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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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ラバ追いから身を起こしたベクテル、レンガ職人のキーウィット、鉄筋コンクリートに賭けたターナー。そして大恐慌のどん底、6社連合が2年前倒しで完成させたフーバーダム。米国建設業が巨人の産業へ跳躍する瞬間を描く連載第2回です。
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アメリカ建設業150年史の第2回です。前回は、エリー運河と大陸横断鉄道が「請負業者の国」をつくり、シカゴ大火の焼け跡でゼネコンという業態が発明されるまでを追いました。設計と施工を制度的に切り離し、その隙間を埋める「リスクと調整の商人」としてゼネラル・コントラクターが生まれた——そこまでが前回の話です。今回は、いまも米国建設業の頂点に立つ巨人たちがどんな人間の手で始まったのか、そして大恐慌の砂漠に立ち上がった一つのダムが、どうやって産業そのものの形を決めてしまったのか。創業と、ビッグバンの話です。読み進めると、100年近く前のアメリカの現場に、いまの私たちの経営の急所——道具への投資、見積もりの精度、組んでリスクを分ける知恵——とまったく同じ論点が転がっていることに気づくはずです。

20世紀の最初の四半世紀に創業した会社群を並べてみると、驚くほど共通点があります。創業者はたいてい移民か農家の出で、まともな学歴はなく、そして二つの巨大な技術変化の波に、たまたま、しかし全身で乗った人たちだということです。一つは、自動車が一般に普及し始めたことで生まれた、道路建設の巨大なブーム。人と馬車のための泥道を、自動車が走れる舗装道路に造り替える需要が、全米で一気に噴き出しました。もう一つは、蒸気機関や内燃機関による土工——土を掘り、運び、盛るという建設の最も基礎的な作業——の機械化です。それまで何十人ものスコップとラバでやっていた作業を、機械が一台でこなすようになった。この二つの波が同時に来たことで、「機械を持ち、道路を請け負える者」に、かつてない儲けの機会が開いたのです。
彼らは大学で構造計算を学んだ技師ではありません。まだ誰もその価値を確信していない高価な機械に、有り金と借金を賭けた賭博師でした。技術の目利きというより、事業の目利き。この新しい道具は元が取れる、この需要はしばらく続く、という「賭け」に、身代を張れた人たちです。この「賭博師の世代」が、後に世界を動かす会社群の第一世代になります。私が彼らの物語に惹かれるのは、そこに、小さく始めた事業者が身の丈を超える一手を打つ瞬間の、生々しい判断が詰まっているからです。設備投資に踏み切るかどうかで一晩眠れなくなる感覚は、規模こそ違え、いまの町場の経営者にもそのまま通じるはずです。
物語の主役の一人、ウォーレン・"ダッド"・ベクテルは、そもそもの出発点からして崖っぷちでした。カンザスの農家で家畜を失って無一文になった26歳の彼は、1898年、オクラホマ準州でラバの隊列を率い、鉄道の土工請負を始めます。鉄道の土工請負とは、線路を敷く前に路盤を平らにならす、切り土・盛り土の作業のことです。牛馬とスコップとラバだけが頼りの、汗と泥の世界でした。そこから彼は、鉄道の延伸に付いていくように西へ西へと工事を渡り歩き、やがてカリフォルニアに落ち着きます。放浪する土工屋の親方、というのがこの頃の彼の姿です。
彼の人生を変えた一手は、まだ現場では珍しかった蒸気ショベルを、借金をして導入したことでした。蒸気ショベルは、蒸気機関の力で巨大なバケットを動かし、大量の土を一度に掘り上げる機械です。当時としては高価で、故障もすれば燃料も食う、扱いに癖のある代物でした。人力と馬に頼る競合が何十人がかりで一日かけて掘る土量を、この機械は数時間で掘り返してしまう。しかも文句も言わず、日が暮れても働ける。ベクテルは「機械の生産性」という一点で、旧来の同業者を丸ごと過去のものにしてしまったのです。競争の土俵を、人手の多さから機械の性能へと、勝手に書き換えてしまったと言ってもいい。1925年にW.A. Bechtel Company(W.A.ベクテル社)を正式に法人化した頃には、彼はすでに西部有数の土工業者になっていました(出典:ベクテル公式サイト)。
