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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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米国製重機がもたらした佐久間ダムの機械化革命、殉職171名の黒四、東京タワー、1964年東京五輪、霞が関ビル、そして田中角栄の列島改造。日本建設業がもっとも熱かった半世紀を描く日本編第3回です。
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日本建設業1400年史の第3回です。焼け野原から始まった戦後の建設業は、ダムで機械化を学び、オリンピックで世界に追いつき、列島改造で「建設国家」の絶頂へ駆け上がります。この産業がもっとも熱く、もっとも危うかった半世紀の話です。前回まで、宮大工の千年、文明開化での「大工から請負業者へ」の転身、そして帝国の拡張と戦争に巻き込まれていく日本建設業を見てきました。今回は、その延長線上で焼け跡に立った産業が、どうやって世界水準まで自分を引き上げたのか——その助走と加速の物語です。

敗戦直後の建設業を食わせたのは、皮肉にも占領軍でした。前回見たように、戦時中の建設業は軍施設・軍需工場・地下壕の建設に動員され、そして各都市が空襲で焼け野原になったところで終戦を迎えます。仕事はある——壊れた国土のすべてが仕事です——けれども、その仕事を発注する国家も、資金も、資材も、すべてが失われていました。そこに現れたのが進駐軍でした。進駐軍向けの兵舎・住宅・施設の工事(いわゆる進駐軍工事)が戦後最初の大型需要となり、各社はこれで息をつなぎます。占領軍の工事は、支払いが確実で、しかも米国流の施工管理や仕様が持ち込まれる現場でもありました。図面通りに、工程通りに、品質基準通りに——後に日本の建設業が世界水準へ駆け上がるとき、その下地の一部は、この占領期に否応なく叩き込まれた「アメリカ式の段取り」だったとも言えます。敗戦国が勝者の流儀を現場で学ぶという、複雑な構図です。腕はある、けれど近代的な工程管理や品質管理の作法はまだ体系化されていない——そんな日本の職人集団にとって、進駐軍工事は、屈辱と実利が同居する学びの場でした。皮肉なことに、この時に身につけた段取りの感覚が、やがて佐久間ダムの機械化施工や新幹線の工程管理へとつながっていきます。
制度面では、産業そのものが法的に組み直されます。1948年に建設省が発足し、翌1949年に建設業法が制定されて、登録制(後に許可制)の下で「建設業」という産業が法的に定義されました。それまで「組」や「店」として親方の人格で成り立っていた請負の世界に、国が免許を出し、国が監督するという枠がはめられたのです。この建設業法こそ、現在まで続く「建設業許可」の出発点であり、後の連載で触れる約47万社という許可業者数の、いちばん最初の一社が登録された瞬間でもあります。1950年に朝鮮戦争が始まると、いわゆる朝鮮戦争特需が重なり、資材需要と工事需要が一気に回復して、産業は本格的に再起動します。前回まで、明治国家が「発注者としての国家」を強力に組織し、民間業者をその下の「組」として位置づけてきた経緯を見てきましたが、戦後の建設省・建設業法は、その官主導の枠組みを、より制度化された形で再建したものだと言えます。国が計画し、国が発注し、業者が施工を請け負う——この基本構造は、名前や仕組みを変えながら、戦前から戦後へと連続していたのです。町場の中小建設会社にとっても、この時期は示唆に富みます。制度が整い、発注者が信用でき、支払いが読める——その三つが揃ってはじめて、職人集団は「会社」として設備投資や人の採用に踏み切れる。逆に言えば、いくら腕があっても、発注と支払いが不安定なうちは、事業は組のまま大きくなりきれないのです。今も昔も、経営を安定させる土台は、派手な受注そのものより、確実に回収できる仕事の積み重ねにあります。
