世界でいちばん古い会社は、日本の建設会社です。578年創業の金剛組、法隆寺を建てた宮大工の技、天下普請、宝暦治水、そして黒船前夜までに生まれていたゼネコン3社。日本建設業1400年を読み直す連載日本編、第1回です。
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アメリカ編5回に続いて、今回から日本編です。
日本の建設業の歴史は、アメリカのそれよりはるかに長く、そして性格がまったく異なります。アメリカの建設業が「リスクと調整を引き受ける商人」としてわずか150年で築かれたのに対し、日本のそれは、寺社を建てる宮大工の千年の系譜の上に、明治国家の殖産興業が接ぎ木され、戦争と復興と高度成長の中で「技術を抱え込むゼネコン」という世界でも特異な業態へと進化したものです。世界最古の企業が日本の建設会社であることは、偶然ではありません。この日本編では、飛鳥時代から2020年代までを5回に分けて描きます。随所でアメリカ編と比較しながら読むと、日本の建設業の特異さと普遍性の両方が見えてくるはずです。
その第一回は、いちばん時間の射程が長い章です。西暦578年から、黒船が来る前夜の1853年まで——実に1300年近くを、ひと息に見渡します。ここで押さえておきたいのは、日本の建設業が近代のどこかで「発明」されたのではなく、寺社をつくる職人の技と、国家が命じる巨大工事という二本の柱を、気の遠くなるほど長い時間をかけて育ててきた、という事実です。スーパーゼネコンと呼ばれる巨大企業の何社かは、この章の中で、まだ「大工の店」として静かに産声を上げています。町場(まちば)の中小建設会社を率いる私にとっても、ここは自分たちの仕事の根がどこまで伸びているかを確かめる旅の出発点になります。今の私たちが当たり前だと思っている働き方——現場でつくる人が段取りまで抱えること、公共の工事に地域の業者が組み込まれること、災害のたびに建て直しを担うこと——その一つひとつが、いつ、どんな事情で生まれたのか。それを知ることは、単なる懐古ではなく、これから自分たちがどこへ向かえるのかを考える手がかりになります。


日本建設業の物語は、578年に始まります。聖徳太子が四天王寺を建立するにあたり、百済から三人の工匠を招きました。そのうちの一人、金剛重光が興した宮大工の組織が「金剛組」です(出典:金剛組公式サイト)。四天王寺は、崇仏をめぐる蘇我氏と物部氏の争いに勝った太子が、その戦勝を祈願して建てた寺だと伝えられます。つまり日本で最初期の本格的な建築プロジェクトは、宗教であると同時に、新しい国のかたちを世に示す政治的な事業でもありました。建物が国家の意思の表明になる——この関係は、このあと1400年、姿を変えながら何度も繰り返されます。
四天王寺お抱えの寺社専門工匠として、金剛組は火災のたびに伽藍を建て直し、戦国の兵火をくぐり、江戸の太平を生き、そして明治の廃仏毀釈——仏教を排斥し寺を壊した明治初年の激しい運動——を耐え抜きました。四天王寺そのものが落雷や戦災で幾度も焼け、そのたびに再建される。焼けては建て、建てては焼ける、その反復のただ中に身を置き続けたからこそ、金剛組は1400年以上にわたって存続し、現存する世界最古の企業として知られています。世界最長寿の会社が銀行でも商社でもなく建設会社であるという事実は、この国における「建てる仕事」の位置を象徴しています。壊れることを前提に、壊れたらまた建てる技と組織を絶やさずに継いでいく——災害の多い列島で建設という仕事がもった宿命が、そのまま長寿の理由になっているのです。四天王寺の伽藍は落雷や戦火、そして先の大戦の空襲でも失われ、そのたびに再建されてきました。守るべき本堂や塔が繰り返し失われるからこそ、それを建て直せる職人の家が、途切れずに必要とされ続ける。金剛組の千四百年は、一棟の建物が千四百年もったという話ではなく、建て直す技と人を絶やさなかった、という話なのです。ここには、目に見える資産よりも、いつでも仕事を立ち上げられる人と技を守ることのほうが、長く続く事業の核心なのだという示唆があります。
