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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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人工物の重さが全生物の重さを超えた惑星で。コンクリート年間300億トン、エレベーターが生んだ摩天楼、経済危機と重なる「摩天楼指数」、そして40万年の建設史の本当の主語——名もなき移動する労働者たちの話です。
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「建設と人類史」の第4回です。今回は三つの話を束ねます。素材——人工物の重さが全生物の重さを超えた惑星の話。高さ——エレベーターの発明が摩天楼を生み、超高層の完成が経済危機と重なるという奇妙な法則の話。そして労働——40万年の建設史の本当の主語である、名もなき建設者たちの話です。三つは一見バラバラに見えて、実は一本の糸で結ばれています。何で建てるか(素材)、どこまで建てられるか(高さ)、誰が建てるのか(労働)——この三つの問いは、狩りをやめて壁を築いた最初の日から今日の現場まで、姿を変えながら繰り返されてきた、建設という営みの背骨そのものだからです。私自身、建設業に関わる会社を営む立場から、この三つの問いは決して過去の教養話ではなく、明日の見積書と工程表と安全朝礼につながっている実務の話だと感じています。

人類史の時代区分——石器・青銅器・鉄器——が素材の名前であることは、第1回で触れました。私たちは何気なく「石器時代」「鉄器時代」と口にしますが、その区切りの基準が、道具や武器と同時に「建てるための素材」だったことは、あまり意識されません。建設の視点から見ると、この区分はさらに雄弁になります。新しい構造材料の獲得は、そのたびに「建てられるものの限界」を書き換え、そして限界が書き換わるたびに、社会の形そのものまで変えてきたからです。素材が変われば、建てられる大きさが変わる。大きさが変われば、それを建てるために動員される人の数が変わり、動員の仕組みが変わり、統治の形が変わる。素材は、静かに社会を規定してきました。石を切り出して積むには石工の熟練した腕が要り、その腕を持つ者たちはギルドを組んで技を独占しました。ところがセメントと鉄筋が普及すると、必要とされる技能の種類が変わり、担い手の顔ぶれも変わっていく。ある素材が主役から降りるとき、その素材とともに生きてきた職人の世界もまた、静かに姿を変えます。素材の歴史は、それを扱う人間の歴史と、分かちがたく結びついているのです。この視点を持って、以下の三つの章——素材・高さ・労働——を読み進めていただければと思います。
最初の人工建材は、日干し煉瓦でした。約1万年前のイェリコ(エリコ)にすでに現れるこの「型に入れた土」は、おそらく人類初の規格化された工業製品です。同じ型で同じ形のものを繰り返し作る——今日の私たちがプレキャストコンクリートやユニット化された建材に当たり前に頼っているその発想の原型が、1万年前の泥のなかにすでにあったことになります。規格化とは、要するに「誰が作っても同じ品質のものが積み上がる」ということであり、それは属人的な職人技への依存を減らし、大人数での分業を可能にする、建設の生産性革命の最初の一歩でした。そして重要なのは、これが過去の遺物ではないことです。土(日干し煉瓦、版築、アドベ)でできた建物には、現在も世界で十数億人以上が住んでいるとされます。ハイテク素材の話をする前に、この事実を押さえておきたいのです。人類の住まいの歴史の主役は、石でも鉄でもなく、一貫して土と木でした。
この「土が主役」という事実は、私たちが素材の歴史を語るときに陥りがちな錯覚を正してくれます。教科書は石造神殿や鉄骨ビルの写真を並べますが、それらは人類が建てたもののごく一部の、記念碑的な例外にすぎません。歴史のほとんどの時間、ほとんどの人は、足元の土をこね、近くの木を切り、雨風をしのぐ住まいを自らの手で建ててきました。壮麗な建造物の陰に、記録に残らない膨大な数の「ふつうの家」がある——この視点は、第8章で扱う「名もなき建設者たち」の話へとまっすぐつながっていきます。派手な素材の物語の底には、いつも土と木と、それを扱う無数の手があったのです。
