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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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アメリカの建設業の歴史は、そのまま国家の形成史です。エリー運河という「最初の土木学校」、大陸横断鉄道を建てた移民たち、シカゴ大火の焼け跡で発明された「ゼネコン」という業態——巨人たちの前史を、建設AI企業の経営者の目で読み解く連載第1回です。
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今回から、社長ブログで少し大きな連載を始めます。テーマは「建設業の歴史」。まずアメリカ編を5回、続いて日本編を5回でお届けします。なぜ社長ブログでわざわざ歴史なのか、と思われるかもしれません。理由はシンプルで、いま自分たちが立っている場所を正しく理解するには、その産業がどこから来たのかを知るのがいちばんの近道だと考えているからです。制度も、商習慣も、労働のかたちも、たいていは百年以上前の選択の延長線上にあります。
私はいま建設業界特化のAIプロダクトをつくる会社を経営しています。その前はプラントエンジニアリングの会社で海外プロジェクトの世界におり、もっと前は修士課程までですが、宇宙物理を研究していました。だいぶ回り道のキャリアですが、どこから眺めても建設業という産業は面白い。そして調べるほどに確信したことがあります。アメリカの建設業の歴史は、ほぼそのままアメリカという国家の形成史です。鉄道、ダム、戦争、高速道路、郊外、中東、原子力、そして半導体とデータセンター。国の発展段階が変わるたびに「時代の主役となる請負業者」が入れ替わり、そのたびに巨人が生まれ、巨人が死んでいく。この連載では、その150年余りを、できるだけ固有名詞と数字を伴う物語として追いかけます。そして単なる歴史の紹介では終わらせず、いまの日本の町場(中小建設会社)の経営に何が効くか、という目線を毎回どこかに置いておくつもりです。第1回である今回は、産業がまだ影も形もなかった時代から、「ゼネコン」という業態そのものが発明されるまでを扱います。
まず大前提から始めます。米国には、日本の旧内務省土木局や欧州大陸の官営建設組織にあたる、巨大な国家直営の建設機構がほぼ存在しませんでした。これは意外に思われるかもしれません。国土が広大で、開発すべきものが山ほどあったのに、それを担う国家の建設部隊が用意されなかった。ヨーロッパの多くの国では、国王や中央政府が技師団を抱え、道路も橋も要塞も「国が自分の手で」造るのが当たり前でした。ところが独立して間もない米国は、強い中央政府そのものを警戒するところから出発した国です。その気質が、建設のかたちにもそのまま刻まれました。
唯一の例外が1802年設立の陸軍工兵隊(Army Corps of Engineers)で、その士官学校ウェストポイントが米国初の工学教育機関を兼ねました。ここは重要な点です。まだ大学の工学部が存在しない国で、体系立った技術教育を受けられる場所が、軍の士官学校しかなかった。裏を返せば、この国の初期の技師の多くは軍人として育ったということです。国家が持った数少ない技術の芯が「軍」にあった——この事実は、後にダムや原爆や海外基地を民間が請け負っていく物語の、遠い伏線になります。つまり建国当初から、この国は「公共インフラの計画は政府、実行は民間の請負」という分業を選んだのです。大陸の開発を民間請負業者の手に委ねた国——これが米国建設業を理解する最初の鍵です。
その分業を象徴するのが、最初の学校が大学ではなく現場だった、という事実です。舞台は、ニューヨーク州を横断するエリー運河(1817〜25年、全長約584km、総工費約700万ドル)でした。五大湖と大西洋を水路でつなぐこの運河は、当時としては途方もない大工事です。しかも困ったことに、正規の土木教育を受けた人間がこの国にはほとんどいませんでした。そこで何が起きたか。ベンジャミン・ライト(のちに「米国土木工学の父」と呼ばれる)ら、測量士あがりの技師たちが、教科書のない中で実地に設計と施工を学びながら掘り進めたのです。
