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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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建設の起源はホモ・サピエンスより古い——17万6千年前、ネアンデルタール人が洞窟の闇に石筍を並べていました。そして農業より古い神殿ギョベクリ・テペ。「建設は文明の結果ではなく原因だった」を描く連載完結編、第1回です。
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アメリカ150年、日本1400年、中国2200年、ヨーロッパ2000年——4つの大陸の建設史を読んできたこの連載の、完結編となる第5部です。国ごとの物語を書き終えて、私の中には一つの問いが残りました。国が違い、宗教が違い、使う材料も気候も違うのに、なぜ人はどこでも「建てる」のか。だとすれば最後は、一つの国の話ではなく、「建設」という行為そのものと人類史の関係を、正面から描いてみたい。そう考えて、この第5部を書くことにしました。
人類の歴史は、ふつう戦争と王朝と思想で語られます。誰が誰を征服し、どの王が何年に即位し、どんな思想が世を動かしたか。教科書の目次は、たいていその三つで埋まっています。しかし、別の語り方があります。人類がその時々に「何を、どうやって建てたか」で歴史を切ってみると、まるで違う地図が現れる。農業の起源から国家の誕生、文字の発明、都市、帝国、産業革命、そして気候危機まで、驚くほど多くの転換点の中心に、建設という行為が座っていることが見えてきます。考えてみれば、私たちは人類史そのものを石器時代・青銅器時代・鉄器時代と、道具と建材の名前で区分してきました。政治体制でも宗教でもなく、素材で時代を数える——人類は、自らの歴史を建材で数える種なのです。
この第5部の通奏低音となる主張は一つです——建設は文明の結果ではなく、しばしば文明の原因だった。神殿が農業を生み、労務管理が文字を生み、災害が科学を生み、そして建てられたものが、建てた人間を作り替えてきた。因果が逆なのです。豊かになったから建てたのではなく、建てようとしたから豊かになる仕組みを人類は発明した。その証拠を、40万年前から現在まで、5回に分けて見ていきます。第1回である今回は、そもそも「建てる」という行為がいつ始まったのか、そして人類が最初に建てた巨大なものが、なぜ神殿だったのか、という問いを扱います。

建設の起源を探す旅は、意外な場所に着きます。ホモ・サピエンス、つまり私たち現生人類の誕生よりも、はるかに前です。
2016年、科学誌ネイチャーに驚くべき発見が報告されました。フランス南西部のブリュニケル洞窟。その入口から336mも入った、光の一切届かない完全な闇の中に、折り取られた石筍を環状に並べた構造物が二つ、静かに横たわっていたのです。年代測定の結果は、約17万6千年前——現生人類がまだヨーロッパに到達すらしていない時代でした。では、誰が作ったのか。答えはネアンデルタール人です。彼らは火を携えて洞窟の深部まで進み、総重量2トンを超える石筍を、実に400本も折り、運び、円形に並べました。真っ暗な地下で、松明の灯りだけを頼りに、です。
その用途は、今もって分かっていません。祭祀の場だったのか、避難所だったのか、あるいは私たちには想像もつかない何かのためだったのか。しかし、用途が不明でも、確かなことが一つあります。「実用を超えた何かのために、集団で、計画的に、環境を組み替える」という行為——すなわち建設——が、私たちの種に先立って、別のヒト属によってすでに行われていたということです。誰かが計画を立て、複数の手が同じ目的に向かって動かなければ、闇の中に2トンの環は生まれません。建設とは、その最初期から、段取りと分担と共同の作業だったのです。
