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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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五大陸で鉄道を建てた世界初のグローバルゼネコン、世界初のシールド工法、数か月で建った水晶宮、エッフェル塔、そして「工法をライセンスで売る」発明——近代建設業が生まれる150年を描く欧州編第2回です。
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ヨーロッパ建設業2000年史の第2回です。今回は産業革命からベル・エポックまでの150年。「請負業者」という職業そのものが発明され、世界初のグローバルゼネコンが五大陸で鉄道を建て、コンクリートが1300年ぶりに復活し、そして現代欧州の巨人たちの祖先が出揃うまでを追います。
前回(第1回)で見たのは、ローマのコンクリート、中世大聖堂の石工ギルド、ルネサンスで生まれた「建築家」という職能——つまり石を積む技術と、それを担う職人の組織の物語でした。設計する頭脳と施工する手が分かれ始めたところまでを描きました。今回はその続き、素材が石から鉄へ、そして鉄筋コンクリートへと移り変わる時代です。建物の様式が変わっただけの話ではありません。「建設という仕事を、誰が、どういう組織で、どうやって儲けながら引き受けるのか」という、産業そのものの骨格が組み変わった150年です。私が建設業向けのAIを手がける立場から読むと、この時期に生まれた職業や商習慣の多くが、名前を変えて今の現場にそのまま残っていることに驚かされます。

近代建設業、すなわち「コントラクター(請負業者)」という職業そのものを発明したのは、産業革命期のイギリスです。それまでのヨーロッパで建設を仕切っていたのは、中世以来の石工の親方(マスター・ビルダー)や、王侯や教会から直接仕事を受ける職人組織でした。設計と施工が一体で、仕事は基本的に一つずつ、目の前の建物ごとに組み立てられていた。ところが産業革命は、その職人的な世界を根こそぎ作り替えます。
始まりは運河でした。1761年、ブリッジウォーター公爵の石炭運河を独学の技師ブリンドリーが完成させると、イギリスは「運河狂時代」に突入します。工業都市へ石炭や原材料を安く大量に運ぶには、川に頼らない人工の水路が要る。全国で運河の開削が競うように始まり、その掘削を担ったのが——「ナヴィゲーター」を略して「ナヴィー」と呼ばれる放浪の土工集団でした。彼らはシャベルとつるはしと手押し車だけで、丘を切り、谷を埋め、堤を築いていく。定住地を持たず、工事のあるところを渡り歩く。アイルランド移民を多く含む彼らこそ、近代建設労働者の原型です。過酷で危険な現場に大量の人手を集め、飯場に寝泊まりさせながら動かしていく——この労務管理のかたちは、その後の鉄道建設に、さらには海を越えた工事現場へと受け継がれていきます。その一部はやがて大西洋を渡って、前回の米国編で見た大陸横断鉄道の労働力の系譜につながっていきました。ヨーロッパで生まれた「移動する建設労働力」という発明が、新大陸の建設を支えたわけです。人手をどう集め、どう束ね、どう次の現場へ動かすか——町場の建設会社にとっても、200年経った今なお経営の一丁目一番地であり続けているテーマです。
掘削だけでなく、道と素材の面でも近代化が進みます。道路ではテルフォードが橋と街道を近代化し、水はけと路盤を科学的に設計した堅牢な道を各地に敷きました。同時代のマカダムは、砕いた石を層状に締め固める砕石舗装——彼の名をとって「マカダム舗装」と呼ばれる工法——を発明します。これは今日のアスファルト道路の直接の祖先にあたる技術です。素材面ではさらに決定的な出来事が起きました。1824年、リーズの煉瓦積み職人ジョセフ・アスプディンが「ポルトランドセメント」の特許を取得します。焼いて砕いた石灰石と粘土から作るこの人工セメントは、水と混ぜれば石のように固まり、色合いが英国産の高級建材ポートランド石に似ていたことからその名がつきました。ローマ帝国の滅亡とともに製法が失われて以来、実に1300年ぶりに、ヨーロッパは自在に扱えるコンクリートを取り戻したのです。前回描いたローマの「オプス・カエメンティキウム」の記憶が、産業革命の化学によってようやく甦った瞬間でした。