その土と木の系譜のなかに、時おり飛躍が刻まれます。インダス文明は煉瓦を焼いて規格化し、都市の街路や下水を整然と敷き並べました。ローマは火山灰からコンクリートを発明してパンテオンを架け——そしてヨーロッパ編で見たとおり、その製法を1300年間失いました。ローマ帝国の崩壊とともに、無筋のコンクリートで巨大なドームを架ける技術は途絶え、中世ヨーロッパはふたたび石を一つずつ積み上げる世界へと戻ります。人類の技術は右肩上がりに進歩するものだと私たちはつい思い込みますが、建設史はそうではありません。獲得した技術が丸ごと忘れられ、千年以上たってから再発見される——技術の継承がいかに脆いか、そして記録し伝えることがいかに重要かを、この空白は教えてくれます。近年の研究は、ローマン・コンクリートが海水中でかえって強度を増す鉱物反応や、生石灰の粒によるひび割れの自己修復機構を持っていたことを解明しつつあり、2000年前の素材が21世紀の材料科学の研究対象になっています。古い素材が最先端の研究テーマになるというこの逆転は、素材の世界に「まったく新しいもの」など案外少ないことを示しています。町場の現場でも、新工法に飛びつく前に、昔ながらの納まりや材料の理屈をきちんと理解しておくことが、結局は応用の幅を広げる——そう感じる場面は少なくありません。

近代の素材革命は、三連発で来ました。まず鉄です。1779年、英国コールブルックデールに世界初の鋳鉄橋アイアンブリッジが架かり、構造材としての鉄の時代が開きます。それまで橋といえば石を積むアーチか木の桁でしたが、製鉄業の中心地だったこの谷で、当時としては大胆にも橋そのものを鋳鉄で組み上げてみせた。産業革命が石炭と鉄の力で回り始めたまさにその現場に、この橋は立っています。名もこの橋にちなんで一帯が「アイアンブリッジ」と呼ばれるようになり、産業革命発祥の象徴として今日まで残っています。構造材としての鉄——引っ張りにも強く、細く長く架けられる素材——の登場は、「建てられる形」の可能性を一気に広げました。
鉄という素材が構造の世界に入ってきたことの意味は、単に強い材料が一つ増えた、ということにとどまりません。石や煉瓦は、それ自体が重く、圧縮には強くても引っ張りには脆い。だから石造は、重さを下へ下へと逃がすアーチとドームの論理に縛られていました。ところが鉄は、細くしても引っ張りに耐える。梁を長く飛ばせ、柱を細くでき、開口を大きく取れる。工場の大空間も、鉄道駅の大屋根も、後の高層ビルの骨組みも、この「引っ張りに強い素材」がなければ生まれませんでした。アイアンブリッジの弧は、その可能性の最初の宣言だったのです。
続いてコンクリートの復活と、鋼の量産です。1824年のポルトランドセメント特許(アスプディン)がコンクリートを復活させ、失われていた「流し込んで固める石」を人類の手に取り戻します。英国リーズの煉瓦職人だったアスプディンが、焼いた石灰石と粘土を砕いて作るこの粉が、水と混ぜて固まると英国ポートランド島産の名高い石材に似た色と硬さになる、というので「ポルトランドセメント」と名づけられました。ローマの技術が失われてから千年余り、人類はふたたび「好きな形に流し込んで固める石」を手にしたのです。1856年のベッセマー転炉が鋼を大量生産可能にし、それまで高価で貴重だった鋼を、橋や建物の骨組みに惜しみなく使える時代を開きました。そして1867〜92年のモニエとエンヌビックが鉄筋コンクリートを完成させる(ヨーロッパ編参照)。圧縮に強いコンクリートと、引っ張りに強い鉄筋を組み合わせるというこの発想は、両者の弱点を互いに補い合わせる、素材の「結婚」でした。鋼とエレベーターが摩天楼を、鉄筋コンクリートが「世界中どこでも、型枠と鉄筋と袋詰めセメントさえあれば近代建築が建つ」という普遍性をもたらしました。ここが決定的です。石造建築は、その土地で採れる石の質と、それを刻める石工の技に強く縛られていました。ところが鉄筋コンクリートは、型枠さえ組めれば、砂漠でも熱帯でも寒冷地でも、ほぼ同じ理屈で構造体が立ち上がる。20世紀に地球上のあらゆる都市が似た姿になったのは、思想のグローバル化である以前に、素材のグローバル化でした。土地の個性を消して均質な都市を世界中に量産した力の正体は、実はこの一袋のセメントだったのです。
