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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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擬洋風建築に挑んだ清水二代喜助と渋沢栄一、「鉄道の鹿島」への大転換、東京駅を勝ち取った大阪の大林組、関東大震災、そして戦争と強制労働の記憶まで。明治から敗戦までの激動を描く日本編第2回です。
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日本建設業1400年史の第2回です。前回は、578年に聖徳太子が四天王寺のために百済から工匠を招いて生まれた金剛組——現存する世界最古の企業——に始まる宮大工の千年と、黒船来航より前に大工の店として生まれていたゼネコン3社(1610年の竹中、1804年の清水、1840年の鹿島)の話をしました。米国のゼネコンがベクテルやキーウィットのように1880〜90年代の「商人」として生まれたのに比べ、日本の建設会社は半世紀から二世紀半も早く、しかも「棟梁」の系譜として立っていた。この「長さ」こそが日米の最初の違いでした。今回は、開国から敗戦までのおよそ90年。大工が「請負業者」へと化け、国家とともに大陸へ出て、そして戦争にすべてを呑み込まれるまでの激動です。私は建設業向けのAIを手がける立場から、この90年を「事業の作り替えの連続」として読み直してみたいと思います。前回の千年が「同じ寺社を建て継ぐ」という連続性の物語だったとすれば、この90年は真逆で、扱う建物も、使う材料も、相手にする発注者も、目まぐるしく入れ替わる断絶の連続でした。木造の家しか知らなかった大工が、レンガとコンクリートの西洋建築を学び、やがて鉄道のトンネルを掘り、海を越えて大陸でダムを築く。その激しさに、企業として耐えて姿を変えられたか、それとも呑まれて消えたか——この時代は、まさにその試験の連続だったのです。

1853年の黒船来航と開国は、日本の大工たちに、見たこともない仕事をもたらしました。洋館です。開港場の横浜には外国商館が立ち並び始め、江戸の大工だった鹿島岩吉はいち早く横浜に進出して洋館建設を手がけ、「洋館の鹿島」として名を上げます(出典:鹿島建設)。図面も工法も未知の西洋建築を、日本の大工が見様見真似で建てた時代でした。ここで思い出しておきたいのは、彼らがそれまで拠って立っていた技術の性質です。宮大工の世界は、釘に頼らない木組み、部材の比例を定めた木割術、曲尺一本で屋根の勾配を割り出す規矩術というように、設計と施工が一人の棟梁の頭の中で一体化した知識体系でした。その職人たちが、レンガを積み、モルタルを塗り、上げ下げ窓を吊るという未知の技術に、注文を取りながら独学で挑んだのです。
この「見様見真似で新しい仕事に飛び込む」という身のこなしは、江戸の大工が代々やってきたことの延長でもありました。前回触れたように、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた木造過密都市では、明暦の大火をはじめ大火のたびに町がまるごと建て直され、大工・鳶・左官は常に引く手あまた。注文が来れば夜を徹して普請にかかり、また焼ければ建て直すという、需要の波に体ひとつで応じてきた稼業です。その機動力が、開国という空前の変化を前にして、洋館という新市場へ真っ先に手を伸ばす原動力になった。守るべき土地も設備も持たない身軽さが、変わり目に強い——これは、看板ひとつで機を見て動く今の小さな工務店の強みにも、どこか通じるところがあります。