そして1830年代からの「鉄道狂時代」が、すべてを変えました。1825年にストックトン・アンド・ダーリントン鉄道、1830年にリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業すると、投資家たちは我先にと鉄道会社を設立し、イギリス中に路線網が競うように延びていきます。数年間で数千kmの鉄道を建設する空前の需要は、それまでの職人的な仕事の受け方では到底さばけません。膨大な資材を調達し、数万人の労働者を組織し、盛土・切通し・トンネル・橋梁を含む工区を丸ごと、しかも固定価格で引き受ける——そういう新しい職業が必要になりました。これが請負業者(コントラクター)の誕生です。決められた金額で完成を約束し、その中で利益を出すために工程と原価を自分で管理する。工事の値段を先に決めて、あとは自分の腕でやりくりする。この「固定価格でリスクを引き受ける」という発明こそ、今日の建設業の背骨です。
固定価格の請負がなぜこれほど画期的だったのか。従来の職人仕事は、材料費と手間賃を積み上げて発注者に請求する方式が主で、費用が膨らめば発注者が負担していました。ところが鉄道会社は、莫大な資本を集めて投資家に配当を約束している以上、工事費がいくらになるか分からないままでは事業を組めない。そこで「この工区を、この金額で、この期日までに完成させます」と業者側が丸ごと約束する方式が求められました。超過分は業者の損、節約分は業者の得。この仕組みが、原価を管理し工程を段取りする経営者を必要としたのです。腕のいい職人であることと、金勘定のできる事業家であることが、初めて一つの職業に統合された——それが請負業者でした。
その頂点がトーマス・ブラッシーでした。農地測量士から身を起こした彼は、イギリス国内にとどまらず、フランス、カナダ、インド、オーストラリア、アルゼンチンと五大陸で鉄道を建設します。最盛期には8万人を雇用し、生涯に「世界の鉄道の20分の1」を建てたと言われるほどの規模に達しました。異なる国、異なる言語、異なる通貨、異なる気候の現場を同時に回し、資材と人と資金を大陸をまたいで動かす——前回の米国編で紹介したジョージ・A・フラーが「ゼネコン」という業態を発明する半世紀も前に、ヨーロッパには既に世界初のグローバル・ゼネコンが存在していたのです。ブラッシーは支払いにも信義を通した人物として知られ、事業がつまずいた局面でも労働者への賃金を守り抜いたと伝えられます。規模の大きさと同じくらい、約束を守るという評判が、次の仕事を呼び込む資本になっていた。信用が受注につながるという構造は、看板の大小を問わず、建設という商売の変わらない芯だと私は思います。
同世代のサミュエル・モートン・ペトも忘れてはなりません。ロンドンのネルソン記念柱や国会議事堂といった国家的建造物を手がけ、クリミア戦争(1853〜56年)では前線への補給鉄道を突貫で敷いて兵站を支え、国民的英雄となりました。しかし1866年の金融恐慌(オーバーレンド・ガーニー商会の破綻に端を発する信用危機)で資金繰りが行き詰まり、破産します。栄光の絶頂から一転しての転落でした。固定価格で巨額のリスクを抱え込む請負業者は、好況の波に乗れば巨富を築くが、金融の潮が引けば一気に沈む。ブラッシーの8万人雇用とペトの破産——この職業は生まれた瞬間から、栄光と破産が背中合わせだったのです。その振れ幅の大きさまで含めて、彼らは現代ゼネコンの原型でした。

