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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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ベクテル幹部が国務長官と国防長官に就いた「影の政府」、脱組合化、名門モリソン・クヌーセンの死、固定価格EPCの連鎖破綻、そして全米一のターナーがスペイン資本になるまで。巨人たちが倒れる時代を描く連載第4回です。
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アメリカ建設業150年史の第4回です。前回までは、巨人たちが生まれ、育つ話でした。フーバーダムでは、単独では入札保証金すら用意できない西部の中堅6グループが「シックス・カンパニーズ」という呉越同舟のジョイントベンチャーを組んで砂漠にダムを築き、第二次大戦では請負業者が造船から原爆施設までを担って国家機構そのものになり、戦後の黄金時代には高速道路・郊外住宅・原子力・中東という四方向へ需要が同時爆発しました。つまり「作れば作るほど大きくなれた」時代です。今回は、その裏返しです。1973年の石油危機からリーマン・ショックまでのおよそ半世紀、黄金時代を築いた名門たちが、次々と倒れ、買われ、名前ごと消えていく時代を追います。そして、その死因は腕でも運でもなく、驚くほど共通した「経営の選択」に集約されていきました。町場(中小の建設会社)を営む立場から読んでも、ここは他人事にできない半世紀です。会社の生死を分けたのが技術力ではなかった、という事実そのものが、私には一番の教訓に思えます。動乱の第6章と、崩壊の第7章。景気が良かった時代の勝ち方が、そっくりそのまま次の時代の負け方に化けていく——その皮肉を、たくさんの固有名詞と一緒に、順番に見ていきます。

1973年の石油危機は、米国建設業を真っ二つに引き裂きました。海外、とりわけ中東では、オイルマネーによるかつてない建設特需が続きます。前章で触れたとおり、ベクテルはサウジアラビアのペルシャ湾岸で、単一現場としては人類史上最大級とされるジュベール工業都市の開発を一手に引き受け、ライバルのRalph M. Parsons社は紅海側の対になる工業都市ヤンブーを担当していました。産油国に転がり込んだ石油代金が、そのまま米国E&C(設計・調達・建設)企業の受注残に化けていったのです。ところが、同じ石油高騰が国内では正反対の事態を招きます。資材とエネルギー価格の急騰が建設コストを押し上げ、それに対する施主側の「反乱」が始まりました。海外は宴、国内は反乱——この分裂が、動乱の時代の幕開けでした。黄金時代には四方向すべてが追い風だったのに、ここから先、建設会社は「どの風に乗り、どの風から逃げるか」を選ばされ続けることになります。
高騰する建設費に最初に怒ったのは、施工会社ではなく、巨大な工場を発注する側の製造業の経営者たちでした。彼らにとって建設費の上昇は、そのまま設備投資コストの膨張であり、国際競争力に直結する死活問題です。日本やドイツの製造業と世界市場で戦っている彼らからすれば、工場を一つ建てるたびにコストが膨らむのは、放置できない出血でした。そこで彼らは「建設ユーザー反円卓会議(Construction Users Anti-Inflation Roundtable)」といった発注者側の圧力団体を作り、建設費の抑制を組織的に迫り始めます。この流れが、USスチール会長ロジャー・ブラフらの主導で、1972年に「ビジネス・ラウンドテーブル」へと発展しました。今日では米国の主要企業CEOが名を連ねる財界ロビーの代表格として知られる団体ですが、その源流の一つが建設コスト問題だったという事実は、あまり語られません。物を建てる費用の高さが、アメリカ財界を束ねる政治装置を一つ生んだ——建設という産業が、いかに国の経済の根っこに食い込んでいるかを示す一幕です。