ベクテルが残した社是は、いま読んでもぞっとするほど身も蓋もありません。「we're not in the construction business, we're in the business of making money(我々は建設業をやっているのではない、金を稼ぐ商売をやっているのだ)」。前回見たフラーのゼネコン哲学——建設とは技術ではなく事業だ——と、根っこはまったく同じです。物を上手に建てること自体が目的なのではなく、それはあくまで利益を生むための手段にすぎない。この割り切りが良いか悪いかは別として、米国建設業のDNAが「職人の誇り」ではなく「事業家の勘定」から出発したことを、この一文はよく表しています。良い物を建てることと、事業として稼ぐことは、同じとは限らない。前者に没頭するあまり後者を見失えば、どんなに腕が良くても会社は続きません。町場の私たちからすると耳が痛い言葉ですが、道具への一手が会社の格を変えたという事実と、建設を「事業」として冷徹に見る目の両方は、素直に学びたいところです。
同じ世代に、まったく違う方角へ賭けた二人がいます。一人は西海岸のスイス移民、ジョン・フルーアです。彼は1912年、カリフォルニア州サンタアナで、製材と一般建設をやる小さな会社(後のFluor Corporation=フルーア社)を開きました。木材を挽き、頼まれた小屋や建物を建てる、どこの町にもあるような工務店です。この時点では、後に世界的なエンジニアリング企業になる兆しなど、どこにもありませんでした。運命を変えたのは、ちょうどこの頃、南カリフォルニアで爆発した石油ブームでした。油田が次々と掘り当てられ、掘った原油を精製する製油所の建設需要が沸き立ちます。フルーアはそこに引き寄せられ、製油所に欠かせない冷却塔——精製の過程で出る熱を逃がすための構造物——を建てる専門の職人として頭角を現しました。ありふれた工務店が、たまたま隣で起きた資源ブームの「裏方の専門家」として食い込んだわけです。ここが分かれ道でした。彼の会社は「頼まれた物を建てる会社」から、「石油・化学プラントそのものを設計し、建設するエンジニアリング会社(E&C=Engineering & Construction)」へと脱皮していったのです。一つの得意分野に深く食い込んだことが、業種そのものの格上げにつながった。狭く深く、が結果として広い世界への扉になった好例だと思います。
施工だけでなく設計(Engineering)を自社に抱え込み、必要な資機材の調達(Procurement)も含めて、プラント一式を丸ごと請け負う——この形を、頭文字をとってEPC(設計・調達・建設)モデルと呼びます。発注者からすれば、一社に頼めば工場が丸ごと立ち上がるのだから、これほど楽なことはありません。だからこそこのEPCモデルは、後に米国のE&C企業を世界市場へ押し出す最大の原動力になりました。ただし——ここは連載を通じて何度も戻ってくる伏線なので覚えておいてください——このモデルは同時に、彼らを繰り返し破滅の淵へ突き落とす「固定価格リスク」の温床にもなります。総額いくらで完成させます、と先に約束してしまうと、工期の遅れやコスト超過はすべて請負側の損になる。プラントが大きく複雑になるほど、その爆弾も大きくなる。町場のリフォーム一式請けにも通じる話で、「一式で丸ごと引き受ける」ことの旨味と怖さは、規模が違うだけで本質は同じです。
