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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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コンクリートも「請負業者」という職業も、建設業のほぼすべての原型はヨーロッパ生まれ。ローマの軍団、失われた1300年、大聖堂のギルド、ブルネレスキ、フランスの国家エンジニア——連載欧州編の第1回です。
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米国、日本、中国と読んできた連載「建設業の歴史」、最終部の第4部はヨーロッパです。
ヨーロッパは、建設業のほとんどすべての原型を発明した大陸です。コンクリートも、セメントも、鉄筋コンクリートも、シールドトンネルも、「請負業者(コントラクター)」という職業そのものも、そして建設会社が造った道路や空港を自ら運営して稼ぐ「コンセッション」という業態の未来形も、すべて欧州で生まれました。米国の建設業が「商人」、日本が「棟梁」、中国が「国家」を主語とするなら、欧州の建設業の主語は時代とともに入れ替わります——ローマの軍団、中世のギルド、産業革命の請負業者、全体主義の動員機関、そして現代のインフラ資本。この欧州編では、古代ローマから現在までを5回に分けて描き、米・日・中の各編との交差点も随所に織り込みます。
私が欧州編を書くにあたって最初に感じたのは、この大陸の建設史が「発明の連鎖」であると同時に「忘却と再発見の連鎖」でもある、という二重性でした。ローマが極限まで高めた技術は帝国の崩壊とともに消え、中世はゼロから石を積み直し、ルネサンスは古代を掘り起こし、産業革命はまた別の素材で空間を架け直しました。日本の連載で私は「技能をどう次代に渡すか」を繰り返し問うてきましたが、その問いに対して欧州の千年史は、成功例も失敗例も、両方を惜しみなく見せてくれます。まずは第1回、古代ローマから近世フランスまで、建設業の「制度」と「素材」の源流を辿ります。
この回で追いかけるのは、二つの太い糸です。一つは「素材」の糸——コンクリートという材料が生まれ、失われ、やがて甦る物語。もう一つは「組織」の糸——誰が設計し、誰が施工し、その二つがいつ分かれたのかという物語です。この二本の糸は、大聖堂の現場で、ルネサンスの工房で、フランスの技官学校で、幾度も絡み合いながら現代へと伸びていきます。派手な塔や橋の背後で、実は「人と技術をどう組織するか」という、私たち経営者にとって身近な問いが千年にわたり問われ続けてきた——そう思って読んでいただけると、遠い異国の古い話が、少しだけ手元に引き寄せられるはずです。


ヨーロッパ建設業の物語は、紀元前312年のアッピア街道から始めるのが正しいでしょう。ローマは世界初の「建設帝国」でした。総延長8万kmを超える舗装街道網、都市に水を運ぶ水道橋(南仏のポン・デュ・ガールは今も立っています)、そして何より、火山灰(ポッツォラーナ)と石灰を混ぜた人類初のコンクリート——オプス・カエメンティキウム。128年頃に完成したパンテオンの直径43mのドームは、無筋コンクリートのドームとして今なお世界最大です。
ローマの建設が飛躍的だったのは、それ以前の文明との対比で際立ちます。ギリシャの神殿は、基本的に石の柱と石の梁を組み合わせた「梁と柱」の建築でした。石は圧縮には強くとも引っ張りには弱いため、梁として渡せる長さには限りがあり、内部空間はどうしても列柱で細かく区切られます。ローマ人はここに二つの武器を持ち込みました。一つはアーチ——弧を描いて荷重を左右へ分散させる構造で、これによって谷を越える水道橋や、幾層にも積み上がる闘技場が可能になります。もう一つがコンクリートです。型に流し込めば固まって石になるこの材料は、石を一つずつ切り出して積む手間を要さず、巨大な内部空間を一体で覆うことを可能にしました。パンテオンの巨大ドームは、この二つの技術が到達した頂点です。
道路もまた、帝国の物理的な骨格でした。「すべての道はローマに通ず」という言葉が残るとおり、街道は軍団を素早く辺境へ送り込み、徴税と交易を支える帝国の血管でした。ローマの街道は、路盤を何層にも突き固め、表面を石で舗装した堅牢なもので、一定間隔にはローマまでの距離を刻んだ里程標(マイルストーン)が立ちました。私たちが今も工程の節目を「マイルストーン」と呼ぶのは、この石柱の名残です。水道橋のポン・デュ・ガールにしても、それ自体が目的の建造物ではなく、水源から都市までなだらかに水を落とし続ける長大な水道網の、谷を越える一区間に過ぎませんでした。目に見える構造物の裏に、測量と土木の膨大な体系が横たわっていた——ここにローマ建設の凄みがあります。