もっとも、千年の技を継いだ家系でさえ、経営という別の試練からは自由ではありませんでした。金剛組は2006年に経営危機に陥りますが、大阪の高松建設グループが事業を引き継ぎ、社寺建築専業として今も存続しています(出典:髙松建設)。バブル期に本業から外れた事業に手を広げたことが、後の資金繰りを苦しくしたと言われます。腕は千四百年続いても、会社は舵取りひとつで傾く。これは、家業を継ぐ多くの町場の建設会社が今もそのまま抱えている問いでもあります。
宮大工の世界が育てたのは、単なる施工技術ではありません。釘に頼らない木組み、部材の比例体系を定めた木割術、曲尺(かねじゃく)一本で複雑な屋根の勾配を割り出す規矩術(きくじゅつ)——設計と施工が一人の棟梁の頭の中で一体化した、世界的に見ても高度な建築知識体系でした。木組みとは、木材に切り込みを入れて互いに噛み合わせ、金物をほとんど使わずに柱と梁を組み上げる技法で、しなやかに揺れることで地震の力を逃がします。木割術は、柱の太さを基準に各部材の寸法を比率で決めていく設計の作法であり、規矩術は、直角に曲がった一本の物差しだけで屋根の反りや隅木の角度まで導き出す、いわば職人の頭に宿った幾何学でした。図面に頼らずとも、棟梁の裁量で一棟をまとめ上げられる——ここに、後の日本の建設業の性格の原型があります。法隆寺の伽藍が607年頃の創建以来、現存する世界最古の木造建築群として立ち続けていることが、その水準を物語ります。後に日本のゼネコンが「設計施工一貫」を当然のものとし、米国のように設計と施工を制度的に分離しなかった遠因は、この棟梁の伝統にあります。米国では、設計者と施工者が制度として分かれ、互いをチェックし合う仕組みが早くから根づきました。図面を描く建築家と、それを形にする施工者は別の職能であり、別の会社です。日本はその逆で、一人の棟梁が構想から仕上げまでを引き受けるのが当たり前でした。この違いは、後にゼネコンが自前の設計部門と技術研究所を抱え込む「技術企業」へ育つか、リスクと調整に徹する「商人」に育つかという、日米の分かれ道の原点になります。つくる人が同時に描く人でもある、という職人像は、今の一人親方や小さな工務店の中にも、確かに息づいています。図面と現場を一人の頭でつなげる小回りは、規模では大手に及ばない町場の会社にとって、今も確かな強みです。
金剛組が象徴する「民の職人の技」と並んで、この国の建設業にはもう一本の太い柱があります。国家が計画し、発注する巨大造営です。飛鳥から奈良にかけて、日本は中国に倣った律令国家をつくり上げ、そのかたちを目に見えるものにするために、宮都と寺院を国家事業として次々に建てました。694年の藤原京、710年の平城京といった計画都市の造営は、条坊制の街路を碁盤の目に敷き、宮殿と役所を配置する、当時としては桁外れの土木事業でした。律令の官制には木工寮(もくりょう)という造営を司る役所まで置かれ、腕のいい職人は国家の管理下に組織されていきます。つくる技は民の家に継がれ、それを大きく動かす計画と資金は国家が握る——この二層構造は、後に「発注する国家と請け負う業者」というかたちで近代に受け継がれていく、日本建設業の背骨のような分業です。
その頂点が、752年に大仏開眼を迎えた東大寺でした。聖武天皇が国家の安寧を願って造立した盧舎那仏と、それを納める大仏殿は、当時としては世界でも最大級の木造建築であり、全国から資材と労働力を集めた一大国家プロジェクトでした。この大伽藍は、1180年、源平の争乱のさなかに平重衡の南都焼討で灰燼に帰します。それを再建したのが、僧・重源(ちょうげん)でした。彼は宋の建築技術を採り入れた「大仏様(だいぶつよう)」と呼ばれる豪快で合理的な構法を用い、巨大な建物を短期間で立て直します。技術は途絶えても、必要に迫られれば海の向こうから新しい工法を学んで復興する——この柔軟さもまた、災害と再建を繰り返してきたこの国の建設の性質でした。国家の大事業と、民に継がれた職人の技、そして危機のたびに外の知恵を採り入れる度量。町場の小さな会社であっても、公共の仕事に関わり、時に新しいやり方を外から学ぶという構図は、案外この古い時代から地続きなのだと思います。