その象徴が、清水組二代目・清水喜助です。彼は1868年——まさに明治維新の年——に、日本初の本格的西洋式ホテルである築地ホテル館を完成させ、続いて1872年には第一国立銀行の社屋(旧三井組ハウス)を建てました。城郭のような屋根の上に洋風の塔が載る「擬洋風建築」と呼ばれるこれらの建物は、和魂洋才を文字通り体現した、文明開化のアイコンになります。瓦や漆喰といった日本の材料と技法を使いながら、外観だけは西洋風に仕立てる——本物の洋館を建てる技術が未成熟だったからこそ生まれた、過渡期の折衷様式でした。そしてこの第一国立銀行を拠点としたのが、日本資本主義の父・渋沢栄一でした。渋沢は後に清水組の相談役を長く務め、「論語と算盤」の経営哲学を吹き込みます。現在も清水建設が渋沢を「企業精神の原点」として掲げているのは、この縁によります(出典:渋沢栄一記念財団)。一介の大工の店が、日本を代表する実業家を「相談役」に迎え、道徳と利益を両立させる経営思想を注入された——ここには、現代の中小建設会社にとっても示唆があります。技術だけでなく「どんな考え方で商いをするか」を外から取り込めた会社が、次の時代に伸びていったのです。
国家の側では、明治政府が驚くべき速度で「発注者としての国家」を組織していきます。ここが米国との決定的な違いです。米国が陸軍工兵隊以外の国家建設組織を持たず、大陸開発を民間請負に丸投げしたのに対し、明治日本は工部省や内務省土木局を設け、お雇い外国人(鉄道のエドモンド・モレル、河川のヨハニス・デ・レーケら)から技術を吸収し、帝国大学で古市公威ら自前の土木官僚エリートを養成しました。1872年の新橋〜横浜間鉄道も、初期は官設官営。つまり日本では「計画し設計する国家」が強力に存在し、民間業者はその下で労働力と施工を請け負う「組」——鹿島組、大倉組といった——として位置づけられたのです。日本のゼネコンが後に官との距離の近さ(談合・天下り・族議員)という宿痾を抱えるのも、米国のゼネコンが最初から「商人」として自立的だったのも、この明治の制度設計に淵源があります。
お雇い外国人と自前のエリート養成を、もう少し具体的に見ておきましょう。鉄道のエドモンド・モレルは英国から招かれた技師で、新橋〜横浜間の鉄道建設を指導し、日本の鉄道の規格や測量の基礎を据えた人物です。河川のヨハニス・デ・レーケはオランダから来て、淀川や木曽三川の治水に生涯を捧げ、砂防や河口の改良に近代的な工学をもたらしました。彼らが最新の技術を持ち込む一方で、政府は帝国大学に工学の教育機関を整え、古市公威のような日本人の土木官僚エリートを自前で育てていきます。古市は日本の近代土木の父とも呼ばれる存在で、彼らが官庁や大学の頂点に立ち、外国人から受け継いだ知識を制度として国家の中に固定していきました。つまり日本は、技術の「頭」を国家と学問の側に据えるところから近代建設を始めたのです。この構図の意味は、少し立ち止まって考える値打ちがあります。米国では、設計する者と造る者が最初から民間の中で分かれ、ゼネコンは「リスクと調整を引き受ける商人」として発達しました。ところが日本では、頭脳(計画・設計)を国家が握り、手足(労働力と施工)を民間の「組」が担うという分業から始まったのです。デ・レーケが淀川や木曽川で近代的な河川改修を指導し、モレルが鉄道の技術基盤を敷いたように、上流の知識は官と外国人技師が押さえ、業者はその図面に従って現場を回す。だからこそ日本の請負業者は、発注者である官庁の意向を読み、そこに食い込むことに事業の生命線を見出しました。良くも悪くも「お上との距離」が経営の要になるという構造は、この時期に決まったのです。これは後の連載で詳しく触れることになる、談合・天下り・建設族といった日本建設業の宿痾の、いわば遺伝子が組み込まれた瞬間でもあります。米国のゼネコンが政治家個人との癒着(個別企業と有力者の物語)に流れたのに対し、日本のそれが業界ぐるみ・制度ぐるみの構造になっていくのは、そもそもの始まりが「強い発注者としての国家」と「その下で施工を請け負う組」という関係だったからです。制度の初期設定は、百年経っても産業の体質として残る。現代の町場の会社が、公共工事の入札制度や地域の役所との関係に神経を使わざるを得ないのも、遡ればこの明治の制度設計に行き着きます。