この発見が研究者を震わせたのには、もう一つ理由があります。それが作られた場所そのものです。洞窟の入口から336mという深さは、太陽の光がまったく届かないだけでなく、空気もよどみ、一歩間違えば方向を見失って戻れなくなる危険な領域です。そこへ到達し、作業するには、火を絶やさずに持ち込み、灯りを管理し、複数の人間が声を掛け合いながら動く必要があった。つまりこの石の環は、思いつきで積まれたものではなく、火の管理・移動・役割分担という、いくつもの技術と約束事の上にようやく成り立ったものです。建設とは、材料を組む技術であると同時に、危険な場所で人が協力し続けるための段取りの技術でもある——その原型が、17万年以上前の闇の底に、すでにあったことになります。
強調しておきたいのは、この最初の建設者が、ホモ・サピエンスではなかったという点です。私たちはしばしば、道具も、火も、建築も「人間、つまり現生人類が発明した」と考えがちです。しかしブリュニケルの環を組んだのはネアンデルタール人であり、彼らは私たちとは系統の異なる別の種でした。建てるという営みは、特定の一種の専売特許ではなく、ヒトという広い系統が共有していた性質だったのです。今日、私たちが当たり前のように建物に囲まれて暮らしている、その根っこは、私たちの種が地上に現れるよりもずっと前、別のヒトたちがすでに握っていました。
さらに時代を遡れば、南仏ニースのテラ・アマタ遺跡では、約40万年前の小屋の跡とされる遺構が報告されています。解釈にはなお学術的な議論がありますが、もしこれが住居であれば、人類は数十万年前から「囲い」を作っていたことになります。もっとも、建てるのは人間の専売特許ではありません。ビーバーはダムを、シロアリは高さ数メートルにもなる塚を、ニワシドリのオスは求愛のために手の込んだ東屋を作ります。動物も、立派に建てるのです。ではヒト属だけが持つものは何か。それは、世代を超えて技術を蓄積すること、実用と象徴の両方のために建てること、そして——ここが決定的ですが——建てたものによって自らの生き方そのものを変えてきたことです。ビーバーのダムは一万年前も今も同じダムですが、人間の建てるものは、建てるたびに人間を変えていきました。
ここで、人間の建設を特徴づける大切な区別に触れておきたいと思います。それは「役に立つために建てるもの」と「意味のために建てるもの」の二つが、人類においては最初から分かちがたく共存していた、ということです。雨をしのぐ小屋は前者、闇の洞窟に並べた石の環は後者。動物の建築は、そのほとんどが前者、つまり生存のための実用に尽きます。ところが人間は、生きるのに直接必要でないものを、多大な労力をかけて建ててしまう。この、一見「無駄」にしか見えない建設への衝動こそが、のちの神殿を、大聖堂を、そして摩天楼を生んでいきました。実用を超えて建てる——その不合理にも見える性質が、実のところ人類の建設史を駆動してきた最大のエンジンだったのです。
そして、建設のもう一つの起源があります。炉です。火を囲む場所を一箇所に定めた瞬間、それまでのっぺりと広がっていた空間に、突然「中心」が、そして「内と外」の境界が生まれました。住まいとは、突き詰めれば、制御された火の周りに張られた一枚の膜にすぎません。しかしその膜の内側に、人間の暮らしの単位が生まれたのです。人類学者たちが繰り返し指摘するように、家(house)を持ったことは、家族(household)という社会の最小単位を持ったことと、分かちがたく結びついていました。英語で世帯を意味するhouseholdという言葉が、そのまま「家」を含んでいるのは偶然ではありません。建てることは、雨露をしのぐことであると同時に、最初から、社会を形作ることでもあったのです。今の言葉で言えば、小さな工務店が一つの「火を囲む単位」から始まるように、人の営みは常に、囲われた小さな場所の中で立ち上がってきました。
ここで一度、時間の尺度を整えておきます。私たちが「歴史」と呼んで教科書で習うのは、せいぜい文字が生まれてからの数千年です。しかし人類が建て始めてからの時間は、その何十倍も長い。テラ・アマタの小屋跡が指し示す約40万年、ブリュニケルの環が示す約17万6千年——文字も、農業も、金属も知らない途方もない時間の中で、人はすでに囲い、積み、並べていました。私たちが人類史を石器時代・青銅器時代・鉄器時代と、材料の名で数えるのは、決して伊達ではありません。人類の歩みのほとんどは、建材と道具の歴史そのものなのです。冒頭で「人類は自らの歴史を建材で数える種だ」と書いたのは、この長い前史を踏まえてのことでした。
