発点とされます。地震そのものは止められなくても、被害の大部分は建て方で減らせる。この考え方の転換は、防災を宗教の問題から工学と政治の問題へと移し替えた、静かな革命でした。
以後の歴史は、この学習の反復でした。関東大震災が日本の耐震工学を生み(日本編)、1906年サンフランシスコ地震と1971年サンフェルナンド地震が米国の基準を書き換え、阪神・淡路が免震・制振を普及させ、唐山と汶川が中国の校舎を作り直させました。日本編で書いたとおり、1923年の関東大震災は、それまで理論の段階にあった耐震設計を一気に制度へと押し上げ、翌年には設計に地震の力を織り込むことが法に書き込まれます。米国では、1906年のサンフランシスコの倒壊と大火が都市の防火・構造を、1971年のサンフェルナンドの被害が病院や学校といった重要施設の基準を、それぞれ書き換えました。中国では、数十万人ともいわれる犠牲を出した1976年の唐山、そして2008年の汶川で多くの校舎が倒れた痛恨が、公共建築の耐震を作り直させています。どの国でも、基準は揺れのあとに、失われた命の重みを引き受けて改められてきました。
そして2023年のトルコ・シリア地震は、基準が「あっても守られない」とき——違法建築を事後に合法化する政治が続いたとき——に何が起きるかを、5万人超の死をもって示しています。トルコには決して低くない耐震基準がありました。問題は基準の不在ではなく、その執行の空洞化でした。違法に建てられた建物を、罰金を払えば後から合法とみなす仕組みが繰り返され、守らない方が得をする構造が積み上がっていた。人類は揺れるたびに賢くなってきましたが、その知識を執行する意志は、いまだに政治の関数なのです。ここには、規模の大小を超えて、日本の町場の現場にも通じる教訓があります。基準を知っていることと、一件ごとの現場でそれを守り切ることは別の努力であり、後者を支えるのは、結局のところ現場の記録と検査と、手を抜かないという意志です。血で書かれた条文を、次はだれかの血で確かめずに済ませられるかどうかは、平時の地味な積み重ねにかかっています。
建設史の主役を宮殿と橋から「ふつうの家」に移すと、まったく別の人類史が見えてきます。これまでの各編で私が語ってきたのは、記録に残る建設——名前のある建築家、費用のかかった記念碑、歴史書に載る大工事——でした。しかしそれは、人類が実際に建ててきたものの、ごく薄い上澄みにすぎません。歴史に残らない、けれど圧倒的多数を占める建設が、その下に広がっています。
まず、驚くべき事実から。人類が建ててきた建物の圧倒的大多数は、建築家も技師もゼネコンも関与せず、住む人自身とその共同体の手で建てられてきました。イグルー、ゲル、日干し煉瓦の中庭式住居、合掌造り、高床の家——1964年、バーナード・ルドフスキーはニューヨーク近代美術館の展覧会「建築家なしの建築」で、これらヴァナキュラー(風土的)建築が、気候と資源への何世代分もの最適化を宿した高度な工学であることを示しました。それまで「建築の歴史」といえば、様式の名を持つ記念碑の系譜を指すのが常識でした。ルドフスキーは、名もなき住まいこそが、その土地の気候・材料・暮らしに何百年もかけて磨かれてきた合理の結晶であることを、世界中の写真を並べて突きつけたのです。
冷房のない砂漠の風採り塔、雪の重みを流す急勾配の茅屋根。近代建築が忘れ、パッシブデザインの名で再発見しつつある知恵の多くは、無名の住まい手たちが数百年かけて書いたコードです。乾いた熱地では、高い塔で上空の風を捕らえて室内に落とし、水面を通して冷やす。雪深い土地では、屋根の勾配を強くして雪を自ら滑り落とさせ、深い軒で壁を守る。強い日射の地では、厚い土壁が昼の熱をため込み、冷える夜にゆっくり放って室温をならす。どれも、電力にも機械にも頼らず、その土地の条件だけで快適さを立ち上げる工夫です。いま省エネ建築の最前線が「機械に頼らず環境をいなす」設計に回帰しているのは、無名の先人が書き残したこのコードを、私たちが読み直しているということにほかなりません。日本の町場の家づくりが受け継いできた、通し土間や深い庇や続き間の知恵も、同じ系譜に連なる、名もなき工学です。