彼らが推進したのが、建設現場の脱組合化——いわゆるオープンショップ運動でした。労働組合の高い賃金と、硬直的な職種区分(この配管はこの職種の組合員でなければ触れない、この電線はあの職種の縄張り、という細かな線引き)が建設費を不当に押し上げている、という主張の下、発注者は非組合の業者を積極的に指名し始めます。ここで思い出したいのが、前章で見たニューディール期のデービス・ベーコン法(1931年)です。連邦の工事で地域標準賃金の支払いを義務づけたこの制度は、長らく建設労働者の賃金の底を支えてきました。オープンショップ運動は、いわばその賃金の下支えを、民間発注の側から切り崩していく動きだったのです。結果は劇的でした。最盛期には7〜8割に達していた建設業の労働組合組織率は、この運動を経て長期的に低下し、現在では1割そこそこにまで落ち込んでいます。大陸横断鉄道でトンネルを穿った中国人労働者に始まり、アイルランド移民、そして戦後の組合員へと受け継がれてきた米国建設労働の姿が、ここで大きく形を変えました。米国建設業の労働史における、最大の構造転換です。この転換は、勝つ会社の顔ぶれそのものも変えました。組合の賃金体系に縛られない非組合の業者は、より低い価格を提示できます。すると価格競争の土俵そのものがずれていき、腕の良し悪し以前に、どの労働コストで戦えるかが受注を左右するようになりました。建設という産業が、職人の共同体という顔から、コストで競い合う市場という顔へと性格を変えていく、その分岐点でもあったのです。誰が建設費の上昇分を負担するのか——発注者と職人のこのせめぎ合いは、規模こそ違え、資材高と人件費高に挟まれる今の町場の現場でも、そのまま起きている綱引きだと私は感じます。
1979年、ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で炉心溶融事故が起きます。放射性物質の大規模な放出には至らなかったものの、この事故が米国社会に与えた衝撃は甚大でした。世論は原子力に背を向け、新規の原発計画は次々に中止・凍結され、米国の原発建設市場は事実上、その後およそ30年にわたって凍りついてしまいます。ここで深い傷を負ったのが、原子力に社運を賭けていた企業——とりわけStone & Websterでした。
この会社の履歴を開いておくと、事故の重みがわかります。Stone & Websterは1889年、MITを出た同級生コンビが電力エンジニアリング会社として創業した名門で、19世紀末から全米の電力インフラを支えてきました。第二次大戦中には、マンハッタン計画のテネシー州オークリッジ複合施設の総合管理まで担っています。つまり原爆を生んだ巨大施設の運営を任されるほど、国家に信頼された技術者集団でした。戦後の黄金時代には、ベクテルと並んで「原子力こそ次の巨大市場だ」と信じ、全米各地に原発を設計・建設して、専門知識と人材を蓄積していきます。その、黄金時代を通じて磨き上げた勝ち筋そのものが、スリーマイル島の一夜で消滅したのです。積み上げた専門性が資産どころか重荷になる——有望市場と見えたものへの過度な依存が、いかに危ういか。これは、この半世紀を貫く最初の警告になりました。対照的なのが、同じ黄金時代に原子力へ賭けた、もう一方の雄ベクテルです。ベクテルも原発を数多く手がけましたが、同時に中東の巨大工業都市、都市鉄道、パイプラインと、事業の裾野を広く持っていました。だからこそ原子力市場の凍結を、数ある柱の一本が折れただけで受け止められた。原子力に社の重心を深く預けていたStone & Websterは、その一撃で傾いた。同じ賭けをしても、他にいくつ柱を立てていたかで、生死が分かれたのです。一つの得意分野に社の未来を丸ごと預けることの怖さは、規模を問わず建設業の経営に普遍的な教訓だと思います。今日いちばん有望に見える市場ほど、明日には最大のリスクに変わりうる。
そしてこの時代、ベクテルと連邦政府の関係は「回転ドア」の極致に達します。回転ドアとは、政府高官の椅子と民間企業の幹部の椅子との間を、人材がぐるぐると行き来する構造のことです。1981年に発足したレーガン政権で、ベクテル社長を務めていたジョージ・シュルツが国務長官に、同社の法務顧問だったキャスパー・ワインバーガーが国防長官に就任しました。米国の外交のトップと軍事のトップ、その二人が揃って、同じ一社の元幹部だった——これがベクテルが「影の政府(the shadow government)」と呼ばれた所以です。