もうひとつ、彼らのやり方には米国建設業の遺伝子がはっきり表れています。運河を長い一本の工事として一社に発注するのではなく、路線を細かい区間に割り、その一つひとつを、農民や地元商人といった素人に近い人々に請負人として担わせたのです。区間ごとに小さく切って任せれば、経験のない人間でも自分の受け持ちだけは責任を持ってやり遂げられる。そして一区間をやり終える頃には、彼らはもう立派な親方になっている。エリー運河が「アメリカ最初の土木学校」と呼ばれるのは、まさにこの仕組みのおかげです。ここで育った技師と請負人たちが、続く運河ブームと初期鉄道(1828年起工のボルチモア・アンド・オハイオ鉄道など)に散っていき、それぞれの土地で次の現場を仕切っていきました。学校を出た者が現場に来るのではなく、現場そのものが人を技師に育てて全国に送り出す。この順番の逆転は、いまの町場の育成にも通じる話だと私は思っています。人はマニュアルではなく、責任のある一区間を任されて育つ。若手に小さくても「自分の受け持ち」を渡し、そこを最後までやり切らせる。その積み重ねでしか、本当に現場を回せる人間は育たない——エリー運河が二百年前に証明したこの単純な真実は、いまも古びていません。技術を体系立てて教える学校が整った現代でも、最後に人を一人前にするのは、やはり責任を伴う実地の現場なのだと思います。
そしてこの時期に決まったもうひとつの制度設計が、後世を決定づけます。1852年に米国土木学会(ASCE)、1857年に米国建築家協会(AIA)が設立され、職能の分化が進みました。決定的だったのは、AIAが倫理規定によって「建築家が施工で利益を得ること」を禁じたことです。設計する者は、その建物を建てて儲けてはいけない——設計者は施工から制度的に切り離されました。これは公正さを守るための立派な理念ですが、同時に大きな「隙間」を生みます。図面を描く人と、実際に手を動かして建てる人の間に、誰も座っていない空白ができたのです。
その空白を埋める存在として、後に「ゼネラル・コントラクター」という米国独特の業態が発明されることになります。技術者というより、多くの職種と多くの契約をまとめ、リスクと調整を一手に引き受ける商人としての請負業者です。ここは日本と正反対だと言っていい。日本のゼネコンは設計施工一貫で技術を内製化し、自前で設計できることを強みにしていきました。米国の建設業は、その最初から「分離と分業」の遺伝子を持って生まれたのです。誰が全体をまとめるのか、そのまとめ役はどんな価値でお金をもらうのか——この問いは、150年後のいまも、そして日本の町場でも、そっくりそのまま生きています。
少し立ち止まって考えてみます。設計と施工を制度で切り離すというのは、一見すると効率が悪い選択です。図面を描く人と建てる人が同じなら、意思疎通の手間は減り、責任の所在もはっきりします。にもかかわらず米国がこの「分離」を選んだのは、公正さ——つまり、設計者が自分の儲けのために過剰な工事を施主に押しつけないこと——を、効率よりも重んじたからでした。この選択が、良くも悪くもこの国の建設業の性格を決めます。効率が悪い分だけ、その隙間を埋める「調整役」に大きな価値と大きな報酬が生まれ、同時に、誰も全体を持たないがゆえの混乱とリスクが常につきまとう。町場の私たちも、日々「設計者の意図」と「現場でできること」の間に立って調整し続けています。あの隙間に立って汗をかくことこそが元請の仕事なのだという原点は、実は19世紀のアメリカがすでに制度として指し示していた、と考えると少し面白い。

この産業の本当の創世記は、南北戦争の真っ最中に署名された一本の法律です。1862年、リンカーン大統領は太平洋鉄道法に署名し、大陸横断鉄道に広大な公有地の払い下げと国債による補助を与えました。ここで注目したいのは補助のかたちです。国は自ら鉄道を敷いたのではなく、沿線の土地を大量に与え、資金は国債で裏づけるという形で、民間の鉄道会社に「建てさせた」のです。序章で見た「計画は国家、実行は民間」という分業が、国家規模でそのまま実装された。しかも、その署名がなされたのは、戦争で国家そのものが南北に引き裂かれている最中でした。国が物理的にバラバラになりかけているその瞬間に、国土を一本の鉄路で縫い合わせるプロジェクトを始めた——アメリカ史と建設史が重なる、最初の象徴的な瞬間です。