そして1950年代、日本は「土木の昭和」とでも呼ぶべき時代に入ります。主役は電源開発、すなわちダムでした。戦後復興は、まず電気からです。工場を回すにも、家庭に灯りをともすにも、圧倒的に足りない電力をどう作るか——その答えが、山を堰き止めて水を落とす水力発電、つまりダムでした。国は1952年に電源開発株式会社という国策会社を設立し、全国の河川に次々とダムを立ち上げていきます。この時代を象徴するダムが二つあります。
一つは天竜川の佐久間ダム(1953〜56年)です。天竜川は「暴れ天竜」の異名を持つ急流で、そこに高さ150m級の巨大な壁を築くのは、従来の日本のやり方——モッコを担ぎ、人力で土砂を運び、大人数を投入する土工——では10年がかりの難工事でした。ここで決断を下したのが、電源開発会社の初代総裁・高碕達之助です。高碕は満州で重工業経営を率いた経験を持つ実業家で、日本の在来工法に見切りをつけ、米国から大型重機——ブルドーザー、巨大ダンプ、ショベル——を大量に輸入することを選びます。間組・熊谷組らがそれを駆使して、従来なら10年級の工事をわずか3年で完成させました。モッコと人力の土工が、機械化施工に切り替わった瞬間です。前回まで、間組は世界最大級と言われた鴨緑江の水豊ダムを、熊谷組は「トンネルの熊谷」として難工事を積み重ねてきた会社として登場しましたが、その両社が、今度は舶来の鉄の力で在来工法を捨てにかかったわけです。米国がフーバーダムで確立した重機土木が、20年遅れで日本に本格上陸したのだと言えます。重機の輸入は、ただ機械を買うだけでは済みません。修理や部品供給の体制、機械を扱えるオペレーターの育成、燃料の調達、そして機械の力を前提にした工程の組み直し——一台のブルドーザーの背後には、それを回すための人と仕組みの総入れ替えがありました。日本の土木は、佐久間で初めて「機械を使う産業」への脱皮を経験したのです。
この「20年遅れの上陸」は、単に機械が入ってきたという話ではありません。ブルドーザー一台は、何十人分もの土工の仕事を、疲れも文句も言わずにこなします。つまり、道具の世代が変わると、その現場で必要とされる人の数と種類が根こそぎ変わる。人力を束ねる親方の腕よりも、重機を段取りよく回す計画の腕がものを言う時代が始まったのです。町場の経営に引きつければ、これは決して遠い昔話ではありません。新しい道具が現れたとき、それを一番早く使いこなした会社が、次の10年の仕事を持っていく——佐久間ダムは、その原理を日本の土木史にはっきり刻んだ最初の現場でした。

もう一つが、黒部川第四発電所——黒四ダムです(1956〜63年)。関西電力が社運を賭け、当時の資本金の5倍にあたる513億円を投じたこの工事では、間組・熊谷組・鹿島建設・大成建設・佐藤工業の5社が工区を分担しました。当時の関西は深刻な電力不足に苦しんでおり、北アルプスの奥深く、人を寄せつけない秘境に大規模水力を建てるという計画は、まさに背水の陣でした。資本金の5倍を一つの工事につぎ込むというのは、失敗すれば会社が消し飛ぶ賭けです。そして黒四は、その名にふさわしい死闘になりました。
最大の難所が、資材搬入路として北アルプスを貫いた関電トンネルです。ここで工事隊は、大量の地下水を含む軟弱な「破砕帯」に阻まれます。破砕帯とは、地殻変動で岩盤が砕けてぐずぐずになり、そこに冷たい地下水がたっぷり染み込んだ地層のこと。掘れば掘るほど土砂と水が噴き出して、切羽(掘削の最前線)がずるずると崩れてくる。この破砕帯はわずか80mでしたが、その80mを掘り抜くのに7か月を要しました。前後の順調な区間なら数日で進む距離に、7か月です。掘っても掘っても崩れ、湧き出す冷水は身を切るように冷たく、作業員は凍えながら泥と格闘し続けました。工事全体の殉職者は171名にのぼります。標高の高い山中で、物資も人も、ときには索道や徒歩に頼って運び上げるほかない過酷な条件が、犠牲をさらに大きくしました。この死闘は石原裕次郎・三船敏郎の映画「黒部の太陽」(1968年)で国民的物語となり、日本人の「土木」のイメージを決定づけました。破砕帯に挑む男たち、氷のような地下水、そして次々と失われていく命——スクリーンに映し出されたその姿は、戦後日本が「国土を作り替える」という事業に、どれほどの人間を賭けていたかを国民に見せつけたのです。危険と犠牲と、それでも国土を変えるという誇り——黒四は日本建設業の魂の置き場所のような存在です。ちなみに黒四を戦った佐藤工業という名前は、覚えておいてください。この名門が、それから約40年後にどんな結末を迎えるかは、次回の主題になります。