そして約1万2千年前、この「建てるヒト」が、人類史最大の謎の一つを、トルコ南東部の乾いた丘の地中に残すことになります。

20世紀の教科書は、文明の順序を、こう明快に教えていました。まず農業が始まり、畑から余剰の食糧が生まれ、食べる心配が減ったことで人口が増え、人が集まって都市ができ、そこに権力と宗教が芽生えて、最後に、その豊かさの証として神殿が建つ。つまり建設は文明の「結果」であり、ピラミッドや神殿は、社会が豊かになったあとに現れる上澄み、贅沢品なのだ、と。腹が満ちて初めて、人は意味を求めて石を積む——これは長らく、疑いようのない常識でした。
この順序が自然に思えたのには、理由があります。私たち自身の経験に、よく馴染むからです。余裕ができてから趣味に手を出す、儲かってから設備に投資する、生活が安定してから家を建てる——個人でも会社でも、私たちはたいてい、そう考えて生きています。だからこそ、文明もまた「まず食い扶持を確保し、余った力で立派なものを建てた」という筋書きが、疑いなく受け入れられてきました。ところが、これから見る証拠は、その馴染み深い順序が、人類の出発点においては当てはまらなかったかもしれないと告げてきます。常識を裏返されるとき、私たちは自分がいかに「今の当たり前」を過去に投影していたかに気づかされます。歴史を学ぶ値打ちの一つは、まさにそこにあると私は思っています。
1990年代半ば、トルコ南東部の丘ギョベクリ・テペで始まった発掘が、この順序を根こそぎひっくり返します。そこから姿を現したのは、高さ5.5m・重さ10トン級のT字型石柱を環状に立て並べ、ライオンやイノシシやサソリ、猛禽といった動物の浮彫で飾った、紛れもなくモニュメンタルな神殿群でした。近くの採石場には、切り出しの途中で放棄された未完成の石柱が、なんと50トン級のものまで残されています。その年代は、約1万1600年前。農業よりも、土器よりも、金属よりも、そして車輪よりも古い。文明の道具立てが何一つ揃っていない時代に、これは建てられました。しかも、建てたのは定住すらしていない狩猟採集民だった——これが衝撃の核心です。畑も、村も、王もいない人々が、数十トンの石を立てていたのです。発掘を長年率いた考古学者クラウス・シュミットは、この発見の意味を、一言でこう要約しました——「まず神殿があり、それから都市が来た」。順序は、逆だったのです。
石柱に刻まれた動物たちも、多くを語ります。そこに彫られていたのは、家畜でも作物でもなく、キツネ、ヘビ、サソリ、そして猛禽といった、人が恐れ、あるいは畏れる野生の生き物たちでした。まだ自然を飼いならす前の人類が、自然の力そのものを石に刻み、それを囲んで集まっていたのです。そして興味深いことに、これらの環状の構造物は、使い終わったあと、後の時代に人の手で丁寧に埋め戻されたと見られています。建てて、祈り、そして自ら埋め戻す。ギョベクリ・テペは、ただの建造物ではなく、人が集まって共同で何かを立ち上げ、意味を込め、役目を終えれば送り出すという、一連の儀礼の舞台だったのかもしれません。そして数十トンの石をこれだけ組織的に動かすには、指揮する者、運ぶ者、彫る者、そして皆を食わせる者という役割分担が欠かせません。神殿は、人類が初めて大規模な労働を組織した「現場」でもあったのです。
さらに示唆的なのは、その立地です。私たちが今日パンとして食べている栽培小麦、その祖先にあたる野生ヒトツブコムギの遺伝的な故郷は、カラジャダー山という火山です。そしてこの山は、ギョベクリ・テペからわずか数十kmの距離にあります。この地理的な近さから、一つの大胆な仮説が立ち上がってきました。考えてみてください。10トン、50トンという巨石を切り出し、運び、立てるには、少なく見積もっても数百人規模の労働力が要ります。そして、そのために集まった数百人を、作業の合間に食わせ、祝祭で満腹にするには、大量の穀物と、おそらくはビールが要る。狩りで得た肉だけでは、これだけの人数を継続的にまかなえません。その調達の圧力こそが、周囲に自生していた野生の麦を、人類に組織的に集めさせ、やがて栽培化へと導いたのではないか——つまり、農業が余った力で神殿を建てさせたのではなく、神殿を建てるという目的が、農業という営みを引き寄せたのではないか、というわけです。