ヴァナキュラー建築が優れているのは、それが「その場所限定」の解だからでもあります。同じ茅葺きでも、風の向きや雪の量が変われば勾配も向きも変わる。近くで採れる木、土、石、草を使い、地域の職人が地域の気候に合わせて調整してきたからこそ、材料の輸送も要らず、壊れても同じ手で直せる。近代の工業化された建築が、どこでも同じ規格の部材を運び込んで組み立てるのとは、根本の思想が逆です。効率と均質さを追った近代建築が失ったのは、この「土地に根ざす」という強みでした。地域の材料と、地域の職人と、地域の気候をつなぐ小さな循環——それは、遠い異国の話ではなく、いまも日本の各地で地場の工務店が担っている営みそのものです。名もなき住まいの工学は、過去の遺物ではなく、現役の知恵なのです。
その自律的な住まいの世界に、産業革命が住宅問題という爆弾を投げ込みました。都市に吸い寄せられた労働者は劣悪な過密長屋に詰め込まれ、1872年、エンゲルスが「住宅問題」を書いて以来、「まともな住まいを誰がどう供給するか」は近代国家の中心的難問になります。それまで、家は住む人と地域の共同体が自分たちで建てるものでした。ところが工業化で人が都市に激しく流れ込むと、この自給の仕組みが追いつかなくなる。土地は投機の対象になり、家賃を払えない労働者は日当たりも換気もない部屋に折り重なって住む。ここで初めて、住まいが個人と共同体の手を離れ、「社会が供給を保証すべきもの」として国家の課題の中心に上がってきたのです。
20世紀は、その解答の壮大な実験場でした。赤いウィーンの労働者宮殿カール・マルクス・ホーフ(1930年、全長1km超)。米国のレヴィットタウンと持ち家郊外(米国編)。ソ連圏のフルシチョフカ数千万戸(欧州編)。日本の団地とハウスメーカー(日本編)。全長1kmを超えて連なるカール・マルクス・ホーフは、単なる集合住宅ではなく、中庭も保育所も洗濯場も備えた「労働者のための宮殿」を目指した、政治の意志そのものの建築でした。米国は郊外に規格化した戸建てを流れ作業のように量産し、持ち家という夢を大衆に開きます。ソ連圏は工場でつくったコンクリート板を積み上げるだけの住棟を、質より速さで数千万戸ばらまいて、とにもかくにも一家族一住戸を実現しようとしました。方式も思想もばらばらですが、いずれも「まともな住まいを万人に」という同じ問いへの、それぞれの国の解答でした。
そしておそらく最も成功した実験が、シンガポールのHDBです。国民の約8割が公共住宅に住み、その9割が自宅を所有する——公営住宅を福祉の残余ではなく国民資産形成の装置に変えたこのモデルは、住宅政策の世界史における例外的な成功例とされます。多くの国で公営住宅は「他に選択肢のない人が住む場所」という位置づけにとどまり、しばしば貧困が集中して荒廃していきました。シンガポールはこれを逆転させます。長期のローンで住戸そのものを住民に所有させ、公共住宅を「賃貸の受け皿」から「持ち家による資産形成の入り口」へと組み替えた。住まいが将来売買できる資産になれば、住民はそれを大切に維持し、地域に根を張る。福祉として配るのではなく、資産形成の装置として設計したことが、この例外的な成功を支えました。誰のために、どういう仕組みで住まいを供給するか——その設計思想の違いが、同じ「公共住宅」からまったく異なる結果を生むことを、20世紀の実験群は教えています。

