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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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世界最古の文書は工事の記録、ピラミッドを建てたのは奴隷ではなく誇り高き労働者、世界最古の法典には死刑つきの建築責任——文字・数学・官僚制という「文明のOS」が建設から生まれた話と、都市という人類最大の人工物の話です。
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「建設と人類史」の第2回です。前回は、農業より古い神殿ギョベクリ・テペを見ました。狩猟採集の民が、まだ畑を持たないうちに、巨大な石柱を立てて環状に並べた——建設は文明の結果ではなく、むしろ原因だったのかもしれない、という話でした。今回はその続き、人類が「集まって建てる」ことを覚えたあとの物語です。建設が国家と文字と法を発明した話、そして人類最大の人工物——都市——の物語を辿ります。世界最古の文書が工事の記録だったこと、世界最古の成文法が建築の責任を定めていたこと、そして人類の寿命を最も延ばした発明が配管工事だったことを、順に見ていきます。派手な建造物の裏で、地味で見えない仕事がいかに文明を支えてきたか。建設業に身を置く一人として、私はこの裏方の系譜に、いつも励まされるのです。

メソポタミアとエジプトで最初の国家が生まれたとき、その中核業務は戦争でも祭祀でもなく、土木でした。氾濫する大河から水を引き、堤を築き、運河を浚渫し、維持する——灌漑です。ティグリス・ユーフラテスもナイルも、放っておけば毎年氾濫して土地を洗い流す暴れ川であり、同時に、うまく手なずければ肥沃な土を運んでくる恵みの川でもありました。この「暴れる水を制御して富に変える」という巨大な土木事業は、一つの村では手に負えません。誰が労働力を集め、誰が水路の順番を差配し、誰が余った収穫を蓄えて次の工事に回すのか。灌漑という工事の段取りそのものが、人を束ねる仕組み——すなわち国家——を必要としたのです。
政治学者ウィットフォーゲルは20世紀半ば、この関係を鋭く定式化しました。「大規模灌漑は強制的な集団労働と中央管理を必要とし、それが専制国家を生んだ」という「水力社会(hydraulic society)」仮説です。水を支配する者が人を支配する、というこの見立ては強い説得力を持ち、長く影響を残しました。ただし、その後の考古学は反証を積み上げていきます。実際の初期の灌漑は、中央の巨大権力が号令をかけて始めたのではなく、むしろ村落レベルの住民が自主的に水路を掘り、話し合いで水を分け合うところから始まっていた——つまり因果は「国家が灌漑を作った」のではなく、順序が逆か、あるいは相互に育て合った、というのが今日の理解に近い。仮説は修正されました。けれども、因果の向きがどちらであれ、治水・灌漑という工事と国家権力が一体となって成長したことは動きません。中国編で見たとおり、東アジアでは「治水」と「治国」がまさに同じ「治」の一字で語られ、紀元前に都江堰を築いた李氷(りひょう)が2200年ものあいだ祀られ続けている。水を治めることが人を治めることと分かちがたい、という直観は、洋の東西を問わず刻まれているのです。
そして、文字です。世界最古の文字体系である楔形文字が、詩や神話や祈りのためではなく、まず事務のために生まれたことは、よく知られています。粘土に葦のペンで刻まれたこの文字は、当初は絵文字に近く、やがて抽象化されていきました。メソポタミア南部の都市ウルクから出土した最古級の粘土板の多くは、文学でも王の武勲でもなく、労働者へ配る大麦とビールの配給記録、家畜や穀物の在庫台帳です。文字はまず、帳簿として生まれた。象徴的なのは、人類史上、名前が記録された最初の個人とされる人物が、王でも英雄でも預言者でもなかったことです。その名を「クシム」といい、大麦の出納に署名した会計係でした。人類が固有名を残した最初の一人が、経理担当だった——これは示唆に富みます。建設と灌漑の現場で「誰に何をどれだけ渡したか」を記録する必要が、文字を呼び寄せたのです。