1880年代、私鉄ブームが到来すると、鹿島組は大工業から鉄道土木へと大胆に業態転換し、「鉄道の鹿島」と呼ばれる存在になります。日本鉄道(現在の東北本線など)をはじめとする幹線建設を請け負い、碓氷峠のアプト式鉄道のような難工事にも挑みました。碓氷峠は急勾配を歯車で登るアプト式が採用されたほどの難所で、こうした土木の修羅場が、木造の家を建てる大工とはまったく異なる筋肉——土を動かし、トンネルを掘り、橋台を築く技術と、多数の土工を束ねる労務管理——を会社に付けさせました。建築の大工から土木の請負へ、そして「建築も土木もやる総合建設業=ゼネコン」の原型へ。前回話した「本業の再定義」が、ここで最初にはっきりと起きています。今の会社に置き換えれば、住宅一本だった工務店が、時代の需要を見て土木や改修、あるいはメンテナンスへと軸足を足していくのに近い。変わり目に本業を書き換えられるかどうかが、その後の百年を分けました。ここで注意したいのは、この転身が「たまたま運が良かった」話ではないという点です。私鉄ブームという需要の地殻変動をいち早く読み、建築で培った信用と資金を土木という異分野に投じ、難工事で失敗すれば会社ごと傾く危険を承知で挑む——本業の再定義とは、実のところ相当な胆力を要する経営判断です。慣れた仕事にしがみつくほうが短期的にはずっと安全に見える。それでも新しい波に体を張って乗った会社が次の時代の主役になり、乗り損ねた無数の「組」は名を残さず消えていきました。歴史に名が残るのは勝者だけですが、その背後には、変化に対応しきれずに退場した圧倒的多数の小さな業者がいたことも、忘れずにおきたいと思います。
そして1887年、注目すべき実験が行われます。渋沢栄一、大倉喜八郎(戊辰戦争で武器商として財を成し、大倉財閥を築いた怪物的実業家)、藤田伝三郎という当代一流の実業家たちが共同で、「日本土木会社」を設立したのです(出典:大成建設)。個人の親方が率いる「組」ではなく、株式会社形態の近代的建設企業を作ろうという試みで、米国でジョージ・A・フラーがゼネコンという業態を発明した1882年と、ほぼ同時代です。日米でほとんど同じ瞬間に「建設の会社化」が試みられていたことになります。当代一の実業家が三人も名を連ねたことからも、「建設をひとりの親方の器量に頼るのではなく、資本と組織の事業にする」という発想が、時代の要請として立ち上がっていたことが分かります。顔ぶれを見ておくと、この実験の重みがよく分かります。渋沢栄一は前述の通り第一国立銀行を率いた資本主義の設計者。大倉喜八郎は戊辰戦争の混乱に乗じて武器を商い、そこで得た資力を土木・貿易・製造へと広げて大倉財閥を築いた、良くも悪くも時代の申し子のような人物です。藤田伝三郎は長州出身で、鉱山と土木を軸に藤田組(後の藤田財閥)を育てた実業家でした。政商と呼ばれた彼らは、いずれも官との強い縁の中で事業を大きくした人々であり、その三人が組んで建設会社を作ったこと自体が、この産業と国家がいかに近い距離で始まったかを物語っています。
しかし日本土木会社は、官庁の直轄主義や請負への不信の壁に阻まれ、わずか5年で解散。事業は大倉土木組として再出発します。ここが日米の分岐点でした。米国では民間請負に開発を丸投げしたからこそフラーの会社化が根を張ったのに対し、日本では「官が自ら直営で造る」という直轄主義が強く、外部の請負を信用しきれない空気があった。だから会社化の実験は早すぎて、いったん親方の「組」の形に戻らざるを得なかったのです。この大倉土木組こそ、戦後に財閥解体で大倉の名を外して生まれ変わる、大成建設の前身です。スーパーゼネコンで唯一、創業家を持たない大成の「非同族」の出自は、この財閥の系譜と戦後の解体に由来します。他の四社が創業者の名や血筋を今も色濃く残すのに対し、大成だけが「財閥の一事業」から出発して家を持たないという違いは、この1887年の実験にまで遡れるわけです。同族経営には、長い目で腰を据えられる強みと、身内の論理に囚われる弱みが表裏であります。非同族には、しがらみなく人を登用できる自由と、拠り所となる一貫した理念を保ちにくい難しさがある。どちらが優れているという話ではなく、創業の形がそれぞれの会社の百年の性格を静かに規定していく——五社の顔つきの違いを眺めていると、そのことがよく分かります。