注目すべきは、これを建てたのが主に軍団兵だったことです。ローマ軍は戦うだけでなく、道路と橋と要塞を建設する工兵組織でもありました。戦争をしていない平時の軍団は、街道を敷き、宿営地を築き、水道を通す膨大な労働力そのものだったのです。国家が計画し、軍と(多くの場合は)奴隷が実行する——この構図は、中国編で描いた動員国家の性格を、地中海世界のローマもまた濃く帯びていたことを示します。国家の武装組織が建設部隊を兼ねるという発想は、中国編で見た人民解放軍鉄道兵の、2000年前の先例と言えるでしょう。ウィトルウィウスの「建築十書」は、この帝国の建設知識を体系化した、西洋最古の建築理論書として後世に残されました。彼が説いた「用・強・美(firmitas, utilitas, venustas)」——建物は頑丈で、役に立ち、美しくあれ——という三原則は、2000年を経た今日でも建築の根本理念であり続けています。
そしてローマ帝国の崩壊とともに、驚くべきことが起きます。コンクリートの製法が失われたのです。西ローマ帝国が滅びる(476年)と、火山灰を配合する知識も、大規模な現場を組織する技術も、多くが担い手ごと散り、以後およそ1300年間、ヨーロッパはコンクリートなしで建設を続けることになります。技術は進歩するだけでなく、忘れられもする——建設史が教える謙虚な事実です。皮肉なことに、ローマのコンクリートは現代のものより長持ちすることさえ知られています。海中で2000年立ち続ける港湾構造物や、ひび割れが時とともに埋まっていくような性質は、近年あらためて研究の対象になっているほどで、製法が失われたことがいかに大きな損失だったかを物語ります。私はこの一節を、古代の逸話としてだけは読めません。町場の親方の頭の中にしかない配筋の勘や納まりの工夫も、それを書き残し、次の世代の手に渡す仕組みがなければ、一代で静かに消えていきます。ローマの喪失は、規模こそ違え、いま日本の現場で進んでいることの遠い鏡なのです。
失われた技術の空白を埋め、ヨーロッパ建設を再定義したのが、中世の大聖堂建設でした。11世紀以降、都市の成長と信仰の高まりを背景に、ヨーロッパ各地で競うように巨大な教会が建てられます。最初の様式はロマネスク——厚い壁と半円アーチで支える、どっしりとした構えの建築でした。ところが12世紀半ば、パリ近郊のサン・ドニ修道院(1144年)を皮切りに、革命的な新様式が生まれます。ゴシックです。
ゴシック建築は、尖頭アーチ、リブ・ヴォールト(骨組みで支える天井)、フライング・バットレス(外部から壁を支える飛梁)という三点セットで、石の壁を光の壁に変えました。荷重を柱と飛梁へ巧みに逃がすことで、壁を薄く、窓を大きく、天井を高くできるようになったのです。この技術に押されて、大聖堂はノートルダム(パリ、1163年着工)、シャルトル、ランス、アミアン、ケルンへと競うように高く伸びていきます。なかでもケルン大聖堂は、1248年の着工から完成まで、中断を挟んで632年を要しました。世代を超えるどころか、王朝を超える工期です。着工した石工の孫の孫の、そのまた先の世代が、ようやく尖塔の頂を見たことになります。
これほどの長期プロジェクトを支えたのは、都市そのものの意地でした。大聖堂は信仰の器であると同時に、隣の街より高く、より明るく、より壮麗にという都市間の競争の舞台でもあり、市民は献金と労役でこれを支えました。数十年から数世紀に及ぶ工事の資金を、途切れさせずに繋いでいく——現代のプロジェクトファイナンスの原型が、そこにはあります。石を切る石工、木を組む大工、鉛でガラスをつなぐ職人、鐘を鋳る鋳物師といった多職種が、一つの現場で長期にわたり協働する。工程を管理し、職人の入れ替わりを乗り越えて品質を保つという課題に、中世の現場はすでに正面から向き合っていました。数十年かけて一つのものを造り上げる胆力は、今日の私たちが短工期に追われるなかで、かえって新鮮に映ります。