大規模な建設が、本質的に「大人数をいかに協力させるか」という難題であったことも、この時代の物語は雄弁に語ります。メソポタミアの都市では、天を目指す聖塔ジッグラトが幾層にも積み上げられました。この天まで届こうとする塔のイメージが、後に旧約聖書の「バベルの塔」——人間が驕って天に届く塔を建てようとしたところ、神が人々の言語を乱し、意思疎通ができなくなって工事が頓挫し、人々は各地へ散っていった、という物語——を生んだと言われます。この神話は、巨大建設の核心を鋭く突いています。すなわち、石を積む技術そのもの以上に、大勢の人間を同じ目的に向かって束ね、正しく意思を通わせることこそが、建設の最大の難関だという洞察です。言葉が通じなければ、塔は建たない。図面が共有されず、段取りが伝わらなければ、どんな資材と人手があっても現場は崩れる。四千年前の神話が言い当てたこの真実は、現場に立つ者なら誰しも、身にしみて知っているはずです。建設とは、石を積む技術であると同時に、人と人を協力させる技術なのです。
数学もまた、同じ地面から生えてきました。幾何学を意味する英語 geometry の語源は、ギリシャ語で「土地(geo)を測る(metron)」ことにほかなりません。歴史家ヘロドトスは、幾何学の起源を、ナイルの氾濫のたびに流された耕地の境界を測り直したエジプトの測量師——縄を張って直角を出す「縄張り師(ハルペドナプタイ)」——に求めました。毎年水に洗われる田畑の面積を公平に割り出し、それに応じて税を課すために、人は角度と面積を計算する技術を磨いたのです。暦もまた同様で、氾濫の周期と、種まき・収穫の農事暦、そして労役を課す予定表として整えられていきました。つまり、官僚制・文字・数学・暦という「文明のOS」一式は、かなりの部分、巨大建設と灌漑を管理するための技術として発明された。誰を、いつ、どれだけ動員し、資材と食料をどう配り、出来高をどう記録するか——現場を回すためのこの一連の段取りが、そのまま文明の基本ソフトになったのです。私たちが今日、当たり前に使っている工程表も原価台帳も出面(でづら)管理も、五千年前の灌漑現場の帳簿の、遠い子孫だと言えます。町場の小さな会社でも、日々の材料と手間の記録を淡々と残すことが、実は文明の最古の作法を受け継いでいる——そう思うと、面倒な事務仕事も少し誇らしく感じられます。

そうした古代建設の頂点が、ギザの大ピラミッドです(紀元前2500年代、エジプト古王国のクフ王による)。平均2.5トンほどの石灰岩ブロックを、二百数十万個も積み上げたと見積もられる、途方もない事業でした。この建造物については、長らく「無数の奴隷が鞭打たれ、汗と血であがなって建てた」という物語が語られてきました。旧約聖書の出エジプト記のイメージや、後世の映画が、その像を強く印象づけてきたのです。しかし20世紀末からの発掘は、まったく別の姿を掘り出しました。
ピラミッド現場のすぐ傍らには、建設労働者たちが暮らす村があったのです。そこにはパンを焼く工房が並び、ビールを醸す施設が稼働し、労働者たちは牛や魚をふんだんに食べていた形跡があります。労役でけがをすれば治療を受け、骨折が治癒した跡のある骨も見つかっている。そして命を落とせば、ピラミッドのすぐ近くに、副葬品とともに丁重に葬られました。奴隷を使い捨てにするなら、こんな手間はかけません。さらに石材の内部からは、建設にあたった作業班が誇らしげに書き残したチーム名が見つかっています。「クフ王の友」といった、いかにも士気の高そうな班の名です。これらが物語るのは、賦役(ふえき)ベースの組織労働——ナイルが氾濫して農作業のできない農閑期に、各地の農民が交代で動員され、報酬と食事を得て働く仕組みでした。古代エジプト人にとって、神とみなされた王の墓を築くことは、屈辱の強制労働ではなく、共同体の一員としての奉仕であり、おそらくは国家的な誇りの大事業だったのです。ピラミッド建設は、農閑期の人々に食と仕事と帰属意識を与える、壮大な社会統合プログラムでもありました。氾濫でナイルが田畑を覆い、農作業のできない数か月のあいだ、国家が人々に糧と役割を与え、共同の大事業へと束ねる——これは、後の時代に大恐慌下のアメリカがフーバーダムを築き、戦後の日本が黒部の山を掘って人々に仕事と誇りを与えたことと、深いところで通じています。巨大公共工事には、構造物を残す以上に、社会そのものを編み直す働きがある。この視点は、四千五百年を経ても古びません。人を働かせるのに恐怖ではなく誇りを使う——これは現代の現場運営にも、そのまま突き刺さる話です。班に名前がつき、その仕事が誰の目にも残るとき、人は驚くほど力を出す。小さな工務店の朝礼でも、変わらないことだと思います。