建築の側では、戦災復興から高さへの挑戦が始まります。土木がダムで機械化を学んでいたのと並行して、建築は「どこまで高く積めるか」という別の戦線を開いていました。1958年、構造学者・内藤多仲(名古屋テレビ塔や通天閣も手がけ「塔博士」と呼ばれました)の設計、竹中工務店の施工で、高さ333mの東京タワーが完成します(出典:竹中工務店)。内藤多仲は、前回登場した関東大震災後の耐震構造研究を担った一人でもあり、地震に耐える骨組みの理論を、そのまま「高く積む」技術へと転用した人物です。パリのエッフェル塔(高さ約324m)を超える世界一の自立式鉄塔を、戦後わずか13年の日本が建てたことは、復興の到達点として国民を熱狂させました。焼け跡から13年で世界一の塔——この一点だけで、当時の日本人がどれほど「もう一度立ち上がった」という手応えを欲していたかがわかります。施工した竹中工務店は、序章で触れたとおり1610年、関ヶ原からわずか10年後に名古屋で創業した棟梁の家系であり、その400年企業が戦後日本の象徴を建てたという時間の重なりも、日本建設業ならではの妙味です。
住宅では、まったく別の革命が静かに進んでいました。焼け跡の日本は、圧倒的な住宅不足の国でした。空襲で焼けた家、外地から引き揚げてきた人々、そしてこれから始まるベビーブーム——とにかく家が足りない。そこで国は、1950年に住宅金融公庫、1955年に日本住宅公団を設立し、住宅を大量に、安く、速く供給する仕組みを作ります。公団が各地に建てた鉄筋コンクリートの集合住宅群から、「団地」という日本版郊外が生まれました。ダイニングキッチン、水洗トイレ、ステンレスの流し台——団地は、庶民にとっての「近代的な暮らし」の見本市であり、憧れの的でした。前回まで、日本の住宅を担ってきたのは江戸以来の町大工たちでした。火事のたびに町を建て直し、一棟ずつ手で家を起こす職人の世界です。ところが戦後の圧倒的な住宅不足は、その手仕事のペースでは到底追いつかない規模の需要を突きつけました。ここに、住宅を「一棟ずつの作品」から「大量供給すべき社会資本」へと捉え直す発想の転換が生まれます。
そして同じ1955年、奈良で石橋信夫が大和ハウス工業を創業し、1959年に「ミゼットハウス」——3時間で建つプレハブの勉強部屋——を発売しました。子ども部屋が足りない、書斎が欲しい、そういう庶民の切実な需要に、「工場で作った部品を運んできて、庭先で3時間で組み立てる」という発想で応えたのです。これは日本の住宅史における静かな分水嶺でした。住宅を、大工が現場で一棟ずつ手で建てるものではなく、工場でつくる製品として量産する——「工業化住宅」という、日本独特の産業がここに誕生します。1960年には積水化学工業のハウス事業が独立して積水ハウスが生まれ、パナソニック(松下幸之助)やミサワホームが続きました。家電や自動車を生んだ日本の製造業の思想が、そのまま住宅にも流れ込んだわけです。
ここに、この連載を貫く一つの対照が現れます。米国のホームビルダーが本質的に「土地のディベロッパー」——土地を仕入れ、区画し、家をつけて売る不動産商——であるのに対し、日本のハウスメーカーは「住宅の製造業」として育った。これは日米住宅産業の最も重要な違いで、結末も対照的なものになります。工業化住宅というモデルは、品質のばらつきを抑え、工期を縮め、部品を標準化することで、まさに製造業の強みをそのまま住宅に持ち込みました。その帰結として——最終回で見るように——現在、大和ハウスの売上はスーパーゼネコンを上回る5兆円超に達しています。土木がダムで、建築が塔で世間の耳目を集めていたその裏で、住宅という分野に「製造業の遺伝子」が仕込まれていたこと。これは、地味だけれど日本建設業の将来を決めた重要な伏線でした。中小の工務店にとっても、この対比は考えどころです。一棟ずつ丁寧に手で建てる価値と、標準化して速く安く供給する価値は、どちらが正しいという話ではなく、自社がどちらの土俵で戦うのかという選択そのものなのです。