失敗もまた、雄弁でした。1972年7月15日、セントルイスの公営住宅プルーイット・アイゴーが、完成からわずか18年でダイナマイト解体されます。受賞歴のある近代建築の団地が、維持費の欠如と貧困の集中と管理の放棄の中で荒廃し、爆破される映像は世界に流れ、建築史家はこれを「近代建築が死んだ日」と呼びました。この団地は、竣工当時は近代都市計画の理想を体現するものとして評価され、設計そのものは高く買われていました。高層の住棟を緑地の中に整然と並べ、光と風と衛生を貧しい人々に届ける——図面の上では、確かに正しかったのです。
ところが、その理想は現実の前で崩れます。維持補修の予算は削られ続け、エレベーターや共用部は壊れたまま放置され、荒れた環境がさらに住民を遠ざけ、空室が空室を呼ぶ悪循環が回りました。設計の美しさは、貧困の集中と、維持を担う仕組みの欠落を、埋め合わせることができなかった。建物のデザインだけでは社会問題は解けない——そして維持されない建物は、建てられた瞬間から廃墟に向かう。この二つが、爆破の白い煙とともに世界に刻まれた教訓でした。アンコールの水路とモランディ橋とプルーイット・アイゴーは、同じ一つの教訓の三つの顔です。壮麗に築いても、保つ仕組みを欠けば、水路は干上がり、橋は落ち、団地は爆破される。この「保つことの重み」は、後で述べる五つの真理の第四に、そのまま引き継がれていきます。
そして現在。国連の推計で、世界の約11億人がスラム・インフォーマル居住区に暮らしています。世界で最も大きな「建設セクター」は、実は各国のゼネコンでも中国国有企業でもなく、グローバル・サウスの人々が自らの手で、許可も図面もなしに建て続けるインフォーマル建設です。都市に流れ込んだ膨大な人々が、公的な供給を待てずに、空き地や斜面や河岸に、手に入る材料で自分の家を建て、少しずつ増改築していく。この営みは統計にも歴史書にも載りませんが、面積でも戸数でも、正規の建設産業をはるかに上回っています。ギョベクリ・テペから1万年、人類の過半は都市に住むようになりましたが、その住まいの相当部分は、いまも「建築家なしの建築」なのです。第10章の冒頭で見たヴァナキュラー建築の系譜は、遠い過去の話ではなく、いま世界の巨大都市の縁で、現在進行形で書き継がれています。
このインフォーマル建設を、ただ無秩序として片づけることはできません。そこには、限られた材料でどう雨風をしのぐか、どう少しずつ増改築して家族の成長に合わせるか、どう近所と助け合って一区画を立ち上げるかという、生きた工学と社会の知恵が詰まっています。近年は、こうした自力建設を否定して更地から作り直すのではなく、道と水と電気の骨格だけを公が整え、住まいそのものは住民の手に委ねて少しずつ改良していく——という復権の考え方も広がってきました。上から完成品を配るのではなく、住み手の建てる力を前提に、それを支える最小限を用意する。これは、第10章の冒頭で見た「住み手が建てる」という人類の常態を、現代の都市政策の中に組み込み直す試みだといえます。
住宅危機は途上国だけの話ではありません。主要先進国の大都市はほぼ例外なく、供給の停滞と価格高騰という同じ病を抱え、「建てる能力はあるのに、建てる合意が作れない」という新しい形の住宅問題——規制、合意形成、土地の政治——に直面しています。かつての住宅問題が「建てる技術も資金も足りない」ことだったとすれば、いまの先進国の住宅問題は、その正反対です。建てる技術も、資材も、資金も、担い手もある。それでも家が足りず、値段が上がり続ける。理由は、どこに何をどれだけ建てるかの合意が作れないことにあります。既存の住民の反対、複雑な規制、土地をめぐる利害——技術ではなく調整が、供給の首を絞めているのです。人類は建て方を極めましたが、「誰のために建てるか」の答えは、いまだ出せていません。日本の地方で空き家が増える一方、都市部では住まいが手の届かないものになっていく。この需給のねじれもまた、技術ではなく合意の問題であり、町場の建設業がこれから向き合う課題の一つです。

この長い物語の最後に、現在地を確認します。40万年前の炉のそばから、地球の外の炉のそばまで来た「建てるヒト」は、いまどこに立っているのか。三つの座標で、その現在地を測ってみます。