この「誇りの現場」像を決定的に裏づけたのが、2013年、紅海沿岸のワディ・アル=ジャルフで発見された、世界最古のパピルス文書群です。それはなんと、クフ王の治世27年に、トゥーラの石灰岩を切り出し、船でギザの建設現場へと運んだ、中間管理職メレルの業務日誌でした。どの日にどれだけの石を積み、どの水路を使い、何人でどこへ運んだか——現代でいえば、資材運搬の日報そのものです。人類が残した最も古い紙(パピルス)の記録が、王の詩でも神への祈りでもなく、建設プロジェクトの輸送日報だった。文明の記録は、文字どおり工事の記録として始まったのです。メレルという一人の現場監督の几帳面な帳面が、四千五百年の時を越えて、私たちに「建設の管理は文明と同い年だ」と教えてくれる。日報を軽んじてはいけない、という教訓を、これほど重々しく語る史料もありません。
建設は、国家と文字と数学を生んだだけではありません。法も生みました。紀元前18世紀、バビロニアのハンムラビ王が石柱に刻ませた成文法典——世界最古級の体系的な法典として名高いこのハンムラビ法典の、第229条以下に、建設をめぐる条文が並んでいます。いわく——建築者が人のために家を建て、その施工が堅固でなかったために家が倒れ、家の主が死んだなら、その建築者は死刑に処す。もし施主の息子が死んだのなら、建築者の息子を死をもって償わせる。奴隷が死ねば奴隷で、財産が壊れれば壊れた分と同等の財産で弁償し、崩れた部分は建築者が自費で建て直せ、と。今日の目で見れば「目には目を」の同害報復は苛烈にすぎますが、ここで注目すべきは処罰の重さそのものではありません。世界最古の成文法典の中に、世界最古の建築基準と、瑕疵(かし)担保責任の原型がはっきりと刻まれている、という事実です。
「建てる者は、その仕事の結果に責任を負う」——この原則は、文明が文字を持ったまさにその黎明期に、すでに石に刻まれていました。四千年近く前の人々が、手抜き工事で人が死ぬことの重さを知り、それを個人の良心任せにせず、成文の掟として定めた。建築の品質保証は、後付けの近代的制度ではなく、都市が生まれると同時に立ち上がった、文明の根源的な約束事なのです。私たちが今、建設業法や瑕疵担保、住宅の品質確保に関する法の下で仕事をしているのは、ハンムラビの石柱からまっすぐ伸びた一本の線の上にいる、ということでもあります。そしてこの「建てる者は結果に責任を負う」という約束が破られたとき、文明の側で何が起きるのか——その現代における帰結は、この連載の最終回で、崩落した橋やトンネルとともに見ることになります。約束は古く、破られたときの代償は、今もまったく古びていません。
なお、そのギザの大ピラミッド(当初の高さは146.6メートルと復元されています)は、完成からおよそ3800年ものあいだ、人類が建てたなかで最も高い構造物であり続けました。青銅器時代の一建造物を、その後の人類が、鉄器時代を経ても、ローマ帝国の全盛期を経ても、38世紀にわたって一度も超えられなかった——建設史の時間の尺度は、王朝が興っては滅びる政治史のそれとは、まるで桁が違うのです。数十年で会社が消えることも珍しくない世の中で、建てたものが数千年残ることの意味を、私はときどき静かに噛みしめます。その気の遠くなるような記録を、いったい誰が、どんな建物で最初に打ち破ったのか——それは次回、神々と帝国の章で語ります。

人類が作り出した最大の道具は、ハンマーでも、船でも、コンピュータでもありません。都市です。都市は、無数の建設行為が数世紀、ときに数千年にわたって層をなして積み重なった、集合的で巨大な人工物です。一人の設計者が図面を引いて完成させたものではなく、数え切れない世代の名もなき職人と住人が、少しずつ手を入れ続けてできあがった、生きた構築物なのです。そして今や、人類の過半数が、この最大の人工物の中に住んでいます。