しかも、これは突発的な人事の偶然ではありません。遡れば、戦時中にベクテルと組んだジョン・マッコーンが後にCIA長官になった前例もあり、同社と国家中枢との人脈は一貫して太いものでした。この会社の性格を思い出せば、腑に落ちます。創業者ウォーレン・ベクテルは、無一文からラバの隊列で鉄道の土工請負を始めた男で、蒸気ショベルを借金で導入して競合を機械の生産性で圧倒した賭博師でした。彼が残した社是は「我々は建設業ではなく、金を稼ぐ商売をしている」。その息子スティーブ・ベクテル・シニアが、会社を単なる土工請負から、エンジニアリングと金融を組み合わせた巨大プロジェクト・カンパニーへと脱皮させ、以後5代にわたる同族支配が続きます。株式を一切上場しない非公開の同族企業が、国家の最重要事業に食い込み続けること自体を、一貫した事業戦略にしてきた——影の政府という綽名は、揶揄であると同時に、この会社の本質を突いてもいるのです。四半期ごとの株主の顔色をうかがう必要がないからこそ、何十年もかけて国家との関係を育てられた、とも言えます。そして回転ドアは、単なる人脈自慢ではなく、受注に直結しました。国防・エネルギー・外交の意思決定の場に、自社の元幹部が座っていれば、巨大な政府案件の情報も、その案件を任せる先の判断も、自然とその会社に流れやすくなります。批判者が「癒着」と呼び、擁護者が「専門性の活用」と呼ぶ、その細い境界線の上を、ベクテルは半世紀にわたって歩き続けたのです。
同じ「請負業者と国家権力の癒着」という主題は、この時代、もう一つの会社へと凝縮していきます。油田サービスのHalliburtonです。テキサスで1919年、アール・P・ハリバートンが油井のセメンチング(坑井をセメントで固める技術)に特化して興したこの会社は、同じ1919年に同じテキサスで生まれたBrown & Rootを、1962年に買収していました。Brown & Rootといえば、道路工事の現場監督ハーマン・ブラウンと弟ジョージが、雇い主の倒産で受け取った中古の機材とラバを元手に築き、新人下院議員時代のリンドン・ジョンソンに早くから政治資金を提供して、その見返りに連邦工事を差配してもらった——政治への「投資」で巨大化した、あの会社です。歴史家ロバート・カロのジョンソン伝で詳細に描かれた、米国政治史における請負業者と政治家の結託の、最も有名なケーススタディでもあります。そのHalliburtonが1998年、ダイヤモンド・ドリル機器のドレッサー・インダストリーズと合併し、その傘下にあったM.W.ケロッグを取り込みます。M.W.ケロッグもまた、マンハッタン計画でウラン濃縮工場K-25の設計子会社ケレックス(Kellex)を生んだ、化学プラントの名門でした。こうして、政治(Brown & Root)・石油(Halliburton)・原爆開発(Kellogg)の三つの系譜が一社に束ねられ、後にKBR(Kellogg Brown & Root)が形作られていきます。そしてHalliburtonがこの巨大合併を主導したときのCEOこそ、後に副大統領となるディック・チェイニーでした。請負業者と政治権力の癒着というこの産業の生まれながらの主題——19世紀のクレディ・モビリエ事件で大陸横断鉄道の工事費が組織的に水増しされ、その株が現職副大統領や議員にばら撒かれた、あの原型——が、20世紀の終わりに、KBRという一つの会社へと凝縮されていくのです。

1990年代から2010年代にかけて、米国建設業を貫いたテーマは、ただ一つ「名門の死」でした。黄金時代を築いた巨人たちが、次々と倒れ、買収され、名前ごと消えていきます。思えばこの産業は、その創世記から容赦がありませんでした。ゼネラル・コントラクターという業態そのものを1882年に発明したジョージ・A・フラーの会社ですら、ペンシルベニア駅やリンカーン記念堂まで手がけながら、1970年代には市場から姿を消しています。業態の発明者すら生き残れない産業——その非情さが、この半世紀に本領を発揮しました。しかも恐ろしいのは、名門たちの死因のほとんどが、腕の劣化でも需要の消失でもなかったことです。死因はほぼ二つに絞られます。本業を軽視した拙い経営多角化と、固定価格契約という毒。どちらも「どんな仕事を、どんな条件で引き受けるか」という、経営判断そのものでした。