その帰結を、数字で見てみます。コンクリートは現在、年間およそ300億トン生産されています。人類が水の次に大量に使う物質であり、一人あたり毎年4トン近くを「打設」している計算です。私たちは自分が年に4トンものコンクリートを使っている実感などありませんが、道路も、橋も、住むマンションも、通うオフィスも、その重さの分だけ確かに私たちの生活を支えています。原料の砂と砂利は世界で最も採掘される固体資源となり、川砂の乱獲は各地で環境破壊と「砂マフィア」まで生みました。砂はどこにでもあるように思えて、コンクリートに使える角ばった川砂・山砂には限りがあり、丸すぎる砂漠の砂は構造用には向かない——この意外な事実が、砂をめぐる違法採取と紛争を生んでいます。素材が普遍化した代償として、その原料の奪い合いが起きているわけです。セメント製造は世界のCO2排出の約8%を占め——これは一つの産業としては最大級で、もしセメント産業が国なら排出量世界3位です。石灰石を焼いてセメントを作る過程では、燃料を燃やす分だけでなく、石灰石そのものが化学反応でCO2を放出します。だからこそ脱炭素が難しく、この産業の宿題になっています。建物の運用まで含めれば、建設・建築部門は世界のエネルギー起源排出のおよそ4割に関与します。ここでいう「運用」とは、建てた後にその建物を冷やし、暖め、明るくし、動かし続けるためのエネルギーのことです。つまり建設の環境負荷は、竣工した瞬間に終わるのではなく、その建物が生き続けるかぎり毎日発生し続ける。だからこそ、長く使える建物を建てること、壊して建て替えるより直して使い続けること、断熱を良くして運用エネルギーを減らすことが、脱炭素の実務として重みを増しています。建てることと、地球の限界とが、初めて正面からぶつかる時代に入ったのです。第1回で見た「壁を築いて狩りをやめた一つの類人猿」は、1万年余りをかけて、いまや自分の建てたものの重さで惑星を軋ませる存在になりました。
そして2020年、象徴的な閾値が越えられました。ネイチャー誌に載った研究によれば、人類が作り出した人工物の総質量(その大部分はコンクリート・骨材・煉瓦・アスファルト、つまり建設物です)が、この年前後についに地球上の全生物の総質量(バイオマス)を上回ったのです。森も、草原も、海の生き物も、すべての生命を秤の片方に載せ、人間が建てたものをもう片方に載せると、後者のほうが重い——そういう惑星に、私たちはいつのまにか暮らしています。しかも人工物質量は約20年ごとに倍増を続けています。人新世(アントロポセン)——人類が地質学的な営力になった時代——という概念が言われますが、その物理的実体は、突き詰めれば建設です。火山や氷河や河川と並んで、いまや「人間が建てること」が地表を作り替える一大要因になった。人類は40万年かけて、ついに「建てたものの重さが、生きているものの重さを超えた」惑星を作りました。三峡ダムの貯水が地球の自転をごくわずかに遅くしたという計算(一日あたりマイクロ秒のオーダーですが)は、もはや冗談ではなく、建設が惑星スケールの行為になったことの寓話です。巨大な水を高い位置に溜めれば、その分だけ地球の質量分布がわずかに変わり、コマの回り方が変わる——一つのダムが天体の運動に触れるという事実は、私たちの仕事の規模が到達した地点を、静かに物語っています。だからこそ、これからの建設は「どれだけ建てるか」だけでなく「いかに地球に負荷をかけずに建てるか」を問われる。中小の現場においても、廃材の分別やコンクリートの打設量の最適化といった一つひとつが、この惑星規模の問いの末端につながっているのだと、私は考えています。

リンカン大聖堂の尖塔が倒れて以後、高さの記録は数世紀停滞しました。中世ヨーロッパの大聖堂は、石とわずかな知恵だけで天を目指した人類の到達点でしたが、その頂点で尖塔が崩れ落ちて以来、記録はぴたりと止まります。理由は根性でも信仰でもなく、物理でした。石造には物理的な限界があったからです。ガリレオが1638年の「新科学対話」で示したように、構造物は単純に相似拡大できません(自重は体積の三乗で、強度は断面の二乗でしか増えないからです)。これはつまり、同じ形のまま二倍の高さにしようとすると、支えるべき重さは八倍になるのに、支える柱の断面は四倍にしかならない、ということです。大きくすればするほど、自分自身の重さで潰れる方向に不利になっていく。石を高く積むという営みには、素材の強さそのものに由来する天井が存在したのです。この「二乗三乗の法則」を突破するには、比強度の高い新素材——鋼——と、もう一つ、意外な発明が必要でした。