請負業者という「事業家」が生まれる一方で、技術の英雄——「技師(エンジニア)」もこの時代に時代の花形となります。その筆頭がブルネル父子でした。父マーク・ブルネルは、1825年から着工したテムズ川底トンネルの工事で、世界初のシールド工法を発明します。柔らかい地盤を掘るとき、掘削面を鉄の枠(シールド)で支えながら、その背後で壁を築いて少しずつ前進する——この方法は、現代のすべてのシールドトンネルの祖先です。地下鉄も、都市の下水道も、海底トンネルも、原理はここから始まりました。今も世界中の都市の地下で回り続けている巨大なトンネル掘進機の遠い先祖が、200年前のこの現場にいたわけです。息子イザムバード・キングダム・ブルネルは、父を上回る名声を得ました。グレート・ウェスタン鉄道の路線・橋・トンネルを一手に設計し、巨大蒸気船グレート・イースタン号を建造して、「技師」という職業を一躍時代の花形に押し上げます。設計する人間が英雄になる——中世のマスター・ビルダーから続く、ヨーロッパの「作る人を称える」文化が、産業の時代に形を変えて噴き出した瞬間でした。
技師の時代を象徴するもう一つの事件が、1851年のロンドン万博です。会場となる巨大な展示館を、庭師出身のジョゼフ・パクストンが設計しました。彼が温室づくりの経験から編み出したのは、鋳鉄とガラスの規格部材を工場で大量生産し、現場ではボルトで組み立てるだけという方法です。フォックス・ヘンダーソン社がこの部材を用いて、後に「水晶宮(クリスタル・パレス)」と呼ばれる全長500mを超す鉄とガラスの大伽藍を、わずか数か月で組み上げてみせました。部材を規格化し、工場で作り、現場で締めるだけ——これはプレハブ建築(プレファブリケーション)の可能性を世界に示した歴史的な実物大の実験でした。設計を工夫すれば、工期も人手も劇的に減らせる。この発想は、後に米国の造船や、日本のハウスメーカーの住宅生産にまで受け継がれていきます。現場の作業をできるだけ工場側に移すという考え方は、人手不足に悩む今の建設業がまさに追いかけているテーマそのものです。
鉄という素材そのものも、この時代の建設を作り替えました。石より軽く、はるかに強く、細い部材で大きな空間を架けられる。鉄道網の拡大とともに、各地に長大な鉄橋やトンネル、そして鉄骨とガラスで覆われた壮大な駅舎が生まれます。列車が発着する大屋根を、柱をできるだけ立てずに架け渡す——石造では不可能だったこの空間が、鉄によって実現しました。鉄道の駅は、単なる乗降場ではなく、その都市の産業力を誇示する新しい大聖堂のような存在になっていきます。橋を架け、穴を掘り、大屋根を架ける。この三つの技術が競い合うように高度化したのが、鉄道狂時代の土木でした。
都市そのものを作り替える工事も、この時代に生まれました。1858年、猛暑でテムズ川の汚水が猛烈に発酵し、議事堂に立ち込めた悪臭が議員たちを退避させる「大悪臭(Great Stink)」事件が起きます。これに耐えかねた議会はついに下水道整備を決断し、技師ジョゼフ・バザルジェットが総延長2万kmに及ぶロンドン下水道網を築きました。汚水を街の外へ運び去るこの巨大インフラは、たびたびコレラに襲われていた都市を、近代的な衛生都市へと変えます。目に見えない地下の配管が、何万人もの命を救った。「都市インフラ」という概念そのものが、この時期のロンドンと、同時期のパリ——ジョルジュ・オスマンによる大改造(1853〜70年)で幅の広い大通りと上下水道を張り巡らせた——で発明されたのです。パリの改造は、狭く入り組んだ中世の路地を切り開いて直線の大通りを通し、その地下に上水と下水の管路を系統立てて敷設する、都市を丸ごと作り替える巨大工事でした。ナポレオン3世の下で県知事オスマンが指揮したこの事業は、無数の建物の取り壊しと建設を伴い、多くの請負業者に仕事を与えます。建物を一棟建てることと、街全体の機能を設計すること。この二つが別の仕事として分かれ始めたのも、この時代でした。個々の建物の良し悪しを超えて、街全体をどう機能させるかという発想——それは今日の都市開発や再開発の原型そのものです。

大陸では、フランスが二つの世界史的事業に挑みます。一つはスエズ運河でした。外交官出身のフェルディナン・ド・レセップスが主導し、1859年から10年をかけて1869年に開通したこの運河は、地中海と紅海を直結し、ヨーロッパとアジアを結ぶ航路を大幅に短縮して、世界の海運地図を根本から書き換えました。砂漠を貫く水路という前代未聞の事業を成し遂げたレセップスは、フランスの国民的英雄となります。
