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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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アウトバーン神話とトート機関の強制労働、日独同年の歴史清算、プレハブの冷戦、デルタ計画、そしてコンセッションの種——美化せずに書く20世紀前半と、廃墟からの30年を描く欧州編第3回です。
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ヨーロッパ建設業2000年史の第3回です。20世紀前半、欧州の建設業は戦争と全体主義に呑み込まれます。前回まで、私たちはローマのコンクリート、中世大聖堂の石工ギルド、ルネサンスの「建築家」の誕生、そして産業革命の鉄とガラスという、輝かしい技術の系譜を追ってきました。しかしこの章で語るのは、その同じ技術と組織力が、破壊と支配のために動員された時代です。建設という営みは、平時には人を住まわせ、都市を結び、生活を支える。ところが国家が戦争に舵を切ると、その同じ手が要塞を築き、収容所を建て、囚人を働かせる。この二面性を美化せずに書くことが、欧州編の責務だと私は考えています。そして1945年、大陸が瓦礫に埋もれたその廃墟から、フランス人が「栄光の30年」と呼ぶことになる、欧州建設業の最も忙しい大復興が始まります。破壊と再生が背中合わせだったこの半世紀を、順に見ていきましょう。

第一次大戦は、北フランスとベルギーを月面のような廃墟に変えました。塹壕戦が繰り広げられた前線一帯は、村も畑も森も砲弾で耕し尽くされ、戦後には「赤い地帯(ゾーン・ルージュ)」と呼ばれる、不発弾と汚染で人が住めない土地さえ残りました。だからこそ、その戦後復興は膨大な土木・建築需要を生み、仏SGEなどの請負業者を育てる土壌になったのです。破壊の規模がそのまま復興産業の規模になる——これは、この連載で繰り返し現れるパターンでもあります。
戦間期のイタリアに目を移すと、そこには建設を国威発揚の道具として使う、新しい政治の姿がありました。ムッソリーニ政権は1924年、ミラノと湖水地方を結ぶ「アウトストラーダ」を開通させます。これは世界初の本格的な自動車専用高速道路とされ、まだ自動車が富裕層の玩具に近かった時代に、国家が未来のインフラを先取りして見せる政治的パフォーマンスでした。同政権はさらにローマ近郊のポンティーネ湿地の干拓に着手します。古代以来マラリアの温床とされてきた広大な沼地を排水し、新しい農業都市を築くこの事業は、「不可能を可能にするファシズム」という物語として大々的に宣伝されました。つまり、干拓や道路そのものよりも、それを「見せること」に政治的な価値が置かれた。建設が宣伝装置になった最初期の例です。
一方、同じ動員の論理は、正反対のイデオロギーを掲げたソ連でも働いていました。第一次五カ年計画のもと、白海とバルト海を結ぶ運河(1931〜33年)が、驚くべき短工期で突貫建設されます。しかしそれを支えたのは機械ではなく、グラーグ(強制収容所)の囚人労働でした。凍てつく岩盤を、まともな重機もないまま手作業で掘り進めるこの工事では、数万人ともいわれる犠牲者が出たと伝えられます。運河は宣伝映画に撮られ、社会主義建設の偉業として称えられましたが、その水路の底には無数の名もなき死が沈んでいました。ウラル地方に一から築かれたマグニトゴルスクの製鉄都市、そして「地下の宮殿」と讃えられたモスクワ地下鉄(1935年開業)——シャンデリアと大理石で飾られたその駅は、労働者の理想郷を地下に具現したものとされました。社会主義の建設もまた、圧倒的な人的動員と、その裏の犠牲の上に成り立っていたのです。そして、この「国家が計画し、大量の人間を動員して不可能な工期をこじ開ける」というモデルは、後に中国編で見た毛沢東時代の大躍進期の建設の、直接の手本になっていきます。イデオロギーは対立しても、動員の手法は国境を越えて伝播しました。