興味深いのは、人類が最初期に作った都市の完成度が、しばしば現代人の素朴な想像を上回ることです。インダス文明のモヘンジョダロ(紀元前2500年頃、今日のパキスタン領内)は、その代表格です。この都市は、日干しではなく火でしっかり焼き固めた焼成煉瓦で建てられ、しかもその煉瓦は縦・横・厚みが4対2対1という規格比率にほぼ統一されていました。四千五百年前に、煉瓦の寸法が標準化されていたのです。街路は碁盤の目のように格子状に走り、都市はあらかじめ計画されて建設されたことがうかがえます。そして驚くべきことに、多くの住居に水浴びのための部屋と水洗式のトイレが備わり、そこから出る汚水は、通りに沿って走る蓋付きの下水溝へと導かれ、集められていました。世界最古の都市下水道です。中心部には、大きな沐浴施設(大浴場)まで設けられていました。煉瓦の寸法をそろえ、街路を格子に通し、都市全体に下水を巡らせるということは、個々の家がてんでんばらばらに建てたのでは成り立ちません。誰かが全体の規格を定め、区画を割り付け、共同のインフラを敷設し、それを維持する取り決めがあった——つまりモヘンジョダロの整然とした街並みの背後には、目には見えない都市計画と、それを担う社会組織が確かに存在したのです。土器や建物には目立った王宮や巨大な王墓の跡が乏しく、権力を誇示する記念碑よりも、住民の暮らしの質を底上げする実用のインフラに、この文明が力を注いでいたことがうかがえます。見せるための建設よりも、暮らしを支える建設を選んだ都市——その価値観の先進性にこそ、私は舌を巻きます。
ここで立ち止まって考えたいのは、この衛生水準の意味です。19世紀のロンドンやパリといった近代の大都市が、コレラで累々たる死者を出したあげく、ようやく苦労して到達した上下水道の水準に、モヘンジョダロは四千五百年前にすでに達していた。しかも、その技術はインダス文明の衰退とともに失われ、南アジアが再び同じ衛生水準を取り戻すには、その後、数千年を要したのです。ここに、建設史のもっとも重い教訓の一つがあります——建設技術は、右肩上がりの進歩の一方通行ではない、ということ。文明が滅びれば、その建設の知恵もまた、まるごと忘れられうる。後のヨーロッパ編で見るように、ローマ人が使いこなした耐久性の高いコンクリートの製法は、帝国の崩壊とともに実に1300年ものあいだ失われ、人類は同じ技術を再発明するのに千年以上を費やしました。都市の衛生の知恵も、同じように忘却されうる。積み上げてきたものは、油断すれば失われる。これは古い会社の技術や段取りの伝承にも、そのまま当てはまる話だと感じます。先代が当たり前にできていたことが、二代下がると誰も再現できない、というのは、現場では珍しくないのです。
古代都市の一つの極限が、ローマでした。その人口は、最盛期にはおよそ100万に達したと見積もられています。産業革命より前の世界で、これほどの規模の人口を一つの都市に集めて維持できた例は、他にほとんどありません。100万人が一か所で暮らすということは、100万人分の水を毎日運び込み、100万人分の汚物を毎日運び出し、100万人分の食料を絶えず供給し続けなければならない、ということです。これは、神殿や凱旋門をいくつ建てようと解決しない、純然たる土木とインフラの問題でした。
それを可能にしたのは、地味な建設物の集積です。遠くの山から水を引いてくる11本もの水道。汚水を一手に引き受けてテヴェレ川へ流す大下水道、クロアカ・マクシマ。コンクリートと焼成煉瓦で何層にも積み上げられた集合住宅、インスラ。市民が体を清め、語らい、憩う場だった公衆浴場(テルマエ)——湯を沸かし、床下や壁に熱を通す仕組みまで備えたこの施設群も、豊かな水があってこそ成り立ちました。そして各地の穀物を運び込む港と、軍と物資を高速で移動させる石畳の街道。共和政期の前312年に着工されたアッピア街道をはじめとする道路網は、「すべての道はローマに通ず」という言葉のとおり、帝国の血管でした。つまり、ローマの偉大さの実体は、勇猛な軍団と同じくらい、いやそれ以上に、配管と舗装だったのです。歴史の教科書は皇帝と戦争を語りますが、100万都市を日々生かしていたのは、水道の勾配と下水の流れでした。