1892年には、大阪で大林芳五郎が大林組(当初は大林店)を創業します(出典:大林組)。後発の大林組が飛躍したのは、1903年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場工事を一手に引き受けたことでした。内国勧業博覧会は、政府が殖産興業のために国内の産業と技術を一堂に集めて競わせた国家的な催しで、その会場一式を新興の業者が任されるというのは、実績も信用も一気に得られる千載一遇の機会だったのです。博覧会という国家イベントが、新興請負業者を一気に押し上げる——後のオリンピックや万博にまで続く、日本建設業のパターンの最初の例です。裏を返せば、この産業は昔から「大きな国家イベントに食い込めるか」で会社の格が跳ね上がる世界でした。1903年の内国勧業博覧会に始まり、1914年の東京駅、1924年の甲子園、後の東京オリンピックや大阪万博まで、大きな催しや象徴的な建物のたびに、それを任された会社が一段上の格へと押し上げられていく。逆に言えば、平時にコツコツ実績を積んでおかなければ、いざその大舞台が来たときに名乗りを上げられない。大林が博覧会の前にすでに大阪で信用を築いていたからこそ、会場一式を任される順番が回ってきたのです。地域の中小にとっても、地元の大きな公共事業や再開発に一枚噛めるかどうかが、次の受注の呼び水になる構造は、規模こそ違えど今も変わりません。そして、その一枚に噛むための信用は、地味な仕事の積み重ねでしか作れない——このあたりの機微は、百二十年前も今も、この商売の変わらない芯だと感じます。
この時代の影も記しておかなければなりません。鉄道や鉱山の現場を支えた土工たちは、親方が衣食住を丸抱えする「飯場制度」の下に置かれ、北海道開拓の現場では、労働者を監禁同然に酷使する「タコ部屋労働」が横行しました。飯場制度は、現場ごとに親方が労働者を集め、食事も寝床も前借りの金も一手に握るという仕組みで、うまく機能すれば人を素早く動員できる一方、逃げれば借金が膨らみ、実質的に人を縛りつける道具にもなりました。北の開拓地では、それがさらに苛烈な形をとったのです。常紋トンネル(1914年完成)では、過酷な労働で死亡した労働者が壁に埋められたという伝承が長く語られ、後年の調査で実際に人骨が発見されています。近代日本のインフラの礎には、こうした無名の労働者たちの犠牲が埋まっている——これは、大陸横断鉄道の中国人労働者を抜きに米国建設業を語れないのと、同じ構図です。太平洋の両岸で、国土を貫く鉄道は移民や最底辺の労働者の命の上に敷かれました。前回、江戸時代の宝暦治水で、幕府に命じられた薩摩藩士が木曽三川の工事で多くの命を落とし、総奉行までもが責めを負って自刃したという悲劇に触れました。国家が命じ、現場で人が血を流すという構図は、近代のはるか以前からこの国に刻まれていたわけです。飯場やタコ部屋は、その古い構図が、鉄道と鉱山という近代の大量動員の中で、人身を金で縛る仕組みへと変質した姿とも言えます。誰が実際に手を動かして造ったのかを忘れない——それは、重層下請の末端まで含めて「働く人」を大切にできるかという、現代の私たちへの問いでもあると思います。華やかな完成写真の裏側に、名前も残らない多くの手があった。その手をどう扱うかは、百年前も今も、この産業の品位を測る物差しであり続けています。
20世紀に入ると、日本の建設業は帝国の拡張と一体化していきます。日清戦争で得た台湾、日露戦争後の南満州鉄道(満鉄、1906年設立)、韓国併合(1910年)——植民地と勢力圏のインフラ建設が、内地の請負業者に巨大な市場を開いたのです。国内の需要が飽和すれば外へ出るというのは、後の中東ブームや現在の米国住宅市場進出にも通じる、この産業の一貫した行動様式です。鹿島組、大倉組、間組(1889年創業、間猛馬)、西松組(1874年創業)、熊谷組(1898年、福井の熊谷三太郎が創業。トンネルと石の仕事を得意とし、後に「トンネルの熊谷」と呼ばれる名門に育ちます)といった各社が、朝鮮半島、満州、樺太へと渡っていきました。その市場を象徴するのが、1906年に設立された南満州鉄道、いわゆる満鉄です。満鉄は単なる鉄道会社ではなく、沿線の都市開発、炭鉱、港湾、ホテルまで手がける巨大な国策会社で、その膨大なインフラ需要が内地の請負業者を大陸へと吸い寄せました。日露戦争で得た権益を足がかりに、鉄道を敷き、駅を建て、街を造る——国家の膨張と建設業の事業拡大が完全に一体化していたのです。海の外にできた「もう一つの国内市場」で腕を磨いた経験は、各社の技術と組織を大きくしましたが、それが帝国の版図の上に成り立っていたという事実からは、後の歴史も含めて目をそらすわけにはいきません。会社ごとに得意技があり、それが「○○の△△」という異名に結晶していく——鉄道の鹿島、トンネルの熊谷というように——のも、この産業の面白さです。何でも屋に見えて、実は一社ごとに看板の技術を磨いていた。中小の会社が生き残る道も、突き詰めればこの「うちはこれで負けない」という一点を持てるかどうかにあります。