ガリレオがこの法則を見抜いた背景には、動物の骨の観察がありました。大きな動物ほど骨が体の割に太くなる——象の脚はネズミの脚を単純に拡大したものではない。自然界の生き物ですら、大きくなるほど自重を支えるために不格好に太らざるを得ない。まして石という重い素材で天を目指せば、どこかで例外なく自分の重さに負ける。中世の大聖堂の建設者たちは、この法則を数式では知らずとも、崩落という手痛い経験を通じて肌で知っていました。飛梁(フライング・バットレス)で横の力を外へ逃がし、壁を薄く高くしていったゴシックの工夫は、石という素材の限界と格闘した知恵の結晶でした。しかし、その工夫にも天井はあった。素材そのものを変えない限り、高さの壁は越えられなかったのです。
エレベーターです。正確に言えば、エレベーターそのものは古くからありましたが、決定的だったのは「安全に落ちない仕組み」でした。1853年、ニューヨークの博覧会で、エリシャ・オーチスは自分が乗った昇降台の吊りロープを観衆の眼前で切断してみせ、落下防止装置が作動して止まると「すべて安全です、諸君」と宣言しました。ロープが切れても、ばねが跳ね上がって歯止めがレールに食い込み、箱は落ちない——このデモンストレーションが、垂直移動への人々の恐怖を一気に解いたのです。高い建物は昔から建てられました。しかし高い階に人が住み、働けるようにしたのはエレベーターです。人は、そう何十段もの階段を毎日上り下りできません。上階が「行きたくない場所」である限り、高層は倉庫にしかならない。オーチスの安全装置がなければ、鋼骨造があっても摩天楼は「積み上がった倉庫」にしかなり得ませんでした。技術史というと、私たちはつい主役の大発明ばかりに目を向けますが、実際にブレイクスルーの鍵を握るのは、こうした地味な脇役のほうであることが多い——これは第8章と、そして「今回の持ち帰り」でもう一度立ち返りたい論点です。
1885年のシカゴ(米国編参照)で鋼骨造とエレベーターが合体して以来、高さは信仰の表現から、地価と資本と国威の表現へと意味を変えます。かつて人が高く建てたのは、神に近づくため、天を仰がせるためでした。しかし近代の摩天楼が高いのは、限られた土地からより多くの床面積を絞り出すため、そしてその都市や国家の力を世界に見せつけるためです。動機が聖から俗へと移ったこの転換は、建設が経済と権力の道具になっていく近代そのものの縮図でもあります。高さの意味が変わったこの転換は、私には建設という産業の宿命を象徴しているように思えます。かつて職人が神のために腕を尽くした場所に、いまは投資家が資本のために床面積を求める。それでも、そこで実際に鉄骨を組み、コンクリートを打つのは、依然として一人ひとりの職人の手です。動機がどれほど俗っぽく変わっても、最後にものを立ち上げるのは人間の技である——この一点だけは、バベルの時代から今日まで変わっていません。エッフェル塔(1889年、300m)が初めてピラミッドの2倍の高さに人類を運び、鉄という新素材の力を万博の場で高らかに宣言しました。この塔は当初、鉄をむき出しにした無骨な姿が「醜悪だ」と芸術家たちに猛反対されましたが、やがてパリそのものの象徴になりました。新しい素材が生む新しい形が、時に既存の美意識と衝突し、それを乗り越えて定着していく——素材の革命は、しばしば美学の革命でもあったのです。エンパイア・ステート・ビル(1931年、381m)が大恐慌のどん底で410日という工期の金字塔を打ち立て、規格化された鉄骨を流れ作業のように組み上げる近代施工管理の到達点を示しました。以後、記録はマンハッタンからアジアへ、そして湾岸へと渡りました。台北101(2004年、日本の熊谷組ら施工——日本編参照)、ブルジュ・ハリファ(2010年、828m、韓国サムスン物産らの施工)、そして着工から曲折を経てなお建設が続く1000m級のジッダ・タワー。高さの記録を担う顔ぶれが、欧州から北米、そして東アジア・中東へと移っていく様は、そのまま世界経済の重心の移動を写した地図のようでもあります。