戦国末期から江戸初期にかけて、日本は史上空前の建設ブームを経験します。織田信長が1576年に築き始めた安土城、豊臣秀吉の大坂城、そして天下統一後の城郭・城下町の一斉整備。石垣を高く積み、天守を天に向けてそびえさせるこの時代の築城は、当時としては最先端の土木・建築の総力戦でした。近江の穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石積みの職人集団が、自然石を巧みに組む「野面積み」で巨大な石垣を築き、各地の大名に召し抱えられていったのも、この頃です。特定の技を持つ専門職人が、仕事を求めて藩から藩へと渡り歩く——現場ごとに人が集まっては散る建設業の姿は、すでにこの時代に現れていました。
徳川家康は「天下普請」と称して全国の大名に江戸城や名古屋城の工事を分担させ、石垣の石を西国から海路で運ばせました。石を切り出し、船で運び、積み上げるまでを各大名に割り当てるこの方式は、諸大名に多額の出費を強い、その経済力を削ぐ政治装置を兼ねた、巨大公共事業でした。武力ではなく普請の負担によって大名を疲弊させる——建設が統治の道具になった、その最も鮮やかな例です。築城は、当時の最高の技術者たちの見せ場でもありました。加藤清正や藤堂高虎といった大名は「築城の名手」として知られ、石垣の反りや縄張り(城の平面設計)に腕を競いました。清正が手がけたと伝わる石垣の美しい曲線は、実用と美意識が一体になった、日本の土木の一つの到達点です。石を切り、運び、積む石工の集団、木を刻む大工、土を盛る人足——それぞれの専門職が一つの巨大現場で組み合わさって城を立ち上げる姿は、多くの下請けと専門工事業者が一つの工事に集まる、今の建設現場の遠い原型でもあります。この時代の建設需要の中で、1610年、織田家に仕えた武士の家系から出た棟梁・竹中藤兵衛正高が名古屋で創業したのが、現在の竹中工務店です(出典:竹中工務店)。正高は主家を離れ、神社仏閣を手がける職人として身を立てました。スーパーゼネコン5社の一角が、関ヶ原の戦いからわずか10年後に生まれていた——これも日本建設業の時間感覚を示すエピソードです。四百年続く会社の始まりが、戦国の余燼がまだくすぶる城下町の一人の棟梁だった、という事実は、今まさに家業を興そうとする者を静かに勇気づけます。
江戸時代には、公共事業の悲劇も刻まれました。1754年、幕府は財政力のある薩摩藩に、木曽三川(木曽・長良・揖斐)の分流治水工事を命じます。世に言う宝暦治水です。この三つの川は濃尾平野の低地で複雑に絡み合い、少し雨が続けばあふれて田畑と家を呑む、暴れ川の集まりでした。流域の村々は集落ごと堤防で囲う「輪中(わじゅう)」をつくって水と戦っていましたが、根本の解決には、川と川を分けて水の流れを整える大規模な土木が要る。それが幕府の狙いでした。幕府が自らの費用ではなく遠国の大名に工事を押しつける「御手伝普請(おてつだいぶしん)」は、天下普請の系譜を引く負担の分担方式であり、薩摩藩が選ばれたのも、その財力を削ぐ狙いがあったと見られています。国元から遠く離れた木曽川のほとりで、慣れない土木工事と幕府側の厳しい監督の中、薩摩藩士は工事中の事故や病、そして抗議の自害によって80名以上が命を落とし、総奉行・平田靱負(ひらた ゆきえ)も完工後に自刃したと伝えられます。莫大な費用と多くの犠牲によって、藩の財政は破綻寸前に追い込まれました。締切のために築かれた堤には薩摩ゆかりの松が植えられ、後年「千本松原」と呼ばれる並木として今も残ります。岐阜の治水神社には今も薩摩義士が祀られ、命がけの工事の記憶が語り継がれています。完成した堤は流域を水害から守り、確かに人の暮らしを支えました。だからこそ、この工事は「成し遂げた事業の意義」と「そのために払われた犠牲」の両方を、私たちに突きつけます。国家が命じ、地方が血を流して建てる——公共事業をめぐる中央と地方の緊張関係は、近代のはるか以前からこの国に存在していたのです。誰の負担で、誰のために、どこまでのリスクを負って造るのか。この問いは、公共工事に携わる地方の建設業者が今も日々突きつけられているものと、根のところで変わりません。