ここで重要なのは、建設を担った人々の組織です。現場を統括したのは「マスター・メイソン(親方石工)」——設計者と施工者と構造技術者を一人で兼ねる存在で、日本の宮大工の棟梁とまったく同じ職能でした。石を刻む石工たちは、移動する職能集団としてギルド(同業組合)を作り、技能を段階的に伝承しました。徒弟(アプレンティス)から職人(ジャーニーマン)、そして親方(マスター)へと昇進するこの階梯は、技能の品質を保証すると同時に、賃金と労働の秩序を守る仕組みでもありました。彼らが現場に建てた作業小屋兼組合を「ロッジ(lodge)」と呼び、技能を秘伝として囲い込みます。このロッジの伝統こそ、後の友愛結社フリーメイソンの起源です。13世紀のヴィラール・ド・オヌクールが遺した画帖は、幾何学から機械、彫刻までを含むマスター・メイソンの知識の広さを、今に生き生きと伝えています。ギルドが果たした役割は、単なる技能の伝承にとどまりません。誰を親方と認めるか、どんな仕事を品質基準に達したものとするか、賃金や労働時間をどう定めるか——今日でいえば資格制度と品質保証と労働協約を一つの組織で担っていました。手を抜いた仕事は組合の名を汚すものとして戒められ、技能はいわば集団の資産として管理されたのです。これは、職人一人ひとりの腕に頼りながらも、その腕を個人の裁量任せにしないための、中世なりの知恵でした。人が育つ仕組みと品質を守る仕組みを切り離さずに設計するという発想は、担い手不足に悩む現代の建設現場にも、静かに響いてきます。フランスでは職人が全国の親方の下を遍歴して腕を磨く「コンパニョナージュ」の制度が発達し、これは現在もユネスコ無形文化遺産として生き続けています。米国が近代になって発明する「設計と施工の分離」は、この中世ヨーロッパにはまだ存在しませんでした。設計する頭と施工する手が一人の親方に宿るという点で、中世欧州と日本は驚くほど似た地平に立っていたのです。

1420年、フィレンツェで転機が訪れます。金細工師出身のブルネレスキが、誰も架け方を知らなかった大聖堂の巨大ドーム(内径約45m)を、型枠なしの二重殻構造という独創で架けてみせたのです。当時、これほどの径を内部足場なしで覆う方法は失われており、彼は古代のパンテオンをわざわざ研究してその解法にたどり着いたと伝えられます。二枚の殻の間に人が入れる空隙を設け、煉瓦を魚の骨のように斜めに積み上げていく工法は、それまでの常識をことごとく外れたものでした。積み上げの途中でドームが自らの重みで崩れないよう、水平方向に石や鎖の輪を巡らせて外へ開こうとする力を抑える——構造を数学的に読み解いて工法を組み立てるという、後の構造技術者に通じる思考が、ここに芽生えています。
彼はこの工事のために巨大クレーンや運搬船を発明し、1421年にはその運搬船で史上初とされる「特許」を取得しました。建設機械が、特許制度そのものを生んだのです。設計する者が、その工夫によって報われるべきだ——知的財産という近代的な発想の萌芽が、ここにあります。そして何より、ブルネレスキは「図面と模型で構想する建築家」と「施工する職人」の分離——ルネサンス以降の西洋建築の基本構造——の出発点になりました。少し後、レオン・バッティスタ・アルベルティは『建築論』(1450年頃)を著し、「建築家は図面と模型で構想を示す者であり、自ら石を積む職人ではない」と両者をはっきり区別します。やがてミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂のドームを設計し、パラディオが著書『建築四書』で古典の秩序を体系化すると、印刷技術に乗ったその図面と理論はヨーロッパ中に広まりました。「設計は紙の上で、遠隔地の建築家が行い、施工は現地の職人が担う」という分業がこうして定着していきます。米国編で見た「設計と施工の分離」の遠い源流は、ここにあります。頭と手が分かれることは、後に大規模で複雑な工事を組織する力を生む一方、現場の暗黙知が図面に載りきらないという、今日まで続く緊張の始まりでもありました。設計者が現場を離れて紙の上で建物を構想できるようになった結果、一人の建築家が同時に複数の遠隔地の工事に関与し、様式を国境を越えて広めることが可能になりました。ルネサンス建築が一地方の流儀にとどまらず、ヨーロッパ全域の共通言語になり得たのは、この分離があってのことです。裏を返せば、紙に描いた線と、現場で手が覚えている納まりとの間には、埋めるべき隙間がどうしても生まれます。図面をどれだけ精緻にしても、最後は現場の判断が要る——その二層構造は、500年前に始まり、今も変わっていません。