しかし、成功は油断を生みました。同じレセップスが次に挑んだパナマ運河(1881年〜)は、まったく異なる過酷さを持っていました。中米の熱帯の密林、硬い岩盤、そして何よりマラリアと黄熱病です。病気の原因が蚊であることがまだ解明されておらず、対策を打てないまま、2万人以上とも言われる労働者が命を落とします。工事は泥沼化し、資金は底をつき、レセップスの運河会社は破産しました。そればかりか、会社が延命のために政治家や新聞に賄賂をばらまいていた事実が露見し、フランス第三共和政を揺るがす一大疑獄——「パナマ事件」——へと発展します。栄光の頂点にいた老技師が、汚職の象徴として糾弾される。ヨーロッパの技術的自信が、初めて手ひどい挫折を味わった瞬間でした。そしてこの未完のパナマ運河を後に米国が引き継ぎ、蚊の駆除という公衆衛生の力もあわせて完成させたことは、前回の米国編で見たとおりです。欧州の失敗が、米国という建設国家の勃興にまっすぐ接続していく——歴史はこういう継ぎ目でつながっています。
このパナマ事件で有罪判決を受け、後に取り消されたのが、ギュスターヴ・エッフェルです。彼はガラビ橋をはじめとする数々の鉄橋で名を馳せた構造技術者で、ニューヨークの自由の女神の内部を支える鉄の骨組みを設計したのも彼でした。そして1889年、フランス革命100周年を記念するパリ万博で、高さ300mの鉄の塔——エッフェル塔を、わずか2年2か月で建て上げます。当時これは世界一高い人工構造物であり、着工前には「醜い鉄骨」と芸術家たちから猛反発を浴びましたが、完成すると鉄の時代の記念碑として世界を驚かせました。膨大な数の錬鉄部材を、あらかじめ工場で正確に加工し、現場ではリベットで組み上げていく——水晶宮で示された規格化と工場生産の思想が、垂直方向に極まった姿でもありました。ただしエッフェル本人にとって、この栄光はパナマの汚名と隣り合わせでした。一つの成功と一つの破滅を同時に背負う——請負業者ペトの栄光と破産と同じ振れ幅が、技師の側にもあったのです。
そして19世紀末、現代の建設をそのまま形づくる素材革命が起きます。鉄とコンクリートの結合、すなわち鉄筋コンクリートの誕生です。1867年、パリの庭師ジョゼフ・モニエが、鉄の網を仕込んだコンクリート製の植木鉢で特許を取りました。割れやすいコンクリートに鉄を入れると、引っ張る力に強くなる——庭仕事から生まれたこの素朴な発見が、やがて建築を変えます。1892年には、ベルギー系フランス人のフランソワ・エンヌビックが、梁・柱・床を鉄筋で一体につないで力を流す本格的な鉄筋コンクリート構法を確立しました。石やレンガのように積むのではなく、型枠に流し込んで自在な形を作れて、しかも安い。20世紀の建設を支配することになる素材が、ここに完成します。前回のローマ編で「忘れられたコンクリート」と書いたその素材が、鉄と手を組んでついに主役に返り咲いたわけです。
エンヌビックが天才的だったのは、技術そのものだけではありません。彼のビジネスモデルにありました。彼は自分では工事を請け負わず、自らの構法を「特許ライセンス」として各国の施工業者に貸し出し、フランチャイズのように広げていったのです。地元の業者がエンヌビックに料金を払い、設計指導と技術を受けて「エンヌビック式」の建物を建てる。20世紀初頭には、世界数十か国でこの方式の建物が林立しました。工事を一件も自分でやらずに、工法を売るだけで世界に広がる——技術を「現場の外」で収益化するという発想は、100年以上前から存在したのです。前回の米国編で触れたターナー・カンパニーが「ランサム式」鉄筋コンクリートのライセンスを元手に創業したことも、日本が鉄筋コンクリートを導入していった流れも、まさにこのエンヌビックが開いた潮流の東端でした。自社で抱える人手や重機の量だけが競争力ではない。技術や仕組みそのものを商品にする道もある——この視点は、規模で大手に勝てない中小の建設会社にとって、今もなお示唆に富む発想だと感じます。