もう一人は、東海岸に現れました。1902年、クエーカー教徒のヘンリー・ターナーが、ランサム式鉄筋コンクリートの特許ライセンス——ほとんどそれだけを元手に、Turner Construction(ターナー・コンストラクション)を創業します(出典:ターナー公式サイト)。ランサム式というのは、コンクリートの中にねじった鉄の棒を入れて補強する、鉄筋コンクリートの初期の工法の一つです。今でこそ鉄筋コンクリートは建設のいろはですが、当時は「鉄の棒とコンクリートを組み合わせて建物を建てる」こと自体が最先端の技術で、その工法を使う権利を持っていること自体が商売の元手になった時代でした。ターナーは、大きな資本ではなく、一つの技術ライセンスと、それを信じる覚悟だけで身を起こしたのです。木造や組積造の建物が火事で一夜にして焼け落ちる——前回見たシカゴ大火のような惨事が各地で起きていた時代に、ターナーは「燃えにくく、長持ちする」という、施主にとって切実な価値を、はっきりした「売り」に掲げて実績を積んでいきます。彼が徹底したのは、派手な拡大ではなく、品質と誠実さでした。地味ですが、この評判こそが最大の資産になっていく。一世紀後、この慎ましく始まった会社が米国ゼネコンの頂点に立つことになるとは、当時、本人も含めて誰一人予想しなかったでしょう。ベクテルの「金を稼ぐ商売だ」とターナーの「品質と誠実」——正反対に見える二つの創業哲学が、どちらも一世紀を生き延びたことは、私にはとても示唆的に映ります。
そして物語はテキサスへ移ります。テキサスの建設業史は、ほとんどそのまま20世紀アメリカ政治の暗部と重なっていく、少し危ない章です。始まりは、これまた無一文からでした。ハーマン・ブラウンという道路工事の現場監督が、雇い主の倒産で賃金を払ってもらえなくなり、その代わりとして中古の建設機材と数頭のラバを受け取ります。現金の代わりに道具を掴まされた、というわけです。彼はその機材とラバを元手に、自分で道路請負を始めました。そこへ、義理の兄弟にあたるダン・ルートが綿花事業で得た資金を持ち込み、二人は1919年にBrown & Root(ブラウン・アンド・ルート)を設立します。未払い賃金という不運が、一つの会社の創業資本に化けたのです。
まったく同じ1919年、テキサスではもう一つ、後に世界を股にかける会社が芽を出していました。アール・P・ハリバートンが、油井のセメンチングに特化したHalliburton(ハリバートン)を興したのです。セメンチングとは、掘り抜いた坑井(こうせい)の壁とパイプの隙間にセメントを流し込んで固め、坑井が崩れたり、地層の水や油が予定外の場所へ漏れたりするのを防ぐ技術です。石油を掘るという行為の、最も地味で、しかし失敗が許されない土台の部分を、専門技術として切り出して商売にした。ここにもフルーアと同じ「狭く深く」の型が見えます。テキサスが抱えた二つの富の源泉、すなわち「道路」と「石油」から、後に世界最大級の油田サービス企業と、世界最大級の軍事兵站(へいたん)企業になる二社が、同じ1919年に、同じ土地で同時に芽吹いた。土地が持つ富の色が、そこから生まれる会社の性格まで決めてしまう——偶然にしては出来すぎた符合です。
ブラウン兄弟——ハーマンと弟のジョージ・ブラウン——が下したもう一つの「投資」判断が、やがて米国史そのものを動かします。彼らが賭けたのは、道具でも機械でもなく、人でした。それも、見返りが約束されているどころか、まだ海のものとも山のものともつかない、駆け出しの若い政治家です。普通の事業家なら、当選するかどうかも分からない新人に肩入れするのは無駄金に見えるでしょう。しかしブラウン兄弟は、工事を取るために政治に張ることを、まったく厭いませんでした。彼らにとって政治家との関係は、蒸気ショベルと同じ「先行投資すべき設備」だったのかもしれません。その賭けの相手こそ、後に大統領となるリンドン・B・ジョンソンでした。この「政治への投資」がどれほど桁外れの配当を生んだのか——建造経験もろくにないのに獲得したコーパスクリスティの海軍基地から、ジョンソンがテキサスに誘致したNASAの宇宙センターまで——は、第3回でたっぷり回収します。ここでは、テキサスの建設業が最初から「土木の腕」と同じくらい「政治の人脈」を経営資源として計算に入れていた、という事実だけ押さえておいてください。健全とは言いがたい話ですが、米国の請負業がこの時代から政治と分かちがたく結びついていたことは、この産業を理解するうえで避けて通れません。