第一に、建設は「最後のクラフト産業」として、近代化の宿題を積み残したままです。各国編で繰り返し見たとおり、製造業の生産性が戦後に何倍にもなる中で、建設業のそれは先進各国でほぼ横ばいでした。同じ工業化の時代を生きながら、工場の中の産業は生産性を桁で伸ばし、現場の産業はほとんど足踏みしてきた——この落差は、ひとつの国の怠慢ではなく、先進国にほぼ共通して観察される、根の深い現象です。理由は産業の本質にあります——製品が一品生産で、工場ではなく現場で作られ、産業がどの国でも数十万の零細企業に断片化している。同じ家は二つとなく、つくる場所も毎回違う屋外の現場で、天候にも地盤にも左右される。しかも産業全体が、数人規模の無数の事業者に細かく分かれている。工場のように条件を固定して繰り返すことが、そもそも難しい構造なのです。
水晶宮からフルシチョフカ、レヴィットタウン、メタボリズム、そしてKaterraの破綻(米国編)まで、「建設を製造業に変える」夢は170年間繰り返し挑まれ、部分的成功と壮大な失敗を繰り返してきました。ガラスと鉄の部材を工場でつくって現場で組み立てた1851年の水晶宮から、コンクリート板を積むだけのソ連の住棟、流れ作業の米国郊外住宅、部品の交換で都市が新陳代謝するという日本のメタボリズムの構想、そして工場生産で建設を一変させようとして巨額を投じながら破綻に至った近年の米国スタートアップまで——「現場の産業を工場の産業に変える」という夢は、世代を替え、国を替えて、何度も挑まれてきました。そのたびに、ある部分では成功し、しかし産業全体を作り変えるところまでは届かずに終わっています。
いま、その夢は形を変えて再挑戦されています。工場での木造モジュール化、3Dプリンティング、自動化重機(鹿島のダム自動化、日本編)、そして設計から現場までを情報でつなぐソフトウェアとAI。今度の波の特徴は、断片化した産業構造を無理に統合するのではなく、断片化したまま情報の層でつなごうとしている点にあります。これまでの挑戦の多くは、無数の零細な担い手を一つの巨大企業に束ね、工場の中に建設を囲い込もうとして、産業の分散した現実とぶつかって挫けました。今度の波は発想が逆です。無数の事業者が別々のままでいい。その代わり、設計図も工程も原価も安全も、共通のデータの層でつないでしまえば、分散していても一つの産業のように動ける——そういう賭けです。40万年間、図面と口伝と現物合わせで伝えられてきた建設の知が、初めて計算可能なデータになりつつある——これは、楔形文字の労務記録以来の、建設と情報の関係の最大の転換かもしれません。年表の冒頭近くに置いた、会計係クシムの名を刻んだ最古級の文書が建設と配給の労務記録だったことを思い出せば、建設と「記録すること」は、文明の最初から分かちがたく結びついていました。その記録が、粘土板から紙を経て、いま初めて計算できるデータになる。私たちコンクルーがこの産業でAIの道具を作っているのも、この転換の入り口に立ち会っているという実感があるからです。分散したまま情報でつなぐという今度の道は、無数の零細企業でできている日本の町場の建設業にこそ、素直に効くはずだと私は考えています。
第二に、建設は気候の時代の主戦場になりました。人工物質量が生物量を超えた惑星で、セメントの脱炭素、既存ストックの改修(欧州のリノベーション・ウェーブ)、都市の緻密化、木造への回帰、そして「新しく建てない」という選択肢までが、建設の課題になっています。人類が積み上げてきたコンクリートと鉄とアスファルトの総量が、地球上の生きとし生けるものの総重量を上回ったという推計は、建設という営みがもはや地質学的な規模の力になったことを告げています。だとすれば、その力の使い方そのものが問われます。セメントをどう脱炭素化するか、すでに建ってしまった膨大なストックをどう改修して使い延ばすか、街をどう緻密にして移動とエネルギーの無駄を減らすか、鉄とコンクリートから木へどう回帰するか——そして時には「そもそも新しく建てない」という選択さえ、立派な建設の答えになる。1万年前、建設は文明を点火しました。いま問われているのは、建設が文明を持続可能にできるか、です。作ることと同じくらい、作らずに保つこと・活かすことが価値を持つ時代に、私たちは入りつつあります。