補助のかたちについて、もう少しだけ踏み込んでおきます。国が与えた「広大な公有地の払い下げ」は、単なる工事代金の肩代わりではありませんでした。線路の両側に帯状に与えられた土地は、鉄道が通れば価値が跳ね上がります。つまり国は、鉄道会社に「線路を敷けば、その沿線の土地であなたたちが豊かになれる」という壮大なインセンティブを設計したのです。工事そのものへの補助と、完成後に生まれる土地の値上がり益。この二段構えが、民間の資本と欲望を国土開発へと総動員する仕掛けでした。国家が自ら建てる代わりに、民間が儲かる構造を用意して建てさせる——序章で見た米国流の分業が、ここでは巨大な金融装置として実装されています。
西から掘り進んだセントラル・パシフィック鉄道を支配したのは、サクラメントの商人あがりの「ビッグ・フォー」(スタンフォード、ハンティントン、ホプキンス、クロッカー)でした。彼らは技師ではなく、金物屋や雑貨商といった商売人です。橋の架け方も、トンネルの穿ち方も知らない人間が、大陸を横断する鉄道の西半分を支配した。ここにも米国建設業の性格がよく出ています。この産業を動かしたのは、多くの場合、技術に秀でた技師ではなく、リスクを取り、人と金を動かし、政治とわたり合える商売人だったのです。その一人、施工を仕切ったチャールズ・クロッカーは、深刻な労働力不足に直面します。白人労働者は集まらず、来てもすぐ辞めていく。追い詰められた末に彼が手を出したのが、当時まだ差別と偏見の対象だった中国人移民の雇用でした。「体格の小さい彼らに、この過酷な工事が務まるはずがない」という懐疑論の中での起用でしたが、結果は正反対でした。中国人労働者は最盛期には1万人を超え、労働力の8〜9割を占めるまでになります。
彼らが何をしたかを具体的に見ると、その凄まじさがわかります。立ちはだかったのはシエラネバダ山脈の固い花崗岩です。まだ機械掘削のない時代、彼らは岩肌に手作業で穴を穿ち、そこに不安定で爆発しやすいニトログリセリンを詰めてトンネルを切り開いていきました。冬には山を越える雪崩から線路を守るために、木造の長い覆い(スノーシェッド)を延々と築きます。危険で報われない仕事に対し、1867年には数千人規模のストライキまで打ちました。過酷な条件に、団結して声を上げたのです。トンネルを穿ち、雪と戦い、賃上げを要求したこの人々こそ、米国建設労働者の原像だと私は思います。一方、東から来たユニオン・パシフィックの主力はアイルランド移民と南北戦争の復員兵でした。戦争で職を得たり失ったりした男たちが、そのまま建設現場に流れ込んでいったのです。そして1869年5月10日、ユタ州プロモントリーで金の犬釘が打たれ、東西の線路がついに一本につながります。大陸は鉄路で結ばれました。
この一本の線がもたらしたものは、単なる移動時間の短縮ではありません。それまで数か月がかりだった大陸の横断が、数日にまで縮まりました。人が、物が、情報が、それまでとは桁違いの速さで東西を行き来するようになります。バラバラだった地域経済がひとつの巨大市場に統合され、西部の開拓が一気に加速し、アメリカは名実ともに大陸国家になりました。南北戦争で引き裂かれた国を、政治ではなく鉄という物理で縫い合わせた——建設業が国のかたちそのものを変えた、最初の決定的な事例です。私が「アメリカ建設史はアメリカ国家形成史だ」と言うのは、まさにこういう場面を指しています。ひとつの土木プロジェクトが、国の骨格を変える。この重さは、規模こそ違えど、地域のインフラを預かる私たち町場の仕事にも通じるものがあると思っています。一本の道、一本の橋が、その土地の暮らしを静かに変えていく。