鉄筋コンクリートがもたらしたのは、形の自由だけではありません。工事の進め方そのものが変わりました。石やレンガは一段ずつ積み上げるしかなく、熟練の石工の腕に品質が左右されます。ところコンクリートは、型枠を組み、鉄筋を配し、練った生コンクリートを流し込んで固める作業です。石を刻む職人技よりも、段取りと管理が仕事の中心になっていく。誰が現場を仕切り、材料をどう手配し、工程をどう組むか——現代の建設現場の姿が、この素材とともに輪郭を現し始めたのです。石を積む文明から、流し込んで固める文明へ。ヨーロッパの2000年の建設史の、大きな折り返し点でした。
同じ時期、現代ヨーロッパの巨人たちの祖先が次々と生まれています。ドイツではフィリップ・ホルツマン(1849年)とホッホティーフ(1874年)が、フランスではフジェロール(1844年、後のエファージュの源流)とSGE(1899年、後のヴァンシの源流)が、スウェーデンではスコーネ・セメント鋳造社(1887年、後のスカンスカ)が、そして英国ではバルフォア・ビーティ(1909年)が産声を上げます。いずれも今日、国際的な建設ランキングの上位に名を連ねる企業の直接の先祖です。役者は揃いました。興味深いのは、これらの会社の多くが創業者個人の名前を冠していることです。ホルツマンもフジェロールも、一人の親方や技師が自分の名前で仕事を請け負い始めたところから、やがて数万人を抱える企業へと育っていった。町場の一人親方から始まった商売が、百年をかけて国境を越える巨人になる——その出発点が、まさにこの19世紀後半でした。次回以降で描く20世紀の大戦と戦後復興、そしてEU時代の国境を越えた巨大化は、ここで生まれた会社群が主役を務めることになります。名前だけ知っている大企業にも、その多くには一人の職人から始まった創業の物語がある。そのことを覚えておくと、この後の連載がぐっと身近に読めるはずです。
19世紀末から第一次世界大戦までの欧州建設業は、二つの顔を持っていました。一つは植民地帝国の尖兵としての顔、もう一つは都市文明の建設者としての顔です。この時代、ヨーロッパ列強は世界中に植民地を広げ、同時に自国の都市を近代的な「都市機械」へと作り替えていました。その両方の現場で、請負業者と技師が働いていたのです。
前者、植民地帝国の尖兵の代表がドイツのフィリップ・ホルツマンです。ドイツ銀行と組んだ同社は、オスマン帝国を縦断してベルリンとバグダッドを結ぼうとする壮大なバグダッド鉄道の建設を担い、東アフリカやアナトリアの鉄道網を敷いて、ドイツ帝国主義の「工兵」の役割を果たしました。鉄道は単なる交通手段ではなく、勢力圏を押し広げるための戦略装置でもあった。英国勢はアフリカを縦に貫くケープ・カイロ構想の鉄道や、広大なインドの鉄道網を建設し、フランス勢は仏領インドシナや北アフリカ(アルジェリア・チュニジア)の港湾・鉄道・道路を整えていきます。欧州の請負業者は、砲艦とともに世界へ出ていったのです。植民地支配の道具立てだったという事実は美化できませんが、この時期に各国の建設会社が海外の過酷な現場で鍛えた国際経営のノウハウが、良くも悪くも、欧州勢が今日まで国際売上ランキングで上位を占め続ける国際性の起源になっています。海の外で仕事をする筋肉を、彼らはこの帝国の時代に育てました。
後者、都市文明の建設者としての顔を最もよく表すのが、都市の地下です。地下を掘るという工事は、地上に建てるのとは比べものにならない難しさを伴います。上に建物が建ち並び、人が暮らす街のすぐ下を、崩さずに掘り進めなければならない。初期のロンドンの地下鉄は、地表近くを掘って上から蓋をする「開削工法」で建設されましたが、これは工事のあいだ道路を掘り返し、市民の生活を長く止めてしまう。やがて、前に触れたブルネルのシールド工法が改良され、地表を乱さずに深い地下を掘り抜けるようになると、都市はより深く、より自由に地下空間を使えるようになりました。1863年、ロンドンで世界初の地下鉄——メトロポリタン鉄道が開業しました。地上が馬車と歩行者であふれかえる過密都市で、交通を地下に潜らせるという発想は当時としては驚異的でした。