最初に倒れた大物が、「地球の表面を変えた男」の会社、モリソン・クヌーセン(MK)です。創業者ハリー・モリソンは、フーバーダムのシックス・カンパニーズの一角を担い、その後は世界中のダム・鉱山・基地を手がけ、タイム誌の表紙で「地球の表面を、生きているどの人間よりも変えた男」と評された、伝説的な人物でした。太平洋のウェーク島では同社の作業員1,000人以上が基地建設中に日本軍の攻撃を受けて捕虜となり、ベトナムではRMK-BRJ連合の一員として南ベトナムの軍事インフラを築いた——文字通り、20世紀のアメリカと共に世界を掘り続けた会社です。フーバーダムの灼熱の砂漠から、真珠湾に近い太平洋の島、そしてベトナムのジャングルまで——アメリカが関わったほとんどの現場に、この会社の重機の轍がありました。それだけの歴史を背負った名門が、経営者一人の舵取りで崩れていったという事実の重さを、まずは受け止めたいと思います。
その名門が、1980年代後半、スター経営者として外部から招かれたビル・エイジーの下で、道を誤ります。エイジーは、泥にまみれて物を掘り建てるという地道な本業を軽視し、鉄道車両製造などへの多角化と、金融工学的な経営に傾斜していきました。華やかな企業買収や財務操作で会社を「経営する」ことに熱心で、現場から遠ざかったのです。本業の稼ぐ力が細っていく中で、その穴を財務の見せ方で取り繕おうとすれば、数字はいずれ破綻します。建設は、現場の一つひとつの仕事が地道に積み上がって、初めて利益が残る商売です。その地道さを軽んじる経営者に率いられた瞬間から、名門は外からではなく、内側から溶け始めていました。放漫経営と会計操作の末に、MKは1995年、事実上破綻します。その残骸はワシントン・グループ・インターナショナルへと姿を変え、2007年にURSへ、そして2014年にはURSごとAECOMに吸収されて、ついに名前が消えました。一つの伝説が、三度転売された末に、溶けて無くなったのです。腕が落ちたわけではありません。地球の表面を変えられるほどの会社ですら、経営の舵取り一つで死ぬ——これが、この時代の第一の教訓です。本業で食えている会社が、なまじ余力があるときに「本業以外で一発当てよう」として傾く。この筋書きは、規模を問わず、いつの時代も繰り返されます。
原子力に賭けたStone & Websterの末路も、これと重なります。前章の凍結で長い衰退に入っていた同社は、2000年、ついに経営破綻しました。一度はルイジアナのShaw Groupに救済されますが、そのShawが2013年に買収されたことで、同社のエンジニアリング部門は、奇しくも1889年創業の「同期生」CB&I(Chicago Bridge & Iron)の傘下に入ります。CB&Iは、シカゴで橋梁とタンクの会社として生まれ、Stone & Websterとまったく同じ年に産声を上げた老舗でした。19世紀末に肩を並べて出発した二社が、一世紀を越えて、片方がもう片方に吸収される——それだけでも数奇な巡り合わせですが、問題はその先です。救い手となったCB&Iこそが、この時代で最悪の罠に、自ら進んで踏み込んでいくことになります。救った側が、救われた側の抱えていた原子力という業の深さごと引き受けてしまった——後から振り返れば、この救済そのものが、次の破滅への入り口でした。傾いた会社を助けたつもりが、その病巣を吸い込んでしまう。買収や救済という華やかな動きの裏で、こういう連鎖が静かに進んでいたのです。