そしてナチス・ドイツです。1933年に政権を取ったヒトラーは、アウトバーン(自動車専用高速道路網)の建設を、失業対策と国威宣伝の中核に据えました。世界恐慌で数百万の失業者を抱えた社会に「仕事」を与える映像は、体制の力を見せつける格好の宣伝素材だったのです。ただし歴史の事実として付け加えておくと、最初のアウトバーン区間を開通させたのはナチスではありません。1932年、ケルン市長時代のコンラート・アデナウアー——戦後西ドイツの初代首相となる、あの政治家です——がすでにケルン近郊の区間を開通させていました。ナチスはこの先行事例をあたかも自らの独創であるかのように神話へと組み込み、宣伝しました。歴史の「上書き」が、ここでも起きていたわけです。
この巨大建設を統括したのが、技師フリッツ・トートでした。彼の名を冠した「トート機関(オルガニザツィオン・トート)」は、当初はアウトバーンの建設組織でしたが、戦争が始まると性格を一変させます。占領地全域で軍事建設を担う巨大組織となり、フランスからノルウェーに至る大西洋岸を延々と要塞化する「大西洋の壁(アトランティックウォール)」や、V2ロケットを組み立てる地下工場ミッテルヴェルクといった、戦争機械そのものを築いていきました。そしてその労働力の中核を占めたのが、占領地から強制連行された労働者と、強制収容所の囚人でした。ミッテルヴェルクの地下では、坑道を掘る作業そのものが囚人を消耗させ、多くの命が失われたと記録されています。トート機関が使役した人々は、延べ100万人を超えるとされます。数字の背後にあるのは、名前も記録されないまま酷使された、膨大な個人の生です。
見過ごしてはならないのは、この体制に関与したのが匿名の国家機構だけではなかったという点です。ホッホティーフやホルツマンといった、今日も欧州建設業界に名を残す大手企業が、この戦時建設の体制に深く関わっていました。ホッホティーフに至っては、ヒトラーが最期を迎えた総統地下壕(ベルリンの官邸地下の防空壕)や、東プロイセンの総統大本営「狼の巣(ヴォルフスシャンツェ)」といった、体制の中枢施設まで建設しています。平時なら誇るべき技術力と施工力が、独裁の延命装置を築くために使われた——企業という存在が、その時々の権力と無縁ではいられないことを、この事実は突きつけます。仕事があるという理由だけで請け負ってよい工事なのか。発注者が誰で、何のために造るのか。この問いを手放した瞬間、優れた技術ほど危うい方向へ動いてしまう。規模はまるで違っても、「どんな相手のどんな仕事を受けるか」という判断が経営の根幹にあるという点で、これは町場の会社にとっても他人事ではありません。
戦後、この重い歴史にどう向き合うかは、ドイツ産業界にとって長く未解決の課題であり続けました。転機は半世紀を経た2000年です。ドイツ政府と企業が共同で基金「記憶・責任・未来(Erinnerung, Verantwortung und Zukunft)」を設立し、存命の強制労働被害者への補償に、産業界ぐるみで踏み出したのです。加担した企業が個別に逃げるのではなく、業界全体で過去の債務を引き受ける枠組みでした。そして——これは私が欧州編を書きながら息を呑んだ符合ですが——この2000年という年は、日本編で紹介した鹿島建設と中国人強制連行被害者との「花岡事件」和解が成立した、まさに同じ年でした。日独という、かつて戦時強制労働という同じ罪を犯した二つの国の建設業が、示し合わせたわけでもないのに同じ年に、それぞれの歴史清算に向き合った。偶然であっても、これは記憶に値する符合だと思います。日本の町場の会社にとっても、規模は違えど「自社が過去に関わったことに、いつか誰かが向き合う日が来る」という視点は、決して他人事ではないはずです。