もっとも、その足元の現実は、決して美しいだけではありませんでした。庶民が住む安普請のインスラでは、手抜き工事による倒壊や火災が日常茶飯事だったのです。木材を多用した高層の集合住宅は、いったん火が出れば燃え広がりやすく、崩れやすい。この混乱に付け込んで財を成した男が、共和政末期の大富豪クラッススです。彼は自前の私設消防隊を組織し、火事が起きるとその現場へ真っ先に駆けつけました。そして、燃えさかる家の持ち主に「今すぐ安値で売れ」と迫り、二束三文で買い叩いてから、おもむろに消火にとりかかった——そうやって焼け残りの物件を安く手に入れ、莫大な不動産資産を築いたと伝えられます。都市とは、水道橋のような壮麗なインフラの奇跡と、手抜き工事や火事場泥棒のような建設の腐敗とが、最初から同じ場所に同居する場——そういう両義的な空間なのです。立派な社屋の裏で下請けが泣いている、という構図が古代からあったと思えば、業界の不正を正す努力は、二千年来の課題への挑戦だとも言えます。
そして、都市を都市たらしめてきた、もう一つの決定的な建設物があります。壁です。漢字の「城」が、城壁そのものと、その壁に囲まれた都市の両方を意味するように、前近代のほとんどの文明において、都市とは何よりもまず「壁に囲まれた場所」のことでした。前章で触れたエリコの古い城壁や、メソポタミアの都市を囲む壁がそうであったように、壁は外敵から住民の命と財産を守る防御装置です。しかしそれだけではありません。壁は同時に、内と外、市民とよそ者、課税される者とされない者を截然と分ける、強力な制度装置でもありました。門をくぐる者を検め、市に入る物に税をかけ、内側の秩序を外側と区別する。壁は、石とモルタルでできた社会制度だったのです。だからこそ、ヨーロッパの諸都市が19世紀に入って、役目を終えた城壁を次々に取り壊し、その跡地を環状の大通りに造り替えていったこと——ウィーンで旧城壁を撤去して環状道路リンクシュトラーセを敷いたのがその典型です——は、単なる都市改造以上の意味を持ちました。それは、都市が「軍事の容器」であることをやめ、「経済の機械」へと変わっていく瞬間を、石で刻んだ出来事だったのです。
都市はやがて、目に見えない建設——衛生インフラ——によって、いわば二度目の誕生を遂げます。舞台は19世紀、産業革命に沸くヨーロッパの工業都市です。工場を求めて農村から膨大な人口が流れ込んだこれらの都市は、しかし、その急激な人口爆発を受け止めるインフラを持っていませんでした。汚水は路地にあふれ、飲み水は糞尿に汚染され、都市はたちまちコレラの巣窟と化します。「進歩」の象徴だったはずの近代都市が、人が次々に病んで死ぬ場所になってしまった。
この危機の中から、公衆衛生と近代都市計画が生まれます。ロンドンでは1854年、医師ジョン・スノウが、あるコレラの流行を丹念に地図に落とし込み、特定の井戸の水を飲んだ人々に感染が集中していることを突き止めました。病気が「悪い空気」ではなく汚染された水を介して広がる、という決定的な洞察です。さらに1858年、夏の猛暑でテヴェレ川ならぬテムズ川が凄まじい悪臭を放った「大悪臭(Great Stink)」事件が、議会をようやく本気にさせました。この危機を受けて技師バザルジェットが設計・建設した、ロンドン全域をおおう壮大な大下水道網は、汚水を都市の外へ運び去り、飲み水と切り離すことで、コレラを都市から締め出したのです(このロンドンの下水道の物語は、後のヨーロッパ編でも詳しく触れます)。興味深いのは、四千五百年前のモヘンジョダロがすでに到達していた「汚水と飲み水を分ける」という原理に、近代のロンドンが、無数の死者を出したあげく、ようやく再び行き着いた、という点です。人類はときに、はるか昔に知っていたことを、忘れ、大きな代償を払って学び直します。衛生とは、そういう「当たり前になったとたんに忘れられる知恵」の代表格なのです。
この「見えない建設」が人類にもたらした恩恵の大きさは、いくら強調してもしすぎることはありません。上下水道の普及が平均寿命を延ばした効果は、20世紀に生み出されたほとんどの医薬品を上回る、と評価する公衆衛生史家は少なくないのです。人類の寿命をもっとも延ばした発明は何か、と問われれば、ワクチンや抗生物質と並んで、水道と下水道——つまり配管工事だった、と答えるべきでしょう。都市の歴史は、しばしば壮麗な大聖堂や宮殿を主役に語られます。けれども、都市に住む人々の生と死を実際に分けてきたのは、地面の下を走る、誰の目にも触れない地味な建設だったのです。この「見えないものこそが本体である」という逆説的な構図は、じつはインフラという言葉そのものに刻み込まれています。infrastructure——infra(下部の)+ structure(構造)、すなわち「下部構造」。本体は、いつも下に、見えないところにある。うまく機能しているインフラは、誰にも意識されない。これは建設の宿命であると同時に、老朽化対策やメンテナンスが世の中で常に後回しにされ続ける、根深い理由でもあります。経営でも同じで、目立つ新規事業の裏で、地味な保守や積立や人の育成を怠った会社が、あるとき足元から崩れるのを、私は何度も見てきました。