高さの近代には、有名な経験則がついて回ります。「摩天楼指数」——世界一高いビルの完成は、なぜか経済危機と重なるという観察です。1931年のエンパイア・ステートは大恐慌に、1997年竣工のペトロナスツインタワーはアジア通貨危機に、2010年のブルジュ・ハリファはドバイ・ショックと世界金融危機の直後に開業しました。並べてみると不気味なほど符合しますが、学術的な因果としては眉に唾をつけるべき法則です。世界一のビルなど数えるほどしか建たないので、そもそも統計として弱い。それでも、この経験則が語り継がれるのには理由があります。その機序の説明——超高層の意思決定は、カネ余りと熱狂が頂点の時にしか下されず、完成する頃には宴が終わっている——が、あまりに腑に落ちるからです。史上最も高いビルを建てようという決断は、地価が高騰し、資金が余り、未来を誰もが楽観している時にしか下されません。ところが超高層は着工から完成まで何年もかかる。その数年のあいだにバブルは弾け、建物が姿を現す頃には景気は谷底にある——というわけです。これは、バベルの塔以来の建設と傲慢の物語の、近代経済版として出来すぎています。天に届こうとした塔が言語の混乱で崩れた神話と、頂点の慢心が経済の崩壊と重なる観察とは、どこか同じことを言っている。人間は、絶頂の時ほど最も大きく、最も高く建てたがり、そしてその絶頂こそが転落の始まりだ、と。摩天楼指数を、私は占いとしてではなく、警句として受け取っています。景気がよく、資金が潤沢で、未来がどこまでも明るく見えるとき——その時こそ、身の丈を超えた計画に踏み込みやすい。工期の長い大きな投資ほど、決断した時の景色と完成した時の景色が食い違う危険をはらむ。これは一棟のビルにも、一つの会社の設備投資にも通じる、時間差のこわさです。好況の熱に浮かされず、完成する数年後の地面がどうなっているかを冷静に見積もる——その規律の欠如を、この経験則は突いているのだと思います。
そして今、この数千年のゲームに、思いがけない形で幕が引かれようとしています。実際、中国は2021年、500mを超える超高層の新設を原則禁止しました(中国編参照)。世界のあちこちに驚異的な速さと量で構造物を建ててきた、当の「基建狂魔」——インフラ建設の狂った悪魔とまで呼ばれた国——が、自ら高さの上限に線を引いたのです。防災や維持管理のコスト、そして見栄のための高さ競争への反省が、その背景にあります。高さ競争という数千年のゲームは、21世紀に入り、当の担い手の手で幕引きが宣言されつつあるのです。より高く、より大きく、が無条件の善だった時代が終わり、「本当に必要な高さか」「建てた後、誰がどう維持するのか」が問われ始めた。これは超高層に限った話ではありません。町場の一棟の建物にも通じる、成熟した社会の建設観への転換だと私は受け止めています。
ここまでの物語の主語は、神殿や帝国や素材でした。しかし建設史の本当の主語は、名前の残らない無数の身体です。ピラミッドを設計した神官の名は残っても、石を運んだ人々の名は残りません。摩天楼を発注した富豪の名は建物に刻まれても、鉄骨の上を歩いた鳶職の名はどこにもない。この章は、各国編を貫いてきた問い——誰が建てたのか——を、人類史の尺度でまとめ直します。そしてこの問いは、経営者として現場に関わる私にとって、最も切実で、最も現在進行形の問いでもあります。
名前が残らない、というのは単なる感傷ではありません。それは、この産業に一貫して流れている非対称——構想する少数と、身体を差し出す多数——の反映です。建てるという行為は、常に大人数の身体を必要としてきました。石を切り出し、運び、積み、掘り、担ぐ。機械のない時代、その力の源は人間の筋肉のほかにありませんでした。だから建設の歴史は、そのまま「人をどう集め、どう働かせたか」の歴史でもあります。そしてその集め方こそが、それぞれの社会のありようを、最も残酷なまでに正直に映し出してきました。