1945年、戦争が終わったとき、欧州の都市は見渡す限りの瓦礫の山でした。連合軍の爆撃で一夜にして焼き尽くされたドレスデン、ナチスが組織的に破壊し尽くしたワルシャワ、爆撃で都心を消し飛ばされたロッテルダム、英国のコヴェントリー——大陸のあちこちで、都市そのものが更地に近い状態になっていました。ここから、欧州建設業の最も忙しい30年が始まります。破壊が極まったからこそ、再生の需要もまた、かつてない規模で立ち上がったのです。
戦後の欧州は、大陸まるごとが一つの巨大な復興工事現場でした。ベルリンでは、働き手の男たちの多くが戦死し、あるいは捕虜となって不在の中、女性たちが瓦礫の中から使える煉瓦を一つずつ手で拾い上げ、モルタルを削り落として再利用しました。彼女たちは「瓦礫の女たち(トリュンマーフラウエン)」と呼ばれ、戦後復興の原風景として今も語り継がれています。そこへ、アメリカのマーシャル・プラン(欧州復興計画)の資金が注ぎ込まれ、各国の再建を強力に後押ししました。そしてこの30年間——フランス人が「栄光の30年(トラント・グロリューズ)」と呼ぶ高度経済成長期——に、欧州各国はそれぞれの流儀で、自国の建設文明を一から再構築していきます。
この時代の住宅建設を象徴するのが、東西両陣営が繰り広げた「プレハブの冷戦」でした。爆撃で焼け出された膨大な人々に、いかに速く、安く、大量に住まいを供給するか。その競争が、そのまま体制の優劣を示すショーケースになったのです。西側では、英国が1946年のニュータウン法によって、職場と住居が近接した計画都市を郊外に次々と量産しました。過密なロンドンから人口を計画的に移し、緑と秩序のある新都市を築くこの発想は、戦後都市計画の一つの理想形でした。フランスは、建築家ル・コルビュジエが1952年にマルセイユに完成させた集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」を一つの原型として、郊外に巨大な団地群——「グラン・アンサンブル」——を建てていきます。ル・コルビュジエが「住宅は住むための機械である」と語った機能主義の思想が、良くも悪くも現実の住宅政策へと落とし込まれた時代でした。
東側の物量は、それをはるかに上回るものでした。フルシチョフは1950年代半ば、スターリン時代の重厚な装飾建築を「無駄」として公然と禁じ、装飾を一切そぎ落としたパネル工法の規格住宅——後に彼の名から「フルシチョフカ」と呼ばれるようになる建物——の超大量生産を号令します。工場で作ったコンクリートパネルを現場でクレーンで組み立てるだけの、簡素で速い工法です。これによりソ連圏全体で数千万戸という、おそらく人類史上最大規模の住宅建設プログラムが展開されました。狭くても、自分の家族だけの部屋を持てる——共同住宅にひしめいていた人々にとって、フルシチョフカは確かに生活革命でした。東独のプラッテンバウ、ポーランドやチェコスロバキアの画一的な団地群も同じ思想の産物であり、これらは今なお東欧の都市景観の基層をなしています。工場で規格部材を作り、現場では組み立てるだけ——この発想そのものは、実は前回見た1851年ロンドン万博の「水晶宮」、鉄とガラスの規格部材を数か月で組み上げたあの温室にまで遡る、欧州の長い系譜の上にあります。プレハブ(工場生産化)と部材標準化という近代建設の理想が、戦後の切迫した住宅不足の中で、良くも悪くも極限まで押し進められたのが、この時代でした。
しかし、「安く速く大量に」の時代には、限界点も待っていました。1968年、ロンドン東部のローナン・ポイントという新築間もないプレハブ高層団地で、上層階のガス爆発をきっかけに、建物の角が上から下まで将棋倒しのように連鎖崩壊する事故が起きます。パネルを積み上げただけの構造が、一箇所の破損で全体を巻き込んで崩れうる——この「連続的崩壊」の危険が白日の下にさらされ、プレハブ高層への信頼は西側で大きく揺らぎました。速さと安さを追い求めた工法が、安全という土台を掘り崩していないか。この問いは、工期とコストの圧力に晒される現代の私たち建設業にとっても、決して古びない教訓です。安く速く大量に、の裏側には、いつも品質と安全という見えにくい変数がある。それを軽んじた瞬間に足元が崩れる、という警告でもあります。