ところが、この輝かしい完成のすぐ裏で、この産業のもうひとつの本質が姿を現します。完成からわずか3年後の1872年、ユニオン・パシフィックの幹部たちが「クレディ・モビリエ」という自前の建設会社を設立し、工事費を組織的に水増ししていたことが暴露されます。仕組みはこうです。自分たちで持つ建設会社に、実際より高い金額で工事を発注したことにする。その差額は自分たちの懐に入る。しかも彼らは、この不正を守るために、クレディ・モビリエの株を現職の副大統領や有力議員にばら撒いていました。追及されないよう、あらかじめ権力者を仲間に引き込んでおいたのです(クレディ・モビリエ事件)。国のお金が流れ込む巨大工事と、それを監督すべき政治家。両者の癒着は、この産業が生まれたまさにその瞬間から、構造として埋め込まれていました。この主題は、連載を通じて何度も——それこそ副大統領の名前を変えながら——繰り返し現れます。
もうひとつ、忘れてはならない後日談があります。あれほどの働きで線路を実際に敷いた中国人労働者たちは、完成から13年後の1882年、排華法(中国人排斥法)によって国から締め出されました。産業を築いた当の担い手が、用済みとばかりに法律で排除されたのです。移民が建て、移民が排除される——このパターンもまた、ここから150年間、担い手の出身地を変えながら繰り返されていくことになります。産業を支えているのは誰なのか、その人々にどう報いるのか。この問いを、私は連載の底に一本通しておきたいと思います。
クレディ・モビリエ事件について、経営者として一点だけ付け加えます。この不正が可能になったのは、工事を発注する側と受注する側が実質的に同じ人間だったからでした。チェックする者とされる者が分かれていない。だからいくらでも水増しできた。逆に言えば、健全な建設のためには、発注と施工の間に、公正な「規律」がどうしても要るということです。序章で見たAIAの倫理規定も、突きつめれば同じ問題意識——利益相反をどう断つか——への答えでした。この産業は、生まれた瞬間から「巨大な金と、それを監督する目の甘さ」という誘惑を抱え込んでいて、その誘惑にどう規律で向き合うかが、一社の寿命を分けてきた。派手な癒着の話に見えて、実は「見積もりと発注の透明性」という、私たちの日々の商いにも直結するテーマがここにあります。

同じ時代、ニューヨークではドイツ移民の技師ジョン・ローブリングが設計したブルックリン橋(1869〜83年)が架かりつつありました。この橋の物語も、驚くほどアメリカ的です。設計者のローブリング自身は、着工直後の事故がもとで命を落とします。跡を継いだ息子のワシントンは、水中の作業室(潜函)で高圧環境にさらされ続けたことで潜函病(減圧症)を患い、半身不随となってしまいました。現場に立てなくなった彼に代わり、最後は妻のエミリーが技術を独学で身につけ、寝たきりの夫と現場の間をつなぎながら、事実上の現場指揮を執って14年がかりの難工事を完成させます。移民の一家が、父・息子・妻と三人がかりで、一人また一人と倒れながら架けた橋。国家の大事業が、こうした無名に近い個人の執念で支えられていたという事実に、私はいつも胸を打たれます。
この物語には、経営者として見過ごせない側面もあります。ブルックリン橋という一大事業が、ローブリング家という一族の技術と執念に強く依存していたということです。父が倒れ、息子が倒れても、事業が止まらなかったのは、家族の中に技術と意志が受け継がれていたからでした。強さであると同時に、危うさでもあります。属人的に背負う力が事業を前に進める一方で、その一人が欠ければすべてが止まりかねない。この「一族が背負う」というかたちは、後の連載でベクテル家やキーウィットといった同族経営の巨人として繰り返し現れ、そしてそれらの多くが百年を生き延びる——という事実にもつながっていきます。人に強く依存することの光と影は、少人数で回す町場の経営が、いつも向き合っている問題そのものでもあります。