第三に、人類は地球の外で建て始めようとしています。国際宇宙ステーションは、総費用約15兆円——人類が建てた単一の構造物として史上最高額です。何十回もの打ち上げで部材を軌道に運び、無重力の真空の中で、複数の国が数十年をかけて組み上げたこの構造物は、費用の点でも、協力の規模の点でも、人類がこれまで建てたどの記念碑をも超えています。第2章のバベルの塔の神話が言い当てたように、巨大建設の核心はいつも「大人数をどう協力させるか」でした。国境も重力も超えて多国が一つの構造物を組み上げた宇宙ステーションは、その協力の技術が到達した、現時点での頂点です。月では、レゴリス(月の土)を焼結・3Dプリントして基地を作る研究が各国で進み、米国の3Dプリント住宅スタートアップがNASAの月面建設契約を受けています。地球から資材を運ぶ費用は途方もないので、月で建てるなら、月にある土をそのまま材料にするしかない。足元の土を焼き固め、あるいは積層して構造物にするというこの発想は、実は1万年前、人類が足元の泥を日干し煉瓦にして最初の壁を積んだときと、根っこは同じです。テラ・アマタの小屋から40万年、ブリュニケルの洞窟の闇から17万年。建てるヒトは、ついに大気圏の外に炉を据えようとしているのです。炉のそばに集まって身を寄せ合うことから始まった建設が、いま別の天体で、また新しい炉に火を入れようとしている——連載の締めくくりに、私はこの往復に静かな感慨を覚えます。
最後に、この第5部全体の主張を、五つに要約します。第一に、建設は文明の結果ではなく原因である——神殿が農業を促し、労務管理が文字を生み、灌漑が国家を育てた。ギョベクリ・テペの巨石群が農耕に先立って立てられたという事実は、「豊かになったから建てた」のではなく「建てるために集まり、支えるために農を始めた」という順序を示唆します。建設は、文明が生んだ果実ではなく、文明に点火した火だったのかもしれません。第二に、建設は知識の母である——幾何学も暦も官僚制も保険も地震学も構造力学も、建てることと壊れることから生まれた。土地を測り分けるために幾何が、季節を読むために暦が、大人数を動かすために官僚制と文字が、そして本章で見たとおり、燃えたロンドンから保険が、揺れたリスボンから地震工学が生まれました。人類の知の多くは、建てる必要と、壊れた痛みから絞り出されてきたのです。
第三に、建設の主役は常に無名の移動する労働者だった——賦役の農民からナヴィー、農民工、カファラの出稼ぎまで、その系譜への負債はまだ清算されていない。ピラミッドを積んだ農閑期の民、鉄道を敷いた移動労働者、都市を建てて自らはそこに住めなかった農民工、湾岸の高層を築いた出稼ぎ労働者——歴史に名を刻んだ王や建築家の陰に、名を残さぬまま建て続けた圧倒的多数がいました。私たちが受け取っている都市は、その人々への、まだ返しきれていない負債の上に建っています。第四に、建てることの半分は保つことである——伊勢とジェンネとケスワチャカが知っていて、アンコールとモランディ橋が忘れたこの真理が、老朽インフラの時代の最重要原則になる。式年遷宮で技術ごと更新し続ける伊勢、毎年みなで塗り直すジェンネの泥のモスク、共同体が毎年架け替えるインカの吊り橋ケスワチャカ——これらは「保つために作り続ける」ことを制度に組み込んでいました。逆に、保つ営みが途切れたとき、壮麗なアンコールの水利は機能を失い、モランディ橋は落ちた。作ったものは、保たれなければ、作った瞬間から朽ちていく。これは、膨大なストックを抱えた日本の、これからの最重要原則でもあります。