住宅が都市の細胞を再建したとすれば、土木は国土の骨格そのものを引き直しました。イタリアは1956年から、わずか8年という短期間で、半島を縦断する全長755kmの「太陽道路(アウトストラーダ・デル・ソーレ)」を完成させます。ミラノからナポリまで、アルプスの麓から地中海の陽光まで、南北に長い国土を一本の高速道路で貫くこの事業は、戦後イタリアが貧しさを脱して「奇跡の経済成長」に向かう象徴となりました。道路は単なる移動路ではなく、分断されていた北と南を経済的に縫い合わせる、国民統合の装置でもあったのです。755kmをわずか8年という工期でやり切った施工力は、戦後復興で鍛えられた欧州建設業の底力を示すものでした。急ぐこと自体が悪いのではありません。前段のローナン・ポイントとの違いは、速さを支える技術と検証がそこにあったかどうかにあります。速度と品質は、片方を取れば片方を失うトレードオフとは限らない——それを両立させる仕組みこそが、成熟した建設業の証なのだと私は思います。
フランスは、同じ高速道路整備でも、財源の仕組みそのものに独自の道を選びました。「コンセッション方式」——民間会社が高速道路の建設資金を自ら調達し、完成後に何十年もかけて通行料収入でそれを回収する仕組みです。国が税金で一度に造るのではなく、民間が先に投資してリスクを負い、長期の利用料で回収する。この一見地味な制度選択が、後の欧州建設業の姿を根本から変えることになります。というのも、この方式のもとで育った企業は、道路を「造って引き渡す」だけでなく、「建てて、保有して、運営する」ことで稼ぐようになるからです。次回以降に主役となるヴァンシやエファージュを、単なる請負業者から巨大な「インフラ資本」へと進化させる制度的な種が、この戦後フランスの選択にすでに蒔かれていたのです。日本で前田建設がインフロニアへと転じて「インフラ運営業」を掲げた背景にも、遠くこの欧州モデルの影があります。
オランダの土木は、また別の切実な動機から生まれました。1953年、北海の高潮が堤防を破り、国土の広い範囲が海に呑まれる大災害が起きます。死者は1,836人に上りました。海面より低い土地に人が暮らすこの国にとって、堤防の決壊は国家存亡に直結します。オランダはこの惨事を受けて、河口部を巨大な可動堰群でまるごと閉じる壮大な「デルタ計画」を発動し、およそ40年をかけて南西部の三角州を守り抜く防潮インフラを築いていきました。その総仕上げが、1986年に完成した東スヘルデ防潮堤です。当初は河口を完全に締め切る計画でしたが、それでは背後の干潟の生態系が死んでしまうという環境保護運動の高まりを受けて、設計が途中で変更されました。普段はゲートを開けて海水を通し、高潮のときだけ閉じる——そういう可動式の防潮堤へと生まれ変わったのです。防災と環境保全を両立させたこの構造物は、「自然をねじ伏せる」時代から「自然と折り合う」時代へと、インフラの思想が転換する先駆けでもありました。
一方で、この時代の土木は、技術への過信がもたらす惨事も刻みました。1959年、南仏のマルパッセダムが決壊し、下流の街を濁流が襲って423人が命を落とします。1963年にはイタリアのバイオントダムで、ダム湖畔の山体が丸ごと崩れ落ち、湖水が押し出されて巨大な津波となり、下流で約2,000人が犠牲になりました。ダム本体は壊れていなかったにもかかわらず、地質という「造れないもの」への油断が、これほどの死をもたらしたのです。この二つの事故は、土木技術の傲慢への痛烈な警告として、以後の欧州の技術者倫理に深く刻まれました。造れる力が増すほど、造ってはならない場所、見落としてはならない条件を見極める謙虚さが問われる——規模は違えど、地盤や周辺環境と向き合う日本の町場の現場にも、同じ戒めが通じます。