その頂点が、鴨緑江に築かれた水豊ダム(1937〜44年)です。間組が施工したこのダムは、堤体積・出力ともに当時世界最大級で、日本窒素の野口遵が構想した朝鮮の電源開発の心臓部でした。野口遵は「化学工業には大量の電力がいる」という発想から、朝鮮北部の急流にダムを築いて自前の電源を確保し、そこに化学コンビナートを一体で建てるという壮大な構想を描いた人物です。米国のフーバーダム(1935年完成)とほぼ同時代に、日本の請負業者は植民地で、それに匹敵する規模のダムを建てていたのです。技術の水準という一点だけを見れば、この頃すでに日本の土木は世界の最前線に手が届いていました。台湾では、技師・八田與一が烏山頭ダムと嘉南大圳の灌漑網(1930年完成)を築き、不毛だった嘉南平野を穀倉に変えました。烏山頭ダムは当時アジア最大級の規模を誇り、張り巡らされた水路の総延長は膨大なもので、水のなかった平野を三年輪作の豊かな農地へと一変させます。八田は植民地統治の技術者でありながら、現地農民のための工事に徹したことで、台湾では今日まで敬愛され続けています。彼は工事に携わった日本人と台湾人の技術者を分け隔てなく処遇したと伝えられ、殉職者を出身にかかわらず慰霊したという逸話も残ります。国家の大きな意図がどうであれ、その末端で誰のために手を動かすかは、技術者ひとりの良心が決める部分が確かにある——八田の名が海を越えて長く語り継がれているのは、その一点によるのでしょう。帝国の建設が残したものの複雑さを示す存在です。造ったものそのものよりも、造る過程で人にどう向き合ったかが、百年後の評価を分けることがある。これは規模の大小を問わず、現場を預かる者すべてに突きつけられている問いだと思います。同じ「帝国のインフラ」でも、常紋トンネルのように犠牲を埋めた現場もあれば、烏山頭のように現地の人々に恵みを残した現場もある。技術は中立でも、それを誰のために使うかで意味がまるで変わる——この振れ幅こそ、建設という仕事の重さだと私は思います。米国では、ちょうど同じ頃にフーバーダムがコロラド川を堰き止め、砂漠に電気と水を送る「大恐慌からの復興の象徴」として国民的な誇りになりました。太平洋のこちら側では、日本の請負業者が植民地の川に、それに匹敵する巨大なダムを築いていた。純粋な工学の達成度という一点だけを取り出せば、両者は肩を並べています。違いは、その工事が「自国民の未来のため」だったのか、「膨張する帝国の版図の上」だったのかという、技術の外側の文脈にありました。同じ規模のコンクリートの塊が、置かれた歴史の中でまったく異なる意味を帯びる——そのことを、経営者として私は忘れずにいたいと思います。

内地では1914年、近代日本建築史に残る事件が起きます。辰野金吾設計の東京駅丸の内駅舎の施工を、大阪の新興・大林組が単独で勝ち取ったのです。辰野金吾は日本人建築家の草分けで、赤レンガに白い石を帯のように挟んだ重厚な様式は「辰野式」と呼ばれ、日本銀行本店なども手がけた当代一の権威でした。その集大成である帝都の玄関を、東京の名門ではなく大阪の若い会社が建てる。この一棟で大林組は全国区の存在になりました(同社は1924年には甲子園球場を、1931年には市民の寄付で再建された大阪城天守閣を手がけ、「大阪の大林」の名を不動にします)。前回の話につなげれば、大坂城を築いた天下普請の記憶が残る土地で、大林は近代の大阪城天守を市民の寄付で建て直した——歴史が土地の上で反復しているようで、私はここに強く惹かれます。甲子園球場もまた、当時としては破格の大観客席を鉄筋コンクリートで実現した、時代を画す構造物でした。ひとつの象徴的な仕事が会社の格を決めるという点は、規模を問わず建設という商売の本質だと思います。なぜ東京駅ほどの大仕事を、地元東京の名門ではなく大阪の新興が勝ち取れたのか。そこには、鉄筋コンクリートやレンガ造といった新しい構造への習熟や、大規模工事を工程通りに回す組織力といった、実力で示すほかない要素がありました。看板や地縁だけでは取れない仕事を、技術と段取りで取りにいく——後発が先発を追い抜く道筋は、今も昔もそこにしかありません。