1929年の株価大暴落から始まった大恐慌は、皮肉なことに、米国建設業に史上最大の好機をもたらしました。普通に考えれば、不況とは建設にとって最悪の環境です。企業は工場を建てず、人々は家を買わず、仕事は干上がる。ところがこの時、逆のことが起きました。失業と倒産で崩れかけた経済を立て直すため、連邦政府が、それまで考えられなかった規模で公共事業に乗り出したのです。仕事を失った人々に職を与え、経済に金を回すために、国自らが巨大な工事の発注者になった。民間の仕事が完全に干上がったまさにそのとき、政府という桁違いの客が現れた——この逆転こそ、以後の米国建設業を貫く「不況期にこそ国家が発注する」という構図の始まりでした。その象徴であり、この産業にとっての文字どおりの「ビッグバン」となったのが、コロラド川をせき止める巨大堰堤(えんてい)、フーバーダム(当初はボルダーダムと呼ばれました)でした。
問題は、この工事があまりにも巨大だったことです。当時のどの建設会社も、単独では入札に必要な保証金すら用意できませんでした。入札保証金とは、「落札したら確実に契約し、工事をやり遂げます」という約束の担保として先に積むお金で、これが積めなければ、そもそも入札の土俵にすら上がれない。仕事を取る取らない以前の問題です。そこで西部の中堅業者たちは、前例のない一手を打ちます。複数の会社が資本と信用を持ち寄って一つの事業体を組む、史上初の本格的なジョイントベンチャー(共同企業体)です。それが、後に伝説となる「シックス・カンパニーズ(Six Companies, Inc.)」でした。
構成を並べると、その顔ぶれの意味がわかります。前章の主役ベクテルとヘンリー・カイザーの連合、ユタ・コンストラクション、アイダホ州ボイシのモリソン・クヌーセン、マクドナルド・アンド・カーン、J.F.シェイ、パシフィック・ブリッジ——この6グループです。いずれも一社だけなら「巨象に挑む蟻」でしかない中堅どころ。それが呉越同舟でひとつの船に乗り、誰か一社が潰れても全体は沈まないよう、リスクを頭数で割って背負い合ったのです。この「一社で背負えないなら、組んで分ける」という発想は、日本のゼネコンが大型工事で組む共同企業体(JV)とまったく同じ原理です。日本で当たり前になっている仕組みの原型が、90年前のアメリカの砂漠で、しかも生き残りをかけた必死の知恵として発明されていた——ここは町場の私たちにも直接刺さるところです(出典:PBS American Experience)。
1931年3月、入札の結果が出ます。シックス・カンパニーズの札は48,890,955ドル。2位に約500万ドルもの差をつけての落札でした。ここまでなら「大差で勝った」というだけの話です。伝説になったのは、その先です。この札が、発注者である開拓局(Bureau of Reclamation)が内部でひそかに弾いていた見積もりと、わずか数万ドルしか違わなかった、というのです。総額4,800万ドル超の工事で、政府の腹の内の数字とほとんどぴったり一致させてきた。当てずっぽうで安く入れたのでも、無闇に高く吹っかけたのでもない。彼らは自分たちの原価を、掘る土量から、それに必要な機械の台数、燃料の量、そこで働く人の数と日数まで、隅々まで積み上げて把握していたのです。だからこそ、赤字にならないぎりぎりまで攻めた札を、迷いなく出せた。安く入れて仕事は取れても赤字で潰れるのが一番恐ろしく、高く入れれば取り逃す。この「攻めるべき一点」を正確に射抜けるかどうかは、腹の見積もり精度そのものにかかっています。見積もりの精度が、そのまま受注力になる——どんぶり勘定の対極にあるこの一件は、規模こそ桁違いですが、拾い出しが甘いまま勘で値決めをして、取れれば赤字・逃せば無収入という板挟みに苦しむ、いまの町場の現場と、まったく地続きの教訓だと思います。原価を握っている者だけが、本当の意味で攻めた勝負ができる。90年前の砂漠の入札は、そのことを静かに突きつけてきます。