そして1871年のシカゴ大火が、この章のもうひとつの起点になります。木と煉瓦でできた都市が、一夜にしてほぼ焼け落ちました。しかしこの焼け跡が、皮肉にも建設技術の実験場になります。二度と燃えない街をつくろうという機運の中で、鉄骨で骨組みを組む新しい建て方が生まれ、世界初の鉄骨高層ビル群(1885年のホーム・インシュアランス・ビルなど)が立ち上がり始めたのです。ここで問題が起きます。建物が高く、複雑になるにつれ、工事に関わる職種の数が爆発的に増えました。鉄骨、煉瓦、石工、配管、電気——。それまでは施主自身が大工や石工を一人ひとり見つけて契約し、束ねていました(マスタービルダー方式)。しかしビルがこれほど複雑になると、素人の施主が何十もの専門業者を直接まとめるのは、もう不可能になったのです。
この行き詰まりの中で、1882年、ジョージ・A・フラーという男が決定的な発明をします。「単一の契約ですべての工種を引き受け、専門業者を束ねて調整する会社」——すなわちゼネラル・コントラクターという業態そのものです。施主は、無数の職人と個別に向き合う必要がなくなりました。フラーの会社と一本の契約を結べば、あとはこの会社が全部の職種を手配し、順番を決め、遅れや失敗のリスクを引き受けてくれる。序章で見た、設計と施工の間にぽっかり空いた「隙間」に、ついに座る者が現れたのです。ここで見逃せないのは、彼が売ったものが、優れた工法や特別な技術ではなく、「調整」と「リスクの肩代わり」という無形のサービスだったことです。ゼネコンは技術業ではなく、はじめから調整とリスクの商売として生まれた——これはいまの元請の役割を考えるうえでも、本質を突いた出発点だと思います。
この「調整とリスクの商売」が具体的に何を意味するかを、もう少し開いておきます。フラーの会社は、鉄骨も自分で組まず、煉瓦も自分で積まなかったかもしれません。彼が引き受けたのは、どの職種にいつ入ってもらい、資材をいつ届けさせ、遅れが出たらどう挽回するかを一手に段取りし、そして「約束した金額と工期で建てる」という約束そのものを背負うことでした。うまくいけば利益が出て、失敗すれば損失をかぶる。つまりゼネコンの利益とは、腕のいい職人が生む付加価値というより、リスクを引き受けたことへの対価だったのです。この構造を最初に商品として設計したのがフラーでした。裏返せば、リスクを見誤れば、どれほど大きな会社でも一瞬で傾く。連載を通じて何度も見る「固定価格という毒」の遠い源流も、実はこの発明の中にすでに埋め込まれていました。段取りと約束でお金をもらう——これは、いまの町場の元請がまさに毎日やっていることであり、だからこそ「見積もりの精度」と「リスクの取り方」が経営の生命線になるのだと、私はこの一件からあらためて教わります。
フラーの会社がどれほどの存在だったかは、その後の仕事が物語ります。ニューヨークの名所として知られるフラットアイアンビル(1902年)は、実は彼の会社の本社ビルであり、正式名称は今も「フラービル」です。同社はその後、旧ペンシルベニア駅(1910年)やリンカーン記念堂(1922年)といった、アメリカを代表する建造物まで手がけました。文字通り「ゼネコンの父」です。ところが——です。業態そのものを発明し、これだけの実績を残したこの会社も、1970年代には市場から姿を消してしまいます。業態の発明者ですら生き残れない。誰よりも早く正解の仕組みを作った者が、そのまま勝ち続けられるとは限らない。これは、この産業の容赦なさを示す最初の伏線であり、連載を通じて何度も突きつけられる冷徹な真実です。
フラーが業態を発明したこの時代には、今日まで生き残る巨人たちの創業もまた、静かに相次いでいました。時系列で並べてみると、この産業の骨格がこの数十年でほぼ出揃ったことがわかります。1864年、ミズーリでMcCarthy(現存最古級の非公開ゼネコン)が創業。1870年、ロードアイランドでGilbane。1874年には業界誌ENR(Engineering News-Record)の前身が創刊され、産業は自前の「記録係」——つまり誰がどんな工事をいくらで受けたかを記録し、報じる仕組み——を持つようになります。産業が自分自身を語る言葉を手に入れた、という意味でこれも大きな一歩です。