この半世紀で最大の悲劇が、「固定価格EPC」という毒による連鎖死でした。まず、仕組みを開いておきます。EPCとは、設計(Engineering)・調達(Procurement)・建設(Construction)を一括で請け負う方式で、その大元は、前章で見たスイス移民ジョン・フルーアが南カリフォルニアの石油ブームの中で確立した、プラント一式を丸ごと引き受けるビジネスモデルにあります。ここに「総額いくらで完成させます」という固定価格が組み合わさると、契約の性格が一変します。工期が延びても、資材が高騰しても、想定外の技術的問題が噴き出しても、超過したコストはすべて請負業者がかぶる。発注者にとっては、これ以上ないほど安心な契約です。しかし請負側にとっては、上振れした利益は契約額で頭打ちなのに、下振れの損失だけは青天井という、極めて非対称な賭けなのです。フルーアがこのEPCモデルで会社を世界に押し出したまさにその仕組みが、章を追うごとに、E&C各社を繰り返し破滅の淵へ追いやる温床になっていきます。つまり、この毒は外から降ってきた災難ではありません。米国のE&C産業が世界で戦うために、自ら磨き上げて手に入れた武器そのものが、契約条件の付け方ひとつで、そのまま自らを斬る刃に変わる——固定価格EPCとは、そういう性質のものでした。
21世紀初頭、米国で久々の原発新設ブームが起きます。スリーマイル島以来、数十年ぶりの新規計画——ジョージア州ボーグル、サウスカロライナ州V.C.サマー。この好機に、原子炉メーカーのウェスチングハウスと、施工を担うCB&I/Shawが、揃って固定価格契約で突き進みました。結果は破滅的でした。長年新設が止まっていた原発は、失われた建設ノウハウ、この間に厳格化した安全規制、次々と発覚する設計・施工の問題によって、深刻な遅延と費用超過にまみれます。そして2017年、ウェスチングハウス(当時は日本の東芝の傘下)は、巨額の損失を抱えて連邦破産法第11条を申請しました。この破綻は、遠く海を越えて東芝本体の経営をも揺るがす、国際的な大事件になります。日本の名門電機メーカーが、アメリカの原発の固定価格契約で足元を掬われたのです。余波は連鎖しました。原発工事で傷んだCB&IはMcDermott Internationalに救済買収され、そのMcDermott自身も負債に耐えきれず、2020年に破産を申請します。固定価格という一つの毒が、ウェスチングハウス→CB&I→McDermottと、名門を数珠つなぎに殺していったのです。同じ毒は、米E&Cの象徴でありEPCモデルの生みの親でもあるFluorをも蝕みました。同社は2019〜20年、固定価格案件の損失と会計問題で深刻な経営危機に陥り、不採算分野からの撤退を迫られます。この連鎖を眺めていて背筋が寒くなるのは、倒れた各社が、どこも技術力で劣っていたわけではないことです。ウェスチングハウスは世界屈指の原子炉メーカーであり、CB&IもMcDermottもFluorも、それぞれの分野で一流の看板を持っていました。それでも、契約書のたった一行——「総額固定」という条件を呑んだその一点が、一流の看板を次々に紙くずへ変えていったのです。腕がある会社ほど「この規模の仕事なら自分たちならやり切れる」と思い込み、青天井のリスクを引き受けてしまう。自信こそが、この毒の運び手でした。「取れる仕事を全部取る」のではなく、「損失が青天井になる仕事は取らない」。この一線をどこに引くかが、腕よりも先に、会社の生死を分けました。安く請けて仕事を取ること自体が、時に最大の経営リスクになる——固定価格の下請けを日々こなす町場の会社ほど、噛みしめたい話です。
死の一方で、産業地図そのものが書き換わっていきます。まず起きたのが、外国資本の上陸でした。1999年、ドイツの建設大手Hochtiefが、アメリカの摩天楼を象徴する名門Turnerを買収します。Turnerといえば、1902年、クエーカー教徒のヘンリー・ターナーが、ランサム式鉄筋コンクリートの特許ライセンスだけを元手に創業した会社です。「鉄とコンクリートで建物を建てる」こと自体が最先端技術だった時代に、防火性と耐久性を売りに、品質と誠実さを掲げて、ニューヨークの摩天楼時代を着実に担ってきた、アメリカらしさの塊のような名門でした。その会社が、まずドイツ資本の傘下に入る。さらに2011年、そのHochtiefを、今度はスペインの建設大手ACSが支配下に置きました(出典:ENR)。