現場を率いたのは、すでに数々のダムを手がけてきた伝説の監督、フランク・"ハリーアップ(急げ急げ)"・クロウでした。あだ名がそのまま仕事ぶりを表しています。夏には摂氏50度近くまで上がる砂漠の灼熱、労働者を襲う熱中症、そして待遇をめぐる労働争議——人が働ける限界のような条件の中で、彼は常識外れの工法を次々に投入しました。
まず立ちはだかるのが、コロラド川そのものです。川が流れている真ん中に、どうやってダムを建てるのか。クロウの答えは、川の流れを丸ごと脇へどかす、というものでした。両岸の岩盤に4本の巨大な導流トンネルを同時に掘り進め、そこへ川の水を通して、ダムを建てる場所を干上がらせてしまったのです。自然の川を人の都合で付け替える、力ずくの発想です。次の難関は、ダム本体に打ち込む224万立方メートルという途方もない量のコンクリートでした。実はこれだけの量を一度に固めようとすると、コンクリートは固まるときに自ら熱を出すため、内部が高温になり、その後ゆっくり冷える過程でひび割れが避けられません。クロウはコンクリートの中に冷却用の鋼管を網の目のように埋め込み、そこへ冷たい水を通し続けて内部から熱を奪う、という離れ業でこの難問を解きました。ダムを、いわば内側から冷やしながら固めていったのです。結果、本来5年とされた工期を2年以上も前倒しし、ダムは1935年に完成します。ただし、その代償は軽くありません。公式記録に残るだけで96人が、この工事で命を落としました。突貫と安全は、いつの時代も鋭く対立する——完成の栄光の裏にあるこの数字を、私は忘れないようにしています。

フーバーダムがすごいのは、ダムそのものだけではありません。この一つの工事が、その後の米国建設業の産業地図を、まるごと描き出してしまったことです。シックス・カンパニーズに集った顔ぶれが、ここを踏み台に、それぞれ巨人へと駆け上がっていきます。呉越同舟で始まったはずの共同事業が、参加各社にとっての壮大な「共同の学校」になった、と言ってもいい。史上最大級の難工事を最後までやり遂げたという実績と、そこで培った技術・信用は、どのメンバーにとっても、金では買えない資産になりました。
たとえばヘンリー・カイザーは、この工事で一気に全国区の名声を得て、その勢いのままサンフランシスコ湾岸の橋梁、さらに巨大なグランドクーリーダムへと突き進みます。彼はこの後、船も、鉄鋼も、さらには医療制度までつくる規格外の事業家になっていくのですが、その飛躍台がフーバーダムでした。アイダホ州ボイシの一地方業者にすぎなかったモリソン・クヌーセンも、ここを境に、世界中のダム・鉱山・軍事基地を手がける巨人へと成長していきます。創業者のハリー・モリソンにいたっては、後にタイム誌の表紙を飾り、「地球の表面を、いま生きているどの人間よりも変えた男」とまで評されることになりました。一地方の土建屋が、世界の地形を書き換える男と呼ばれるまでになる。一つの共同企業体が、複数の世界的企業をまとめて孵化させた——これほど分かりやすい「一つの現場が会社を化けさせた」例も、そうありません。難しい仕事を逃げずにやり切った経験だけが持つ、後々まで効く力を、この顛末は教えてくれます。
前章の主役ベクテル家にとっても、この時期は大きな転換点でした。しかもそれは、栄光と悲劇が同時にやってくる形でした。1935年のダム完成を待たず、1933年、創業者ウォーレン・ベクテルが、なんとソ連のダムを視察する旅の途上、モスクワで急死してしまうのです。ラバの隊列から蒸気ショベルへと駆け上がった立志伝の主が、遠いモスクワで倒れる。跡を継いだのは、息子のスティーブ・ベクテル・シニアでした。彼は父の会社を、単なる土工請負の枠から一段も二段も跳ね上げます。土を掘って請け負うだけの会社から、設計(エンジニアリング)の能力と、巨大プロジェクトを回すための金融(ファイナンス)の機能を自ら組み合わせ、「巨大プロジェクトを丸ごと構想し、資金の手当てから完成まで一貫して面倒を見る会社」へと脱皮させていったのです。父ウォーレンが機械への一手で会社の格を上げたなら、息子スティーブは事業モデルそのものを組み替えることで、もう一段上の格へ引き上げた、と言えます。ここから、5代にわたって続くベクテル同族支配の歴史が始まりました。創業者の突然の死が、皮肉にも二代目による事業モデルの飛躍を促した——先代のやり方をそのまま守るのではなく、時代に合わせて商売の骨格を組み替えた跡継ぎが会社を伸ばした。事業承継という観点でも、町場の私たちにとって忘れがたい一幕です。