近世には、二つの国が対照的な建設文明を育てます。一つはオランダ。「神は世界を創ったが、オランダはオランダ人が創った」という言葉どおり、この国は13世紀から水管理組合(ウォーターシャップ——現存する世界最古級の民主的組織です)を発達させました。海面より低い土地に暮らす人々にとって、堤防を築き、水路を保ち、排水を続けることは、生存そのものです。しかも水は一人の力では制御できないため、流域の住民が共同で費用と労役を負担し、選挙で役員を選んで管理にあたる——建設と自治が分かちがたく結びついた、独特の社会が生まれました。1612年のベームスター干拓では、風車群を動力に湖を丸ごと汲み上げ、湖底を農地に変えています。低地に築いた輪状の堤防(ポルダー)の内側から水を掻き出し、乾いた土地を得るこの営みは、造ることと維持することが一体でした。堤防は一度築けば終わりではなく、沈下と波に抗って永遠に補修し続けねばならず、風車のポンプは止まれば土地はふたたび水没します。国土そのものを建設し、維持し続ける国民です。土木を「造って終わり」ではなく「造って持ち続け、運営し続ける」営みとして捉える感覚は、後の章で登場するコンセッション(造って運営して稼ぐ業態)の遠い先触れでもありました。造った構造物を長く保有し、維持しながら価値を生み続けるという発想は、一度きりの工事代金で完結する請負とは根本から異なる時間軸を持ちます。オランダ人が水と向き合うなかで身につけたこの長い時間の感覚は、建設という仕事の見え方を静かに変えていきました。
もう一つはフランス。1666年に着工したミディ運河(240km、大西洋と地中海を結ぶ)は、徴税請負人リケが私財を投じた近世最大の土木事業でした。分水嶺を越えて船を通すために、高低差を階段状の閘門で刻み、山を穿つトンネルまで掘るという、当時としては途方もない構想で、リケは完成を待たずに世を去り、莫大な負債だけが遺されたと伝えられます。一個人の情熱と資金で国家規模のインフラを成し遂げる時代は、ここが一つの限界でもありました。だからこそ、フランスが真に発明したのは「国家エンジニア」でした。1716年に土木技官団(ポン・ゼ・ショセ団)を設け、1747年には世界最古の土木学校であるポン・ゼ・ショセ学校を創設します。国家が計画し、試験で選ばれたエリート技官が測量し、設計し、監督する——道路も橋も、国家の統一された基準と手法のもとで築かれるようになりました。このフランス・モデルは、明治日本が近代土木を立ち上げるにあたり、内務省土木局の直接の手本となります。ポン・ゼ・ショセ学校は、測量・材料・構造・水理といった土木の知識を体系立てて教える、いわば国家によるエンジニア養成の工場でした。ここで学んだ技官たちが全土に散り、統一された規格で道路網や運河を築いていく。技術を個人の徒弟制ではなく、学校という制度を通じて再生産するというこの仕組みは、それまでのギルドの伝承とはまるで思想が異なります。国家がエンジニアを育て、国家がインフラを設計するという発想は、民間の請負業者に工事を委ねる英米の「民間丸投げ」モデルとは対極にあり、以後、世界の建設制度は大きくこの二つの源流に分かれていきました。明治日本がフランスに範を求め、内務省という官庁の内側に強力な土木技術者集団を抱えたのに対し、英米では工事を担う独立した請負業者が主役になっていく——この分岐は、次回以降のイギリス編で「請負業者」という職業そのものの誕生を語るときに、あらためて効いてきます。私たちが今、公共工事の設計と監理をどこまで役所が持ち、どこから民間に委ねるかを議論するとき、実はこの300年前のフランスとイギリスの分岐の延長線上にいるのです。

①技術は忘れられる。ローマのコンクリートは製法ごと消え、復活まで1300年かかりました。技術は書き残し、引き継ぐ仕組みがなければ、一代で失われます。町場の親方の頭の中にしかない技能も、同じ運命をたどり得ます。だからこそ、勘や段取りを言葉と図に落として次へ渡す地道な作業は、どんな現場にとっても投資に値します。②「設計と施工の分離」はルネサンスに始まる。ブルネレスキから500年かけて、米国型の分離文化と、日欧の棟梁(設計施工一貫)文化に分岐しました。どちらが優れているという話ではなく、自社がどちらの強みで戦っているのかを自覚することが、体制づくりの出発点になります。③国家エンジニア文明と商人文明の二大源流。フランスのポン・ゼ・ショセは明治日本の手本、英米は民間請負の道へ。いま私たちが当たり前と思っている建設の制度は、すべてこの時代の発明の子孫です。
次回(2)は、産業革命。「請負業者」という職業そのものを発明したイギリス、五大陸で鉄道を建てた世界初のグローバルゼネコン、そしてエッフェル塔と鉄筋コンクリートの誕生です。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。古代・中世の事績や「世界初」「世界最大」といった記録には、資料により幅があります。