その結果、現在、米国最大級のゼネコンTurnerの最終的な親会社を支配しているのは、ACS会長にして、サッカークラブ「レアル・マドリード」会長でもある、フロレンティーノ・ペレスです。アメリカを代表するビルを建て続ける会社の実質的なオーナーが、スペインのサッカー界の帝王である——グローバル化が建設業に何をもたらしたかを、これほど鮮やかに象徴する事実は、そうありません。クエーカー教徒が特許ライセンス一枚から始めた会社の頂点に、いまマドリードの富豪が座っている。ターナーだけではありません。スウェーデンのSkanska、イギリスのBalfour Beattyも、米国の地場ゼネコンを次々に買収し、米建設市場の上層には、欧州資本が深く根を張りました。国の骨格を物理的に作るという産業の上澄みが、静かに、しかし確実に、外国資本に握られていったのです。建設は極めて土着的な産業に見えて、その資本の国籍は、いつの間にか国境を越えていました。興味深いのは、買う側の欧州勢が、米国のゼネコンより「物を建てる腕」で勝っていたとは限らないことです。彼らが持っていたのは、現場の技術というより、資本と、世界規模で複数の建設事業を束ねて回す経営の器でした。建設という土着的な産業の頂点を左右するのが、泥にまみれる現場の技術ではなく、国境を越える資本の論理になっていく——グローバル化がこの産業に突きつけたのは、そういう身も蓋もない現実だったのです。
ゼネコン側が外資に買われていく一方、設計・エンジニアリング側では、正反対の動き——買収による巨大化(ロールアップ)が進みます。同種の企業を次々に買い集めて一社に束ねていく手法で、その主役がAECOMでした。1990年、石油会社アシュランドのエンジニアリング部門が独立して生まれたこの会社は、いわば買収マシンと化し、設計・コンサル企業を次々に統合していきます。2010年には、世界貿易センターを建てたあのTishman建設部門を買収しました。Tishmanは、黄金時代に、設計の完成を待たずに着工してコストと工程を管理する「コンストラクション・マネジメント(CM)」方式を本格確立した名門で、9.11後に再建された新世界貿易センター=One World Trade Centerの施工管理も担い、旧WTCと新WTCの両方を建てた、稀有な会社です。2014年には、先ほど登場したURS——モリソン・クヌーセンの最終的な後継——を約60億ドルで買収し、AECOMは一時、世界最大の設計・建設企業になりました。
ところが、その後、AECOMは実に皮肉な選択をします。2020年前後、苦労して集めた施工・建設管理部門を、今度は次々と売却し、リスクの低い設計コンサルティング専業へと回帰したのです。せっかく世界最大の「建設もできる会社」になったのに、自ら「建てる部分」を手放していった。同じ動きはJacobsにも見られます。同社はライバルのCH2M Hillを2017年に買収して巨大化した後、エネルギー・化学部門をオーストラリアのWorleyへ、政府向けサービス部門を2024年にAmentumへと、次々に分離していきました。この時代の設計・エンジ業界の合言葉は、実に明確です——「施工リスクから逃げ、コンサルティングへ移れ」。物を建てて損失を抱えるより、図面と助言で安定した利益を得るほうがいい。固定価格EPCの連鎖死を、同じ業界の隣人として間近に目撃した産業が下した、合理的だが、どこか物悲しい選択でした。振り返れば、米国の建設業は建国期のASCE・AIA設立の頃から「設計者は施工の利益から手を引く」という分離・分業の遺伝子を持って生まれた産業です。その遺伝子が、一世紀半を経て「設計側はリスクを取らない側へ退く」という形で、もう一度色濃く表れたとも読めます。理屈はきわめて明快です。設計・コンサルは、抱える資本も小さく、判断を誤っても図面の描き直しで済むことが多い。ところが施工は、一つの誤差、一度の遅延、一本の固定価格契約が、そのまま巨額の損失に化けます。利益率の安定を何より求める資本にとって、どちらの椅子が心地よいかは、火を見るより明らかでした。だから設計・エンジ各社は、せっかく手に入れた「建てる力」を、自ら手放して逃げたのです。付加価値は「物を作る現場」から「リスクを取らずに助言する側」へ移った——この価値の移動は、下請けの重層構造の中で自分がどこに立つべきかを考えるうえで、町場の経営にも鋭く刺さる論点だと思います。