1923年9月1日、関東大震災が帝都を壊滅させます。死者・行方不明者10万人超。木造の密集した市街地を火災が舐め尽くし、被害の多くは地震の揺れそのものより延焼によるものでした。しかしこの破局が、日本の建設業と建築技術を一段引き上げました。内務大臣・後藤新平(台湾統治と満鉄経営で「大風呂敷」の異名を取った男です)が主導した帝都復興事業は、区画整理、隅田川に架かる永代橋・清洲橋などの復興橋梁群、そして鉄筋コンクリート造の集合住宅「同潤会アパート」を生み、東京を近代都市へと作り替えます。焼け跡を単に元通りにするのではなく、道路を広げ、橋を近代化し、燃えない鉄筋コンクリートの住宅を普及させる——復興を都市の作り替えの好機として使うという発想は、後の戦災復興や震災復興にも受け継がれる、この国の一つの型になりました。後藤新平が当初描いた復興計画は、あまりに壮大で予算が膨れ上がったために大幅に縮小を強いられたと伝えられますが、それでも実現した区画整理や橋梁群が、現在の東京の骨格の一部を成しています。永代橋や清洲橋は、単に川を渡すだけでなく、鋼材とコンクリートで造る近代的な橋の技術を日本に根付かせる実験場でもありました。同潤会アパートは、震災の教訓から生まれた鉄筋コンクリート造の集合住宅で、水洗便所やダストシュートといった当時最先端の設備を備え、後の公団住宅や現代のマンションにつながる「都市に人がまとまって住む」形の先駆けになります。破壊のあとに何を残すか——その構想力が、都市の百年を決めるのです。学術面では佐野利器や内藤多仲らの耐震構造研究が一気に進みました。佐野は建物に働く地震の力を数字で見積もる「震度」の考え方を打ち立て、内藤は後に東京タワーを設計する「塔博士」として、揺れに耐える骨組みの理論を鍛えていきます。なお、震災の当日に開業式を迎えたフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル新館(施工は大倉土木組)がほぼ無傷で残ったことは、伝説として語り継がれています。地震が建設技術を鍛える——この国に繰り返されるパターンの、最初の大規模な実例でした。関東大震災、後の阪神・淡路、東日本と、破壊のたびに日本の建設業は耐震・免震の技術を一段進め、そのたびに社会は建設業の価値を思い出す。災害列島に生きる私たちにとって、これは宿命であると同時に、世界最高水準の技術を生む土壌でもあります。
鉄道では、1918年に着工した東海道線の丹那トンネルが、温泉湧水と断層の地質に阻まれて難航を極め、完成までに16年、67名の殉職者を出します(1934年開通)。熱海の温泉を涸らすほどの大量の湧水が坑内に噴き出し、崩れやすい断層帯が行く手を阻むという、当時の土木技術の限界を試す難所でした。「黒部以前」の日本における最も過酷なトンネルであり、日本の山岳土木技術はこうした犠牲の上に蓄積されていきました。ここで流された血と、そこで得られた地質や排水の知見が、戦後の黒部トンネルや、さらに後の青函トンネルへと受け継がれていく。難工事は会社にとって割の合わない仕事に見えて、実は次の時代の技術を仕込む場でもあったのです。16年という歳月と67名の命は、どんな帳簿にも「利益」としては記されません。けれども、その現場でしか得られない湧水対策や断層帯の掘削のノウハウは、金では買えない資産として会社と国の技術の中に沈殿していきました。目先の採算だけを見れば手を出すべきでない仕事の中に、長い目で見れば会社の背骨になる学びが潜んでいることがある——これは、日々の見積もりに追われる中小の現場にも通じる、難しくも大切な感覚だと思います。