数百人が同じ場所で長期間にわたって働くという状況は、それ自体が人類にとって未知の経験でした。誰が石を切り、誰が運び、誰が食料を用意し、いつ休むのか。今の言葉に置き換えれば、工程管理と人員配置と兵站の問題が、農業も貨幣も文字もない時代に、いきなり突きつけられたのです。ギョベクリ・テペを建てた人々は、その答えを、教科書もないままに、試行錯誤の中で体で覚えていったはずです。大きなものを建てようとした瞬間に、人は「大人数をどう動かすか」という、建設に永遠につきまとう課題と初めて向き合いました。町場の現場で今も頭を悩ませる段取りと手配、その原型が1万1600年前の丘の上にすでにあったと考えると、少し不思議な気持ちになります。
この仮説の当否は、なお考古学の世界で論争が続いています。断定できることではありません。しかし、少なくとも動かせない考古学的事実として、人類は自分の腹を安定して満たす仕組みを完成させる前に、意味のために巨石を立てていました。建設は文明が生んだ贅沢品ではなく、文明そのものの点火装置だった可能性がある——この第5部の主張の、これが最初の、そして最も鮮烈な証拠です。私はこの話に、経営の原点めいたものを感じます。人が本気で動くのは、多くの場合、計算が合うからではなく、「これを建てたい」という共有された目的があるときです。腹を満たす算段が先にあって人が集まるのではない。集まって成し遂げたい何かがあるから、人はそのための仕組みを後から作り上げていく。順序は、案外いつも逆なのかもしれません。
もう一つ、この遺跡が教えてくれるのは、大きなものを建てるという行為そのものが持つ、人を束ねる力です。ばらばらに暮らしていた狩猟採集の集団が、一つの丘に集まり、同じ石柱を立てるために汗を流す。その共同作業と、作業のあとの祝祭こそが、血のつながらない人々を「同じことを成し遂げた仲間」へと変えていった——多くの研究者が、ギョベクリ・テペをそうした社会的な求心力の装置として読み解いています。建てることが先にあり、人の絆が後から生まれる。この順序もまた、私たちの直感とは逆です。仲間ができたから一緒に建てるのではなく、一緒に建てたから仲間になる。会社も現場も、案外この順番で立ち上がるのだと、私は経験として思います。

ギョベクリ・テペと同じ時代の地層からは、建設のもう二つの記念すべき「最初」が出土しています。一つは塔、もう一つは都市です。
ヨルダン川西岸のイェリコ(エリコ)では、約1万年前の石造の塔が見つかりました。高さは8.5m。人類が積み上げた、世界最古の塔です。この塔は長らく「世界最古の城壁都市の防御施設」と説明され、聖書に名を残すこの町の武張ったイメージと重ねて語られてきました。ところが近年は、これは外敵から身を守るための軍事施設ではなく、周期的に襲う洪水への対策、あるいは季節を告げる祭祀のための構造物だったという説が有力になっています。人類が最初に高く積み上げた石が、人を殺すためでも、防ぐためでもなかったかもしれない——これは、建設の歴史を追う者にとって、少しばかり救いのある事実だと私は思っています。人が最初に空へ手を伸ばした理由は、恐怖ではなく、水を治め、天を仰ぐことだったのかもしれないのです。
もう一つが都市です。アナトリア(現在のトルコ)のチャタル・ヒュユク(約9千年前)では、最大で数千人が暮らしたとされる、最古級の巨大集落が発掘されました。ところが、その姿は私たちの「都市」のイメージを裏切ります。驚くべきことに、そこには道がないのです。日干し煉瓦で築かれた家々は、互いに壁をぴったりと接して蜂の巣状に密集し、その間に通りも広場も存在しません。では人々はどう移動したのか。屋根の上を歩いたのです。家に入るときは、地面のドアからではなく、天井に開けた穴から梯子を伝って降りました。街全体が、いわば一続きの屋根の大地であり、人々はその上を行き来していた。そして死者は、外の墓地ではなく、自分たちが暮らす家の床下に埋葬されました。生者と死者が、同じ屋根の下で暮らしていたのです。都市の原型は、私たちが当たり前と思う道路も広場も持たない、まったく別の論理で組まれていました。人類は「人が集まって住む」という難題の解き方を、最初から知っていたわけではありません。ゼロから、何度も試行錯誤しながら、都市というものを発明していったのです。同じメソポタミアの地では、やがてウルクのような、より大きな都市国家が立ち上がっていきます。