そして1964年、東京オリンピック。これは日本建設業にとっての総力戦でした。前回まで、日本の建設業が博覧会という国家イベントで飛躍してきたこと——大林組が1903年の内国勧業博覧会で全国区になったこと——を見ましたが、オリンピックはそのパターンの、桁違いに大きな再来でした。世界中の目が東京に注がれる一度きりの機会に、間に合わせなければならない。しかも、間に合わせるだけでなく、世界に恥じない水準で。この二重のプレッシャーが、日本の建設技術を一気に押し上げます。
まず、東海道新幹線。世界銀行の融資を受けたこの計画は、1959年の着工からわずか5年余りで東京〜新大阪515kmを開業させました。技師長は、戦時中の弾丸列車構想の系譜を引く島秀雄です。時速200km超で走る鉄道など「世界の三大馬鹿」とまで揶揄されながら、日本は世界に先駆けて高速鉄道を実用化してみせた。トンネル、橋梁、路盤、そして高架——新幹線は、これまで日本の土木が積み上げてきた技術のすべてを、時速200kmという一本の基準で束ね直す総合試験でもありました。丹那トンネルで16年を費やし、黒四で破砕帯と死闘を演じたその経験の蓄積が、ここで一気に開花したのです。首都高速道路は、用地買収に時間がかかりすぎて五輪に間に合わないため、川や既存の道路の上空を縫うように高架を架けるという離れ業を選びます。日本橋の上に高速道路の高架が覆いかぶさる、あの独特の景観は、このときの「時間との戦い」の産物でした。そして丹下健三設計・清水建設施工の国立代々木競技場は、二本の巨大な柱からケーブルで屋根を吊る吊り屋根構造で、世界の建築界を驚かせました。柱で支えるのではなく、吊るして支える——重力に逆らうようなあの曲線美は、日本の構造設計と施工がすでに世界の最前線に並んだことの証でした。丹下健三という建築家の造形力と、それを現実の鉄とコンクリートに落とし込む清水建設の施工力が噛み合ったこの建物は、日本の「設計と施工の一体」という伝統が、近代建築の最高峰でどう花開くかを示した作品でもあります。ホテルニューオータニは、五輪の宿泊需要に間に合わせるため、超短工期で17階建てを建て上げます。海外からの賓客をどこに泊めるかという現実的な必要が、日本のホテル建築を一段近代化させたのです。
戦後19年の国家イベントに合わせて、新幹線・高速道路・超高層の原型・近代ホテルが一斉に出現した——1964年は、日本の建設技術が世界水準に追いついたことを宣言した年でした。ここで一つ立ち止まっておきたいのは、これらがすべて「締切がすべてを決めた」プロジェクトだったことです。開会式の日は動かせない。だから逆算して、あらゆる工夫と無理と割り切りが投入された。工期という制約が、かえって技術と段取りの飛躍を強制した——これは、規模こそ違えど、納期に追われる町場の現場にも通じる普遍的な話です。制約は敵であると同時に、いちばんの発明の母でもあるのです。
その総仕上げが1968年の霞が関ビルディングです。地震国日本では31m(百尺)の高さ制限が長く続き、超高層は不可能とされていました。地面が揺れる国で建物を高くすれば、上ほど大きく振られて壊れてしまう——それが常識だったからです。ところが、東大教授から鹿島建設に迎えられた武藤清が、この常識を覆します。武藤が確立したのは「地震の力を受け流す柔構造」という理論でした。硬く突っ張って揺れに耐えるのではなく、あえて建物をしなやかに変形させ、地震のエネルギーを受け流して逃がす——固い木は折れるが、柳は嵐に耐えるという、あの発想です。この柔構造という考え方は、前回見た関東大震災後の耐震研究——建物をいかに壊さないかという蓄積——を、正反対の方向へひっくり返した発想でもありました。揺れに逆らって固く踏ん張るのが従来の耐震だとすれば、柔構造は、揺れとともにしなって力を逃がす。同じ「地震に負けない」でも、思想がまるで違うのです。武藤はこれを緻密な計算と実験で裏づけ、理論を実際に積み上げられる高さへと翻訳しました。この柔構造理論に、高さ制限を撤廃して容積率で建物のボリュームを規制する制度への転換が組み合わさり、ついに高さ147m・36階の日本初の超高層ビルが実現します(出典:鹿島建設)。霞が関ビルは単なるビルではなく、「地震国でも高層化できる」というパラダイム転換であり、以後の新宿副都心、そして現在の330m級(麻布台ヒルズ)まで続く日本の超高層史の出発点になりました。地震という日本の宿命が、耐えるのではなく受け流すという発想の転換を生み、それが逆に世界最先端の技術資産になっていく——この「弱みを強みに反転させる」構図は、日本建設業の歴史に繰り返し現れるモチーフです。