戦争もまた、この時代の建設業を色濃く彩りました。2001年からのアフガニスタン・イラク戦争で、KBR(当時はHalliburton傘下、後に分離独立)は、米軍の兵站——食事、宿営、洗濯、燃料輸送など、軍隊が戦地で生活し戦うために必要な後方支援のほぼ全てを、一手に担うLOGCAP契約を獲得します。その累計額は、数百億ドル規模に達しました。しかし、発注過程の不透明さと、当時副大統領だった元CEOチェイニーとの関係が、激しい利益相反批判を呼びます。思い返せば、戦争の民間委託という道を最初に本格的に切り開いたのは、ベトナムで南ベトナムの軍事インフラを築き、反戦運動の中で「戦争で儲ける企業」の象徴として "Burn & Loot(焼いて略奪する)" と揶揄された、あのBrown & Rootでした。その血を引くKBRが、イラクで戦争ビジネスの一つの頂点に達したのです。第二次大戦のマンハッタン計画から、ベトナム、そしてイラクへ——請負業者が国家の戦争そのものを実行するという構造は、150年をかけて、ここまで純化しました。請負国家アメリカの、最も生々しい断面がここにあります。戦争を民間に委ねれば、政府は制服を着た兵士の数を抑えたまま、後方の戦力を維持できます。しかしその代償として、戦争の一部が「利益の出る事業」に変わり、誰がその利益を得るのか、その受注は公正だったのか、という問いが常について回ります。フーバーダムを砂漠で分け合った請負のジョイントベンチャーが、半世紀後には戦地の兵站を丸ごと請け負うところまで来た——この産業が国家とどこまで一体化したかを、KBRは体現していました。

国内に目を転じれば、頂点に立ち続けたベクテルですら、この時代に深い傷を負いました。同社は1991年から、ボストンの都心を貫く高架高速道路を地下トンネルに置き換える巨大プロジェクト「ビッグ・ディッグ(Big Dig)」を統括していました。稼働中の大都市の真下で、交通も生活も止めずにトンネルを掘り進めるという、技術的難度が極めて高い工事です。当初26億ドルと見積もられた事業費は、完成までに利子込みで150億ドル超へと膨れ上がりました。米国メガプロジェクトの費用超過の、代名詞になった数字です。それだけではありません。2006年、すでに開通していたトンネルで、天井を吊っていたコンクリート板が落下し、走行中の車の乗員が死亡する事故が発生します。ベクテルは設計・管理体制を厳しく問われ、影の政府とまで呼ばれ、レーガン政権に二人の閣僚を送り込んだあの会社が、国内での長年の評判に深い傷を負いました。ベクテルにとって皮肉だったのは、これが海外の危険地帯ではなく、母国アメリカの、それも歴史ある学術都市ボストンの足元で起きたことです。国家の裏側で「影の政府」とまで呼ばれ、世界中の難工事をこなしてきた会社が、自国の市民が毎日通るトンネルの天井で、信頼を失った。難しい仕事を成し遂げる力と、成し遂げたものを長く安全に保つ力は、別物なのだと突きつけられた出来事でもあります。巨大プロジェクトの費用が当初の6倍近くに膨らむ——これは特殊な出来事に見えて、見積もりの甘さと管理の緩みが少しずつ積み重なって膨張していく、という構造は、規模の大小を問わず、あらゆる建設の現場に共通しています。当初見積もりを軽く考えると、腕のある会社でも足を掬われる。
そして2008年、サブプライム住宅ローン危機が、住宅建設業を直撃します。ここで少し、系譜を思い出しておきます。米国には、これまで見てきたゼネコンやE&Cとは、まったく別の産業として「ホームビルダー」という一群があります。戦後、ウィリアム・レヴィットが、ニューヨーク郊外のジャガイモ畑に「レヴィットタウン」を出現させ、住宅建設を26の工程に分解して、規格化された戸建てを驚異的な速度と低価格で量産した——「住宅業界のヘンリー・フォード」と呼ばれた、あの流れ作業の系譜です。そこからKaufman & Broad、Centex、Pulte、Lennar、そして現在の最大手D.R. Hortonへと続いてきた、ゼネコンとは別系統の産業でした。付け加えておくと、この郊外住宅の系譜には、明るいだけではない影もありました。初期のレヴィットタウンの売買契約には、非白人への再販売・賃貸を禁じる条項が含まれ、連邦住宅局の融資保証の基準そのものが人種隔離を前提にしていました。戦後の郊外の繁栄は、構造的な差別とセットで設計されていたのです。その負の歴史も抱えたまま、ホームビルダーという産業は、規格化と量産を武器に巨大化していきました。