1884年には、オランダ移民の煉瓦職人だったキーウィット兄弟が、ユニオン・パシフィックの起点の町オマハでPeter Kiewit Sons'を創業します(出典:キーウィット公式サイト)。移民の職人が、鉄道の起点という人と物が集まる場所で店を構えた——この立地選びそのものが、後に全米屈指のゼネコンへと育つ最初の一歩でした。1889年には、MIT卒の同級生コンビが電力エンジニアリングのStone & Websterを、シカゴでは橋梁・タンクを得意とするChicago Bridge & Iron(CB&I)を設立します。この二社は、後の連載で「固定価格という毒」に倒れる名門として再び登場することになりますが、それはまだ一世紀先の話です。1891年にはF.W. Dodgeが建設案件の情報サービスを始め、「どこにどんな工事の引き合いがあるか」を売る情報レイヤーまでもが、19世紀のうちに生まれています。物を建てる会社、それを記録する会社、案件情報を売る会社。産業のエコシステムが、この時期にほぼ形を整えたのです。
ここで名前を挙げた会社の顔ぶれには、いま振り返ると味わい深いものがあります。煉瓦職人だったキーウィット、業界の記録係となったENR、案件情報を商ったF.W. Dodge——出自も役割もバラバラです。しかし共通するのは、この産業が誰か一人の天才ではなく、無数のプレイヤーが少しずつ役割を分け合う「分業のネットワーク」として立ち上がった、ということです。序章から繰り返してきた「分離と分業」という米国建設業の遺伝子は、個々の工事現場だけでなく、産業全体の構造そのものにも刻まれていました。そしてこの、細かく分かれたまま離合集散するという性格は、驚くことに150年後の現在まで基本的に変わっていません。産業がこれほど巨大になっても、担い手は依然として無数の中小事業者であり続けている。この「断片化」こそが、連載の最後にたどり着く最大のテーマになりますが、その原型もまた、19世紀のこの創業ラッシュの中に、すでにはっきりと現れていたのです。
そして1898年——ひとつの、いかにもアメリカ的な物語で第1章を締めくくります。カンザスの農家で家畜を失い、無一文になった26歳の男が、西のオクラホマ準州へ流れ、ラバの隊列を率いて鉄道の土工請負を始めました(出典:ベクテル公式サイト)。学歴も資本もなく、あるのはラバと体力と、やり直そうという意志だけ。名前をウォーレン・"ダッド"・ベクテルといいます。この男が起こした会社が、やがて20世紀のアメリカを——ダムを、原爆を、油田を、そして海外を——建てていくことになります。次回の主役です。
第1回から、この産業の設計図が、はっきりと見えてきます。あらためて三つに整理しておきます。①国家は「計画」し、民間が「建てる」。陸軍工兵隊という細い芯を除けば、米国は国家直営の建設機構を持たず、大陸の開発を民間の請負に委ねました。だからこそ、米国建設業の最大の顧客は、最初からワシントン(連邦政府)だったのです。②現場が学校である。エリー運河も大陸横断鉄道も、大学ではなく現場そのものが、無名の測量士や移民労働者を、一区間の責任を通して技師と親方に育て上げました。人はマニュアルではなく、任された責任の中で育つ。③ゼネコンとは技術ではなく「リスクと調整の商売」として発明された。フラーが売ったのは工法ではなく、無数の職種をまとめ、失敗を肩代わりするという無形のサービスでした。そして——その業態の発明者フラーですら、市場から消えた。この産業では、仕組みを最初に作った者が、勝ち続けるとは限らないのです。仕組みは、たえず作り直し続けた者だけが使える。ここに、規模の大小を問わず、いまを生きる私たちへの示唆があると私は思います。
次回(2)は、ラバ追いのベクテル、レンガ職人のキーウィット、そして大恐慌のどん底で6社連合が挑んだ世紀の難工事・フーバーダムの話です。移民の賭博師たちが機械に賭け、そして国家の巨大支出の波に乗っていく時代——産業が「ビッグバン」を迎える章に入っていきます。今回見てきた「分業」「現場が学校」「調整とリスクの商売」という三つの設計図が、次回はいよいよ砂漠の巨大ダムという舞台で、生きて動き出します。どうぞお付き合いください。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。特に古い時代の数値や「史上最大」「最速」といった記録には、資料により幅があります。