最後に、維持を怠った都市がどうなるのかを、一つの巨大な廃墟が、雄弁に教えてくれます。カンボジアのアンコールです。密林に埋もれたこの遺跡は、近年のLiDAR(レーザーによる上空からの地形計測)調査によって、その本当の広がりが明らかになりました。中心の寺院群だけでなく、周辺の集落や田畑を含めた都市複合の総体は、およそ1000平方キロメートルにも及んでいた——産業革命以前の世界において、これは世界最大級の規模を持つ都市だったのです。そして、この広大な都市の心臓部にあったのは、宮殿でも寺院でもなく、バライと呼ばれる巨大な貯水池と、それらを結ぶ水路が織りなす、精緻きわまる水管理のネットワークでした。雨季に降る大量の水を溜め、乾季にそれを配って稲作を支える。アンコールの繁栄は、この水インフラの上に、文字どおり乗っていたのです。
ところが、この都市はやがて衰退し、放棄されます。近年の研究が示唆するのは、その一因が、気候の激しい乱高下にあったということです。極端な干ばつと、それに続く激しいモンスーンの豪雨——不安定になった気候の下で、水を溜め、配り、あふれさせないための複雑な水インフラの維持と改修が、次第に追いつかなくなっていった。水路は詰まり、堤に土砂が溜まり、それを浚い、直しきれなくなったとき、都市を支えていた血流が止まったのです。アンコールを滅ぼしたのは、外敵の軍勢よりも、日々の手入れが追いつかなくなったこと——地味な維持管理の破綻だった、という読み筋には、ぞっとするほどの現実味があります。栄華をきわめた都市が、大水路の一本一本を保ち続ける根気を失ったとき、静かに終わりへ向かった。ここに、この連載を貫く一つの真実が、六百年も前の熱帯の地で、すでにくっきりと書き込まれています。都市は、建てた瞬間から、維持し続けなければ死ぬ。どれほど壮大に築き上げても、日々の手入れを怠れば、それは静かに、しかし確実に崩れていく。イタリアで崩落したモランディ橋や、日本で天井板が落ちた笹子トンネル(それぞれ欧州編・日本編で詳しく見ます)が、私たちに突きつけた維持管理の教訓——その同じ教訓が、六百年前のアンコールの乾いた水路に、一度すでに刻まれていたのです。新しく建てることばかりに目が向き、既にあるものを守り継ぐ仕事が軽んじられる——この偏りは、人類がずっと抱えてきた業のようなものかもしれません。

①「文明のOS」は工事の管理から生まれた。文字も、数学も、暦も、官僚制も、その出自をたどっていくと、建設と灌漑の現場で人と資材と出来高を管理する必要に行き着きます。名前が記録された最初の人類が会計係クシムだったこと、最古の紙の記録がメレルの運搬日報だったことが、それを象徴しています。原価管理も工程管理も出面管理も、後付けの近代技術ではなく、文明そのものと同い年の、由緒正しい仕事なのです。②建てる者は結果に責任を負う——四千年前からの約束。ハンムラビ法典229条以下は、施工の品質責任の紛れもない原点です。手抜きで人が死ねば、建てた者が償う。この重い約束の上に、今日の私たちの仕事も立っています。③都市の本体は、見えない配管である。そして、維持されない都市は死ぬ。寿命をもっとも延ばしたのが配管工事だったこと、アンコールが水インフラの維持に失敗して滅びたこと——派手な上物ではなく、地味なインフラと、それを守り継ぐ日々の維持管理こそが、生死を分ける。これは都市の話であると同時に、会社経営の話としても、そっくりそのまま通用すると、私は思っています。
次回(3)は、神々と帝国。ストーンヘンジの祝祭、3800年ぶりに高さ記録を破った大聖堂、伊勢神宮の「更新による永続」、そしてローマとインカが独立に発明した「帝国=道路網」の話です。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。古代の数値・解釈には資料により幅があります。