前近代の建設労働の基本形は、賦役でした。エジプトの農閑期動員、中国の徭役、日本の天下普請、インカのミタ、欧州のコルヴェ。呼び名は文明ごとに違いますが、仕組みは驚くほど共通しています。国家が民の時間を税として徴収し、それでピラミッドと長城と街道が建ちました。貨幣で賃金を払って人を雇うのではなく、「年に何日かはお上のために働け」という形で労働そのものを税として取り立てる。これが、機械もクレーンもない時代に、巨大な構造物を建てるための人類共通の解でした。中国の万里の長城や大運河、日本の城郭や治水普請は、この賦役という仕組みなしには考えられません。膨大な人手を、貨幣を介さずに国家が直接動かせたからこそ、あれほどの規模のものが前近代に成立しました。裏を返せば、それは民衆にとって重い負担であり、時に反乱の火種にもなりました。度を越した動員が王朝を倒した例は、東西の歴史に事欠きません。建てる力の源泉である労働の徴発が、そのまま統治の安定を揺るがす——建設の規模と、社会が耐えられる負担のあいだには、常に危うい均衡がありました。第2回で見たように、ピラミッドですら鞭打たれた奴隷ではなく、農閑期に交代で従事する組織された労働者の仕事だった可能性が高い——建設の動員は、時に国家が民に食と仕事を与える社会統合の仕組みでもあったのです。動員が搾取になるか統合になるか、その分かれ目は、働く人々がそこに納得と誇りを見いだせたかどうかにありました。これは規模こそ違え、人を雇って現場を預かる今日の私たちにも、そのまま当てはまる問いだと感じます。ただし、その動員が常に人道的だったわけではありません。奴隷労働も確かにありました——ローマの鉱山と大工事、そして近代でも、ソ連の白海運河(囚人労働)、ナチスのトート機関(強制連行労働者100万人超)、日本の戦時強制労働(花岡事件)と、20世紀は建設における不自由労働の最悪の世紀でもありました(各国編参照)。技術が最も進んだはずの世紀に、最も大規模な強制労働が行われたという事実は、私たちを謙虚にさせます。この歴史は、建設業が今も背負う原罪です。目をそらさず、記録し、繰り返さない——それが、この産業に連なる者の責務だと思います。
近代の賃労働の時代になっても、一つのパターンが執拗に反復されます。建設現場の最底辺は、常に「よそから来た人々」が担う、というパターンです。列挙してみると、その普遍性に慄然とします。英国の運河と鉄道を掘ったアイルランド人ナヴィー。飢饉を逃れて渡ってきた彼らが、産業革命の血管である運河と鉄道を素手同然で掘りました。米国の大陸横断鉄道の中国人と、今日の現場のラテンアメリカ人。日本の高度成長を支えた東北の出稼ぎと、現在の技能実習・特定技能の外国人。中国の3億人の農民工。都市の戸籍を持たないまま都市を建て続ける、人類史上最大の移動労働者の群れです。西独のガストアルバイター、英独の現場のポーランド人。そして現代の湾岸諸国では、カファラ制度の下で南アジアからの出稼ぎ労働者が、パスポートを雇用主に預けたまま灼熱の現場で働き、ワールドカップのスタジアム群の建設をめぐって国際的な批判を浴びました。なぜ、これほどまでに同じ構図が繰り返されるのか。建設労働は、きつく、危険で、天候に左右され、そして現場が終われば次の土地へ移らねばならない。定住し、地縁を持ち、他に選択肢のある人々は、しだいにこの仕事から離れていきます。空いた最底辺を埋めるのは、いつも、ほかに行き場のない「新参者」——飢饉や貧困や戦乱を逃れてきた、その土地の外から来た人々でした。彼らは低い賃金で過酷な条件を引き受け、都市を建て、そして往々にして、自分が建てた繁栄の分け前にあずかれないまま次の現場へと去っていく。国も時代も宗教も違うのに、構図はまったく同じです。時代と大陸を問わず、都市の繁栄は「その都市の完全な市民ではない人々」の労働で建てられてきた——これは、本連載の全巻を通じて最も重く、最も普遍的な発見です。そしてこれは、日本の中小建設業がまさに今直面している課題でもあります。担い手の高齢化と若手の不足のなかで、外国人材にどう向き合い、どう共に働き、どう技能を継承していくのか。40万年繰り返されてきたこの構図の、次の一頁を書くのは私たち自身です。
身体のリスクも、建設労働の宿命でした。高い所、重い物、鋭い刃、崩れる土——建設現場は、人類が作り出した最も危険な労働環境の一つであり続けてきました。ピラミッドの労働者の骨には治癒した骨折の痕が残り、彼らが重労働のなかで負傷し、それでも手当てを受けて回復し、また現場に戻っていたことを物語ります。丹那トンネルの67人、黒四の171人、フーバーダムの96人、パナマ(フランス期)の2万人以上——各国編で数えてきた殉職者の列は、建設が長らく「最も死ぬ仕事」の一つだったことを物語ります。パナマ運河のフランス期に至っては、その多くが黄熱病とマラリアに斃れました。構造物は、しばしば文字通り人の命の上に建っていたのです。転機は20世紀です。