ニューディール(大恐慌下の一連の経済政策)が建設業に残したものは、フーバーダムのような「巨大プロジェクトの需要」だけではありませんでした。もっと長く効く、産業の「制度」そのものを残したのです。その一つが、1931年に成立したデービス・ベーコン法です。これは、連邦政府が関わる工事では、その地域の標準的な賃金(プリベイリング・ウェイジ)を労働者に払うことを義務づける法律でした。目先の工事費を安く叩くために賃金をどこまでも切り下げる、という叩き合いに歯止めをかけるこの仕組みは、実に今日に至るまで、米建設業の賃金構造を根っこで規定し続けています。制度は、一度できると何十年も現場を縛る——ここも建設という業種の特徴がよく出ています。
そしてもう一つ、この時代に確立したのが、「永遠の最大顧客=連邦政府」という構図です。フーバーダムを発注した開拓局、1933年に設立され、いくつもの州にまたがる広大な流域を丸ごと開発したテネシー川流域開発公社(TVA)、そして前回も登場した、米国で事実上唯一の国家建設組織だった陸軍工兵隊——これら連邦の巨大な発注機関がこの時代に出そろい、米国の大手建設会社にとって最大の取引先は政府である、という関係がしっかりと固まりました。ここが日本と大きく違うところです。日本には官営の建設組織の伝統がありましたが、米国は前回見たように「計画は政府、実行は民間の請負」という分業を建国以来選んできた国です。だからこそ、政府の巨大工事は丸ごと民間ゼネコンに流れ込む。民間の景気が上下しても、政府という桁違いの発注者だけは、不況のときほどむしろ大きな仕事を出してくれる。米国の大手ゼネコンが、何度も来る景気の谷を越えて生き延びてこられた背景には、この「顧客としての国家」の存在があります。最大の取引先は今もワシントンにある——その原型は、まさに大恐慌の砂漠で鋳造されたのです。安定した大口の発注元をどう持つか、という問いは、規模を問わず、建設という景気に振り回されやすい商売の生命線なのだと、あらためて思います。

①1社で背負えないリスクは、組んで分ける。フーバーダムは、単独では入札保証金すら積めない中堅6グループの共同企業体(JV)が取りました。誰か一社が倒れても全体は沈まないよう、リスクを頭数で割って背負い合う。日本の共同企業体とまったく同じ原理が、90年前のアメリカで、生き残りをかけた知恵として巨人を生んだのです。身の丈を超える仕事は、無理に一人で抱えず、組んで分ける。規模が違っても、この判断は町場でも同じように効きます。②見積もりの精度は、そのまま受注力になる。政府の内部見積もりとの差がわずか数万ドル——自分たちの原価を土量から人数まで完全に把握していた者が、赤字ぎりぎりまで攻めた札で史上最大の工事を取りました。原価がわかっているから、自信をもって攻められる。どんぶり勘定の対極です。③道具の乗り換えが、会社の運命を決める。ラバとスコップの世界にいたベクテルを西部の頂点へ押し上げたのは、借金をして買った一台の蒸気ショベルでした。新しい道具にいつ賭けるか——それは今も昔も、経営そのものの判断です。
次回(3)は、いよいよ戦争です。船を一隻建てたこともなかった建設業者が、わずか4日と15時間で1隻を進水させるまでになった話。原子爆弾の施設をゼネコンが建てた話。そして、テキサスの政治への「投資」が巨大工事となって配当された話と、戦後の高速道路と郊外がつくり出した黄金時代へと続きます。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。特に古い時代の数値や「史上最大」「最速」といった記録には、資料により幅があります。