チャタル・ヒュユクの家々の内側は、さらに私たちの想像を超えています。壁には赤い顔料で狩りや動物が描かれ、部屋には牛の頭骨を漆喰で塗り固めた飾りが据えられていました。家はただ眠る場所ではなく、祈りと記憶の場所でもあったのです。そして注目したいのは、この数千人規模の集落に、王宮も、突出した神殿も、大きな公共の建物がほとんど見当たらないことです。どの家もおおむね同じ大きさで、人の上に立つ者の館が見つからない。壁を接して肩を寄せ合うこの都市は、まだ明確な支配者を持たない、水平な社会だったのかもしれません。人が集まって住むかたちには、いくつもの答えがありえた——チャタル・ヒュユクは、そのうちの一つの、そして今は失われてしまった答えなのです。
こうして眺めると、教科書が「新石器革命」あるいは「農業革命」と呼んできたあの大転換は、むしろ「建設革命」と呼んだほうがふさわしい様相を帯びてきます。定住とは、突き詰めれば、動かないものを建てるという一つの決断です。そしてひとたび壁と炉と貯蔵庫を建ててしまえば、後戻りはききません。人は建てた土地に縛られ、蓄えた穀物は奪い合いの対象になり、その蓄えを守る者と、守る者を束ねて治める者とが必要になる。序章で見た「内と外を分ける膜」が集落の規模にまで拡大したとき、そこには財産が生まれ、階層が生まれ、統治が生まれました。壁は雨風を防ぐと同時に、人間関係そのものを作り替えたのです。とりわけ大きかったのは、貯蔵という発明です。麦を貯めるとは、未来の食料を今この場所に固定するということです。動いて暮らしていた頃には、蓄えは持ち運べる分しか意味を持ちませんでした。ところが倉を建てて穀物を溜め込んだ瞬間、そこには「奪えば得をするもの」が生まれます。守る必要が生まれ、守る者に力が集まり、蓄えの分配を決める者が現れる。壁と倉という建造物が、富と、その富をめぐる争いと、争いを裁く権力とを、同時に呼び込みました。定住とは、便利さと引き換えに、人類が争いと格差の種を地面に埋めた瞬間でもあったのです。この連載を通して繰り返し立ち返ることになる「建設は協力と格差を同時に生む」という主題の、これがいちばん最初の芽生えです。次回見るように、この延長線上に待っていたのは、国家という、人類が手がけた最大の建設プロジェクトでした。町場の経営に引きつけて言えば、人は「建てる」と決めた瞬間から、それを守り、束ね、続けていく責任を同時に背負う——この構造は、1万2千年前の集落も、今日の小さな会社も、驚くほど変わっていないように思います。

①建設は、種としての私たちより古い。ネアンデルタール人が闇の洞窟に石筍を並べてから17万年余り。現生人類が生まれるよりも前から、ヒト属は建てていました。「建てる」は、後から身につけた技術というより、人類の本能に近い、根の深い行為なのです。②建設は文明の点火装置だったかもしれない。神殿が先で、農業が後——ギョベクリ・テペの示すこの順序は、「まず腹を満たし、余裕ができたら建てる」という私たちの常識を逆転させます。意味のための建設が、経済を引っ張ったのかもしれない。人はパンのためだけに集まるのではなく、共に成し遂げたい何かのために集まり、その集まりを支えるためにパンの算段を後から整える。③建てることは「われわれ」を作ること。数百人が集まって石を立て、共に汗をかき、祝祭で飯を食う——その一連の営みが、単なる個人の寄せ集めを、一つの共同体へと変えました。会社の創業も、現場の結束も、突き詰めれば同じ原理で動いていると私は思います。人は、一緒に何かを建てることを通じてしか、本当の「われわれ」にはなれないのです。
次回(2)は、その建設が、いよいよ国家と文字を発明していく話です。世界最古の文書が、詩でも法でもなく「工事と物資の記録」だったこと、ピラミッドを建てたのが鞭打たれる奴隷ではなかったこと、そして世界最古の建築基準法が、手抜き工事に死刑を定める苛烈なものだったこと——建てることが、人間の社会をどこまで作り替えたのかを見ていきます。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。先史時代の解釈(テラ・アマタ、ギョベクリ・テペの機能など)には学術的議論があります。