そして第五に、私たちは建てたものに建てられ返す。チャーチルは空襲で壊れた議事堂の再建討議で、「われわれが建物をかたちづくり、その後は建物がわれわれをかたちづくる」と述べました。私たちが選んだ間取りが暮らし方を決め、私たちが引いた道路が街の形を決め、私たちが積んだ壁が「内」と「外」を分けて人間関係を組み替える。建てた側が、建てたものによって作り変えられていく。ギョベクリ・テペの石柱が狩猟民を農民に変えて以来、この往復運動こそが人類史の隠れた駆動装置でした。第1章で狩りをやめて壁を築いた一つの類人猿が、この往復の中で少しずつ「建てるヒト」になっていったのです。次の一万年に人類が何になるかは、かなりの部分、これから何をどう建てるかが決めることになります。
この五つの真理は、遠い過去を説明するためだけのものではありません。私は、これらを日々の現場に引きつけて読みたいと思っています。文明の原因であるという第一の真理は、建てる仕事が単なる下請けではなく、社会の土台をつくる営みであることを思い出させます。知識の母であるという第二は、現場で積み重ねられる経験の一つひとつが、まだ言葉になっていない知恵であることを教えます。主役は無名の労働者だという第三は、いま現場に立つ職人への敬意を求めます。建てることの半分は保つことだという第四は、新築が細っていくこれからの日本で、改修と維持こそが仕事の中心になることを告げています。そして、建てたものに建てられ返すという第五は、私たちの手がけた一軒一軒が、そこに住む人の暮らしを静かに形づくっていく責任を、あらためて突きつけます。40万年の歴史は、抽象的な教訓ではなく、明日の現場への具体的な問いとして、私たちの前にあります。
米国150年、日本1400年、中国2200年、ヨーロッパ2000年、そして人類40万年。全25回の長い連載に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。振り返れば、私が各国編でお伝えしたかったのは、建設が単なる産業の一分野ではなく、人間が人間であることの根っこに触れる営みだ、ということでした。壁を築いて内と外を分けたときから、私たちは協力し、蓄え、争い、保ち、次の世代に手渡してきた。その長い連なりの最先端に、いま現場に立つ私たちがいます。この歴史の次の一行を書くのは、いま現場にいる私たち一人ひとりです。
年代 | 人類史の出来事 | 建設史の出来事 |
|---|---|---|
約40万年前 | ホモ・サピエンス以前のヒト属 | テラ・アマタの小屋跡(解釈に議論あり)、炉=住まいの原点 |
約17.6万年前 | ネアンデルタール人の時代 | ブリュニケル洞窟の石筍構造物=知られる限り最古の「建設」 |
約1.2万年前 | 氷期の終わり、定住の開始 | ギョベクリ・テペの神殿群——農業に先立つ巨石建設 |
約1万年前 | 農業革命(麦の栽培化) | イェリコの塔と壁、日干し煉瓦=最初の規格建材 |
約9000年前 | 定住社会の拡大 | チャタル・ヒュユク——道のない蜂の巣状都市 |
約5200年前 | 文字の発明前夜 | ニューグレンジ(冬至の光の墳墓)、ウルクで灌漑都市化 |
前3200頃 | 楔形文字の誕生 | 最古の文書群は建設・配給の労務記録(会計係クシム) |
前2500頃 | エジプト古王国/インダス文明 | ギザ大ピラミッド(メレルの輸送日誌)、モヘンジョダロの都市下水、ストーンヘンジ |
前1754頃 | ハンムラビ王のバビロン | 法典229条=世界最古の建築責任法 |
前600頃 | 新バビロニア帝国 | エテメナンキ(バベルの塔の原像) |
前312 | ローマ共和政の拡大 | アッピア街道——帝国=道路網の発明(インカも後に独立に発明) |