その各社を、住宅バブルの崩壊が容赦なく半壊させます。淘汰が一気に進み、この嵐を生き延びたD.R. HortonとLennarが、その後の市場を寡占していきました。そして同時に、業界標準として広まったのが、リスクを抑えたNVR社流のビジネスモデルです。土地を自社で大量に保有せず、地主から「オプション契約」で買う権利だけを押さえておき、実際に売れる見込みが立ってから初めて土地を取得して家を建てる——値下がりする土地の在庫を、極力自分では抱えない仕組みです。ここでも「施工リスクから逃げろ」と、根は同じ思想が働いています。値下がりリスクの高い土地在庫を、自分の帳簿から追い出す。皮肉なことに、現在の米国では、こうしたホームビルダーの時価総額は、どの伝統的ゼネコンよりも、はるかに大きくなっています。「設計し巨大施設を建てる」会社より、規格化された家を「売る」会社のほうが、株式市場ではずっと高く評価される時代になったのです。物を作る難しさと、その難しさに市場がつける値段は、いつも一致するとは限らない——この半世紀は、そのことを繰り返し、静かに突きつけてきました。家を規格化して建てて売る会社が、巨大インフラを設計し施工する会社より高く評価される——これは、建設という営みの重心が、「難しいものを一つ作り上げる技術」から、「売れるものを効率よく回し続ける仕組み」へと移ったことの、はっきりした表れでもあります。株式市場が拍手を送る先が、どこへ動いたのか。その矢印を見ておくことは、これからの建設業を考えるうえで、地味ですが外せない視点だと思います。

①巨人の死因は、ほぼ2つに集約される。本業を軽視した多角化(モリソン・クヌーセン)と、固定価格でリスクを丸呑みする契約(ウェスチングハウス→CB&I→McDermottの連鎖、そしてFluorの危機)。地球の表面を変えた会社も、原爆施設を建てた会社も、腕や需要ではなく「経営の選択」で死にました。取れる仕事を全部取ること、余力があるうちに本業以外へ手を広げること——それ自体が、会社を強くするとは限らないということです。②専門市場への一本足打法は危うい。スリーマイル島のたった一夜で、原子力に社運を賭けたStone & Websterの未来が凍りつきました。今日いちばん有望に見える得意分野ほど、明日には最大のリスクに変わりうる。この危うさは、規模を問いません。③リスクを取らない側に価値が移る。設計コンサルへ回帰したAECOMやJacobs、土地を持たないNVRモデル、上澄みを外資に握られたゼネコン——市場は「誰がリスクを抱えるか」に値段をつけます。だからこそ町場の会社にとっても、どの仕事のリスクを取り、どの仕事のリスクは取らないかは、腕を磨くより先に決めておくべき経営判断だと、私はこの半世紀の連鎖から学びます。安く請けること、仕事を選ばず取ること、得意先に深く依存すること——どれも、一見すると誠実な商売の姿ですが、置きどころを間違えれば、名門ですら殺す毒になります。
最終回(5)は、いよいよ現在です。地味な下請けと見なされていた送電線工事の会社が、売上240億ドルの巨人になった「専門工事の逆襲」。半導体とデータセンターがもたらす、国家主導の新たな特需。鳴り物入りで登場して破綻したスタートアップ、カテラ。そして、150年を貫く4つのパターンを、まとめて振り返ります。長い旅も、あと一回です。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。特に古い時代の数値や「史上最大」「最速」といった記録には、資料により幅があります。