そして戦争が、すべてを呑み込みます。日中戦争から太平洋戦争にかけて、建設業は統制経済に組み込まれ、軍施設・軍需工場・地下壕の建設に動員されました。市場は国家の統制下に置かれ、資材も労働力も配給と割り当てで動く。民間の請負業者が自らの判断で仕事を選ぶ余地は狭まり、産業は戦争遂行の道具として組み替えられていきました。労働力の払底を補ったのは、朝鮮半島・中国からの強制連行・強制労働です。若い男たちが次々と兵にとられ、国内の労働力が枯れていく中で、その穴を埋めるために多くの人々が意思に反して現場へ送り込まれました。皮肉なのは、この時期にこそ、地下壕や軍需工場といった難易度の高い突貫工事が山ほど発生したことです。技術も工期も極限まで要求される一方で、それを担う人手は最も過酷な形でかき集められた。産業として見れば、需要が爆発しているのに供給側の倫理が崩壊するという、最悪の組み合わせがここで起きていました。その最も痛ましい記録が、1945年6月の花岡事件です。秋田県の花岡鉱山関連工事に従事させられていた中国人労働者約1,000名は、虐待と飢えの中で蜂起し、鎮圧と拷問の末、終戦までに400名以上が死亡しました。現場を管理していたのは鹿島組です。鹿島は2000年に生存者・遺族側と和解し、基金を設立しました。長野の松代大本営地下壕の建設にも多数の朝鮮人労働者が動員されています。松代は、本土決戦に備えて大本営そのものを移そうとした巨大な地下壕群で、突貫の掘削に多くの犠牲が伴いました。日本建設業の歴史を語るとき、この戦時の強制労働は省略してはならない一章です。前の章で触れた飯場やタコ部屋の延長線上に、国家総動員という圧力が加わって、人を使い潰す仕組みが極限まで肥大した——そう捉えると、これは一部の会社の逸脱ではなく、時代の構造が生んだ悲劇だったことが見えてきます。1945年、空襲で全国の都市が焼け野原になったとき、建設業は壊滅した国土と、消すことのできない負の記憶の両方を抱えて、戦後を迎えることになります。造る仕事は誇りであると同時に、誰にどんな負担を強いて成し遂げたのかを問われ続ける仕事でもある。その両面を引き受けることが、この産業に生きる者の責任だと私は考えています。

①生き残った会社は「本業の再定義」をした会社。洋館へ、鉄道へ、植民地へ——変わり目のたびに主力事業を書き換えた会社(鹿島、大林)が次の時代の主役になりました。大工から土木へ、内地から大陸へと看板を掛け替えられたかどうかが、その後の百年を分けています。町場の会社にとっても、住宅から改修へ、新築から維持管理へと、時代の需要に合わせて軸足を足していく発想は、規模を問わず通じる生存戦略です。②「会社化」は日米ほぼ同時に試みられた。1887年の日本土木会社と1882年のフラー。ただし日本は「強い発注者としての国家」の下で「組」の文化が残り、これが後の官民関係を決めます。頭脳を国家が握り、手足を民間が担うという明治の分業が、良くも悪くも「お上との距離」を経営の要にしました。③破局が技術を鍛える。関東大震災は耐震構造研究を一気に進め、丹那や大陸の難工事は次の時代の土木を仕込みました。そして——繁栄の礎に埋まった無名の犠牲と戦時の強制労働を、この産業の歴史は忘れてはいけません。誰が手を動かし、誰が負担を負ったのかを問い続けることも、造る側の責任です。もう一つ、この90年を振り返って私が痛感するのは、産業の体質は「始まり方」で決まってしまうということです。頭脳を国家が握り、手足を組が担うという明治の分業は、技術者を尊ぶ文化と、官との近さという体質を同時に日本の建設業に埋め込みました。良い遺伝も悪い遺伝も、創業の作法として刻まれ、百年単位で受け継がれていく。だからこそ、いま自分たちがどんな作法で仕事を始め、どんな関係を現場や取引先と結ぶかは、遠い未来の産業の姿を静かに決めているのだと思います。歴史を読むということは、そういう時間の長さで自分の仕事を眺め直すことでもあります。
次回(3)は、焦土からの復興。米国製重機がもたらした機械化革命、殉職171名の黒四ダム、東京タワー、そして1964年東京オリンピックと霞が関ビル——日本建設業がもっとも熱かった時代です。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。数値・記録には資料により幅があります。