128頃 | ローマ帝国最盛期 | パンテオン——コンクリートの古代的頂点 |
476以後 | 西ローマ崩壊、中世へ | コンクリート製法の喪失(約1300年間) |
690 | 日本、律令国家の形成 | 伊勢神宮で第1回式年遷宮——「更新による永続」の思想 |
1144–1284 | 中世盛期の都市と信仰 | ゴシックの高さ競争、ボーヴェの崩落 |
1311頃 | 中世温暖期の繁栄 | リンカン大聖堂の尖塔がギザを抜く——3800年ぶりの高さ更新 |
15世紀 | インカ帝国の絶頂 | カパック・ニャン4万km(車輪も鉄も文字もなしに) |
1420–36 | ルネサンス | ブルネレスキのドームと史上初の特許 |
1666 | 近世ヨーロッパの都市化 | ロンドン大火→建築規制と火災保険(保険業の誕生) |
1755 | 啓蒙の世紀 | リスボン地震→近代防災・地震工学・「災害は人災」思想の誕生 |
1768 | 産業革命の開始 | スミートン「シヴィル・エンジニア」を名乗る——戦争からの独立宣言 |
1779–1856 | 工業化の世紀 | アイアンブリッジ、ポルトランドセメント、ベッセマー鋼——素材の三連革命 |
1840s | 鉄道狂時代 | 「請負業者」という職業の確立(ブラッシー)、ナヴィー=移動労働の原型 |
1853–58 | 万国博覧会の時代 | オーチスのエレベーター実演、ロンドン大悪臭→下水道革命 |
1867–92 | 帝国主義の絶頂 | 鉄筋コンクリートの発明とライセンス世界展開 |
1872 | 労働運動の高揚 | エンゲルス「住宅問題」——住宅が国家の課題になる |
1885–89 | 第二次産業革命 | 初の鉄骨高層(シカゴ)、エッフェル塔——高さの近代へ |
1919–37 | 大戦間期 | ヘルメット商品化、ゴールデンゲートの安全革命(ネットが19人を救う) |
1930–31 | 世界恐慌 | カール・マルクス・ホーフ、エンパイア・ステート410日——社会住宅と摩天楼の同時代 |
1933–45 | 全体主義と世界大戦 | 強制労働による建設の最暗部(トート機関・白海運河・花岡) |
1943 | 大戦下の英国 | チャーチル「建物がわれわれをかたちづくる」演説 |
1947–60s | 戦後復興と冷戦 | レヴィットタウン、フルシチョフカ、団地、HDB——住宅の世紀 |
1963–64 | 高度成長の世界 | CADの原型サザランドのSketchpad、ルドフスキー「建築家なしの建築」 |
1972 | 近代への懐疑 | プルーイット・アイゴー爆破——「近代建築が死んだ日」 |
1994–2016 | グローバル化の絶頂 | 英仏海峡トンネル、ゴッタルド57km——国境を消す建設 |
2010 | 金融危機後の世界 | ブルジュ・ハリファ828m——摩天楼指数の最新実演 |
2018 | インフラ老朽化の時代 | モランディ橋崩落——「造る」から「保つ」への世界的転換点 |
2020 | パンデミック | 火神山10日間の建設、そして人工物質量が全生物量を超える |
2021–25 | 気候危機と分断 | 中国の超高層規制、改修の波、木造回帰、建設DXとAI、月面建設研究——建てるヒトの次章へ |
人類40万年の話は、ここまでです。このシリーズにはアメリカ150年・日本1400年・ヨーロッパ2000年・中国2200年の各国編と、ここから先を考える建設の未来 2026-2075があります。過去を長く見るほど、未来は落ち着いて見えます。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。先史時代の解釈(テラ・アマタ、ギョベクリ・テペの機能など)や統計値(人工物質量、CO2比率、スラム人口等)には学術的議論や推計幅があります。個別の事実を意思決定や対外資料に用いる際は一次資料での確認をおすすめします。