この復興と成長の時代は、後に欧州建設業の地図を塗り替える企業たちの、ささやかな出発点でもありました。象徴的なのが1952年です。この年、二つの重要な会社が産声を上げます。パリでは、若き技師フランシス・ブイグが、ごく小さな改修工事の会社「ブイグ」を創業しました。徹底した現場主義と猛烈な仕事文化を武器に、彼はこの零細企業を、わずか30年ほどでフランス最大の建設会社へと育て上げます。後にブイグは建設の枠を越え、通信やメディアにまで手を広げる複合企業へと成長していきますが、その原点は一人の技師の現場への執念でした。
同じ1952年、スペインのマドリードでは、ラファエル・デル・ピノが鉄道の枕木を扱う会社「フェロビアル」を興していました。鉄道用の木材を供給する、いかにも地味な出発点です。この小さな会社が半世紀後、ロンドンのヒースロー空港という世界有数の国際空港のオーナーになるとは、当時は誰も想像しなかったでしょう。枕木からインフラ帝国へ——この飛躍こそ、欧州建設業が「造る業」から「保有し運営する業」へと変貌していく物語の、生きた実例です。次回、このデル・ピノ家が空港や有料道路のオーナーへと駆け上がっていく話に、あらためて触れることになります。
そして1970年代、北海に眠っていた巨大な油田・ガス田の発見が、欧州の海洋土木に新しい地平を開きます。荒れ狂う北海の海底から石油を汲み上げるには、波と嵐に耐える巨大な洋上プラットフォームが要りました。ノルウェーの技術者たちは、それを鋼ではなく巨大なコンクリートで海上に据える「コンディープ」という独創的な構造を生み出します。陸に近い静かな入江(フィヨルド)で塔を建造し、それを海に浮かべて曳航し、油田の真上で沈めて据え付ける——スケールの大きな海洋土木でした。同じ頃、オランダの浚渫会社ボスカリスやヴァン・オールドは、港湾や運河を掘り拡げる技術を磨き上げ、やがて世界中の海で埋め立てや航路開削を手がける準備を整えていきます。ローマの水道橋に始まった欧州の土木は、20世紀後半、ついに大洋そのものを舞台にするところまで来たのです。陸を結び、川を跨ぎ、そして海へ。造る対象がこれほど広がったのは、素材と機械の進歩だけでなく、資金を集め、長期のリスクを引き受け、巨大事業を束ねる「企業」という器が成熟したからでもありました。零細な改修会社や枕木商から始まった戦後の創業者たちが、この器を鍛え上げていった先に、次回描く現代欧州の巨大建設資本の姿があります。

①加担の歴史を、業界ぐるみで清算した。トート機関の強制労働に対する補償基金「記憶・責任・未来」の設立(2000年)は、日本の花岡和解と同じ年でした。造ったものを保つだけでなく、犯した過ちを記憶し、業界全体で引き受けることも、産業の信用の一部です。個々の会社が過去から目を背けても、いつか歴史はまとめて請求書を回してきます。②「安く速く大量に」には限界点がある。フルシチョフカの数千万戸という物量の偉業と、ローナン・ポイントの連鎖崩壊は、ワンセットで受け取るべき教訓です。速さと安さを追うほど、品質と安全という見えにくい土台がすり減っていないかを問い続ける必要があります。③災害が制度をつくる。北海大洪水がデルタ計画を生み、マルパッセとバイオント、二つのダム事故が技術者倫理を鍛えました。日本編で見た関東大震災や阪神淡路大震災と同じ、「破壊の危機が技術と制度を鍛える」というパターンの、欧州版です。そして——フランスが高速道路で静かに蒔いた「コンセッション」の種が、次回、建設業の未来形へと大きく育ちます。造る業から、持ち続けて稼ぐ業へ。その転換の入口が、この30年でした。
次回(4)は、民営化革命です。サッチャーが持ち込んだPFI(民間資金による公共事業)、ミッテランが仕掛けたパリの「グラン・プロジェ」、英仏をつないだ海峡トンネル、そして枕木から空港経営へと駆け上がるフェロビアル、さらにレアル・マドリードの会長フロレンティーノ・ペレスが率いる建設大手ACSの台頭まで——現代欧州の企業地図が固まっていく、劇的な四半世紀を描きます。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。犠牲者数等には資料により幅があります。