初期の路線は蒸気機関車が煙を吐きながら走る過酷なものでしたが、やがて電化され、都市交通の新しい常識になります。1900年には、パリ万博に合わせてパリ・メトロが開業しました。とりわけエクトール・ギマールが設計したアール・ヌーヴォー様式の入口——曲線を描く鋳鉄と植物模様のガラス屋根——は、単なる地下鉄の出入口が芸術になりうることを示した最初の例です。インフラは無味乾燥な機能物ではなく、都市の顔にもなる。上下水道、ガス管、電線、路面電車——ベル・エポックの欧州都市は、地下と地上に何層ものインフラを重ねる「都市機械」となり、その建設が各国の請負業者を大きく育てました。目に見える建物だけでなく、目に見えない配管や配線をどれだけ精密に街の下に敷けるか。都市の実力は、その地下の密度に表れるようになったのです。
こうした「都市機械」の建設は、一つの業者だけでは完結しません。掘る者、鉄を組む者、コンクリートを打つ者、管を通す者、電線を引く者——多くの専門職が、限られた地下空間と工期の中で作業を重ね合わせる必要がありました。誰がいつ何をやるかを段取りし、職種と職種のあいだの隙間を埋める調整役の重要性が、この複雑な都市工事の中で一段と増していきます。前回の米国編で「ゼネコンとは調整の商人だ」と書きましたが、その調整という仕事の価値を、ベル・エポックの欧州都市は別のかたちで証明していたのです。工程を組み、職人同士をつなぎ、全体を一つの完成へ導く——規模の大小を問わず、これが建設という仕事の核心であることは、百年前も今も変わりません。
一方で、この時代の欧州には、意外なことに「摩天楼」が生まれませんでした。同時期の大西洋の向こう側、シカゴとニューヨークが鉄骨の高層ビルへと突き進み、垂直の都市を作り上げていったのに対し、パリもロンドンもウィーンも、厳格な高さ規制と石造の街並みを頑なに守り続けます。既にある美しい歴史的な街並みを壊してまで、高く積み上げる必要はない——欧州の都市はそう考えました。新築の垂直都市に価値を置いた米国と、既存の水平都市の完成度に価値を置いた欧州。この一見些細に見える価値観の分岐は、実は百年後まで尾を引きます。今日、米国と中国が新築ラッシュで世界の建設市場を牽引する一方、欧州の建設業は既存建物の改修・維持・省エネ化——いわゆる「ストック(既存建物の活用)」に軸足を置いています。この産業構造の違いは、まさにこの時代に欧州が「高く建てない」ことを選んだところから、まっすぐつながっているのです。何を建てるかだけでなく、何を建てないかという選択が、百年後の産業の形を決めた。日本の町場の建設会社にとっても、これから増える仕事は新築だけでなく、既にある建物をどう長く生かすかという方向へ移っていきます。欧州が一世紀早く歩んだこの道は、他人事ではありません。

①「請負業者」は発明品である。需要の爆発(鉄道狂時代)が、リスクを固定価格で引き受けるという新しい職業を生みました。それまで職人が一棟ずつ手がけていた仕事が、資材と数万人を組織して工区を丸ごと約束する事業へと変わった。ブラッシーの8万人雇用とペトの破産——この職業は生まれた瞬間から、栄光と破産が背中合わせでした。値段を先に決めてリスクを抱えるという請負の宿命は、今の現場にもそのまま生きています。②工法はライセンスで売れる。エンヌビックは自分では一件も施工せず、構法のライセンスだけで世界数十か国へ広げました。技術や仕組みを「現場の外」で収益化するという発想は、100年以上前からあったのです。人手と重機の量だけが競争力ではない。③都市の価値観が産業の形を決める。摩天楼を建てなかった欧州は、百年後「ストックの文明」になりました。高く積むより、既にあるものを磨くことを選んだ。何を建てるかだけでなく、何を建てないかも、産業の運命を決めます。
次回(3)は、20世紀前半。二つの大戦と全体主義の建設——美化せずに書くべき歴史と、廃墟からの「栄光の30年」です。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。数値・記録には資料により幅があります。