1919年に米国でヘルメット(ハードハット)が商品化され、頭上からの落下物という、それまで運任せだった危険に、初めて組織的な備えが生まれました。1930年代のゴールデンゲート橋は、ヘルメット着用を義務づけ安全ネットを張った史上初の大現場となって、ネットは19人の命を救いました。落ちても死なせない、という発想が現場に持ち込まれた記念碑的な工事です。命を救われた作業員たちは「ハーフウェイ・トゥ・ヘル・クラブ(地獄への道を半分行って戻ってきた会)」と自らを呼んだと伝わります。ここに、建設の安全思想の核心があります。人はミスをする、物は落ちる、それを前提に、落ちても死なない仕組みをあらかじめ張っておく——個人の注意力に頼るのではなく、仕組みで守るという発想の転換です。ヘルメットも、安全ネットも、命綱も、すべてこの一点から生まれました。裏を返せば、それ以前の数千年、建設現場では人が落ちれば死ぬのが当たり前で、それを防ぐのは本人の運と用心だけだった、ということでもあります。「安全は生産性に優先する」という思想が制度になるまでに、人類は数千年を要したのです。数千年です。石を積み始めてから、落ちても死なない工夫が当たり前になるまで、それだけの時間がかかった。
それでも今なお、建設業は世界のほぼすべての国で労災死亡率の最悪クラスにあり、この産業の近代化は未完です。ヘルメットも安全ネットもある現代においてなお、建設は他産業に比べて格段に危険な仕事であり続けている。だからこそ、朝礼のKY活動も、足場の点検も、墜落制止用器具の一つひとつも、決しておざなりにできない。数千年かけて人類がようやく手にした「落ちても死なせない」思想を、日々の現場で守り続けることが、この歴史の末端にいる私たちの仕事です。そしてもう一つの未完が、ジェンダーです。石工ギルドから排除されて以来、建設は人類で最も男性に偏った産業の一つであり続けており、多くの国で女性比率はいまだ1割前後にとどまります。中世の職人組合が女性を締め出したその慣習が、機械化が進み腕力の意味が薄れた現代においてなお、産業の構造として残っている。機械化とデジタル化が進み、腕力よりも段取りや管理や技術が現場の価値を左右するようになった今、この偏りを支えてきた前提はすでに崩れています。それでも構造としての偏りが残っているのは、慣習と設備と意識が、技術の変化に追いついていないからにほかなりません。トイレも更衣室も男性を前提に作られてきた現場を、誰もが働ける場所へと作り替えていくことは、担い手不足に悩む中小建設業にとっても、もはや理想論ではなく現実的な生存戦略です。人手が細っていくこの国で、働き手の半分を占める人々を最初から数に入れないという選択は、もはや成り立ちません。40万年の建設史の労働の記録は、その大部分が、まだ書かれていない人々の歴史でもあります。名の残らなかった無数の身体と、これから現場に加わるはずの、まだ見ぬ担い手たち——その両方に、この産業は責任を負っているのだと思います。

①私たちはコンクリート惑星に住んでいる。人工物の重さが全生物の重さを超えた——建設は地質学的な営力になり、だからこそ脱炭素と資源の問いが、この産業の中心課題になりました。年300億トンのコンクリート、砂の枯渇、CO2排出の約8%。かつて「もっと建てる」ことが無条件の善だった産業は、いま「どう建て、どう建てないか」を問われています。②ブレイクスルーは「脇役の発明」から来る。摩天楼を可能にしたのは鋼だけでなく、オーチスの落下防止装置でした。安全装置という地味な発明が、産業の限界を書き換えた。派手な主役の裏で、目立たない一つの工夫が全体の可能性を開く——これは新しい工具や小さな業務改善が現場を変えていく、今日の私たちの実感にも通じます。③繁栄の請求書は、まだ払い終わっていない。「よそから来た人々」への依存と、労災死亡率と、女性比率1割——40万年の建設史が現代に残した宿題です。この三つの宿題に、どんな答えを書くのか。それは歴史の傍観者としてではなく、現に人を雇い、現場を回す当事者として、私たち自身が問われていることでもあります。
最終回(5)は、災害と住まいと現在地。「建築基準は血で書かれている」の文字通りの歴史、10億人のスラム、そして月面基地まで——連載25回の締めくくりです。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。統計値(人工物質量、CO2比率等)には推計幅があります。