そして江戸の町人地では、町大工たちが都市を支えていました。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた木造過密都市では、明暦の大火(1657年)をはじめ大火のたびに町が建て直され、大工・鳶・左官は常に引く手あまた。明暦の大火は江戸城の天守までも焼き尽くし、その後、天守が再建されなかったほどの惨事でしたが、皮肉にも、繰り返す火災こそが江戸の建設職人たちに絶えざる仕事を与え続けました。壊れては建て直すという列島の宿命が、ここでは大都市のスケールで働いていたのです。火消もまた、建設の職人が担いました。江戸中期に町奉行・大岡忠相のもとで整えられた「いろは四十八組」の町火消は、その多くを鳶職が務め、燃え広がる家をあえて壊して延焼を食い止める「破壊消火」を仕事としました。建てる者が壊す者でもある——木造都市の防災の最前線に、建設の職人が立っていたのです。腕のいい大工の棟梁は町の顔役となり、弟子や下職を束ねて仕事を差配しました。図面も契約書もない時代に、棟梁の信用と段取りだけで多くの人と材木を動かす。その姿は、今も現場をまとめる工務店の親方に、まっすぐ受け継がれています。後の清水建設の創業者・清水喜助は越中富山から江戸に出てきた大工であり(1804年創業。出典:清水建設)、後の鹿島建設の創業者・鹿島岩吉も江戸で大工業「大岩」を開いた職人でした(1840年創業。出典:鹿島建設)。地方から都に出てきた一人の腕利きが、店を構え、弟子を抱え、やがて名を成していく。今日の巨大企業の源流に、そんな職人の立身の物語があることは、覚えておいてよいと思います。
つまり、スーパーゼネコン5社のうち3社(竹中・清水・鹿島)は、黒船来航より前に、大工の店として生まれているのです。アメリカ編で見たベクテルやキーウィットの創業(1880〜90年代)より、半世紀から二世紀半も早い。米国の建設会社が鉄道と西部開拓の時代に「商人」として現れたのに対し、日本の巨大建設会社は、そのはるか前、まだ刀を差した侍が町を歩いていた時代に、木を刻む職人として始まっていました。この「長さ」こそが、日米の建設業の最初の違いです。長い時間を生き抜いた会社には、一代では身につかない何かが宿ります。景気の波を何度もくぐり、火事や地震や戦を越えて仕事を継いできた家には、目先の儲けだけでは割り切らない、腕と信用を守る構えが染みついている。規模の大小にかかわらず、建設という仕事を長く続けるとはどういうことかを、この三社の出自は静かに教えてくれます。そして次回(2)で見るように、この職人たちが黒船以後、西洋建築と国家の発注に出会って「請負業者」へと姿を変えていくとき、日本の建設業は近代の入り口をくぐることになります。

①技術は千年続く。ただし「会社」は経営を誤れば一代でつまずく。金剛組は1400年の技術を継ぎながら、2006年に外の資本の力を借りて再出発しました。腕と経営は別のスキルです。どれほど確かな技を継いでいても、事業の舵取りを誤れば会社は傾く——これは家業を守る町場の経営者ほど、胸に刻んでおきたい教訓です。②設計施工一貫は、日本の伝統に根がある。棟梁の頭の中で設計と施工が一体だったことが、後のゼネコンの形を決めました。米国が最初から「分離と分業」だったのと正反対です。つくる人が描く人でもあるという強みは、今も小さな工務店の現場対応力の源になっています。③巨大公共事業と中央・地方の緊張は、江戸時代からあった。天下普請も宝暦治水も、公共事業が政治装置であることを教えてくれます。誰の負担で誰のために造るのかという問いは、地方の公共工事に関わる者にとって、四百年を経てなお生々しいものです。
次回(2)は、黒船がもたらした大転換。江戸の大工が「請負業者」に化け、渋沢栄一が建設会社に経営哲学を吹き込み、大阪の新興業者が東京駅を建てるまで——そして帝国の拡張と戦争の時代です。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。特に古い時代の伝承(金剛組の創業年など)や数値には、資料により幅があります。