高度成長期の日本は、しばしば「土建国家(construction state)」と呼ばれます。GDPに占める建設投資の比率は主要国で突出して高く、公共事業が経済政策・地域政策・そして政治そのものの中心に座った時代です。景気が悪くなれば公共事業を積み増して仕事と雇用を作り、地方が疲弊すれば道路とダムで潤す——建設が、経済の調整弁であり、地域政策の道具であり、そして票と資金を生む政治の装置でもあった。その三役をすべて一身に体現した象徴が、田中角栄でした。
田中は新潟の貧農の家に生まれ、高等教育も受けないまま上京し、土建会社(田中土建工業)の経営者として身を立ててから政界に入ります。郵政・大蔵・通産の大臣を歴任し、1972年に総理大臣に上り詰めました。「今太閤」と呼ばれた、まさに叩き上げの土建屋あがりの総理です。彼が掲げた「日本列島改造論」は、新幹線と高速道路の全国網で太平洋ベルトと地方の格差を解消するという構想で、ベストセラーとなり、地価高騰と建設ブームを巻き起こしました。裏日本と表日本、都会と田舎——その落差を、コンクリートで埋めるという壮大な夢。それは多くの地方の人々にとって、初めて自分たちにも順番が回ってくるという希望でもありました。
しかし田中が完成させたのは構想だけではありません。地元・新潟への公共事業誘導を軸とする巨大な集票マシン(越山会)、建設省への深い影響力、そして業界からの潤沢な政治資金——これらを噛み合わせた「政・官・業の鉄のトライアングル」を、制度として完成させたのが、田中とその系譜の「建設族」議員たちでした。政治家が予算を引っぱり、官僚が事業を差配し、業界が仕事を受けて資金を還流させる。この三者が指名競争入札と談合を媒介に、静かに、しかし強固に回り続ける仕組みです。米国編で見たブラウン兄弟とリンドン・ジョンソンの関係が、あくまで個別企業と政治家の一対一の癒着だったのに対し、日本のそれは指名競争入札と談合を媒介とした、業界ぐるみ・制度ぐるみのシステムだった——ここが日米の汚職の構造的な違いです。米国の癒着が「個人と企業の物語」なら、日本のそれは「業界と制度の構造」だった。この違いは、後にそれぞれの国で癒着が暴かれ、清算されるときの、その壊れ方の違いにもつながっていきます。個人の癒着なら、その個人を切れば済む。しかし業界と制度に染み込んだ癒着は、一人二人を摘発したところで消えず、産業全体の慣行そのものを解体しなければ終わらない。だからこそ日本の清算は、より長く、より深く、産業全体を巻き込む痛みを伴うことになりました。田中が完成させたこのトライアングルの清算こそが、次回の主題です。なお、公共事業と政治のこうした距離の近さは、明治以来の「官が計画し民が請け負う」構造の必然的な副産物でもありました。制度が近さを生み、近さが癒着を生む——その根は、田中一人の資質にではなく、この国の建設業のかたちそのものにあったのです。
この時代、国土には世紀の巨大プロジェクトが続々と完成していきます。まず高速道路。名神(1965年全通)・東名(1969年全通)が日本の背骨である東海道ベルトを貫き、人と物の流れを一変させました。1970年には大阪万博。お祭り広場を覆う巨大な大屋根、各社が技術の粋を競ったパビリオンの競演は、まさに建設国家の祝祭であり、大林組の内国勧業博以来続く「博覧会が建設業を押し上げる」パターンの、戦後最大の再現でした。
そして、この時代の技術の頂点が「海を渡る」三大事業です。1988年に相次いで完成した青函トンネルは、全長53.85km、当時世界最長の海底トンネルでした。本州と北海道を、津軽海峡の海底で結ぶ——1964年の調査斜坑の掘削開始から数えて実に24年、途中1976年には大量の海水が坑内に噴き出す異常出水に見舞われ、坑道が水没する危機を乗り越えながら、34名の殉職者を出して貫通しました。黒四の破砕帯が地下水との戦いだったとすれば、青函は海そのものを頭上に頂きながら掘り進むという、桁の違う恐怖でした。同じ1988年、瀬戸内海を跨いで本州と四国を結ぶ瀬戸大橋も完成します。さらに1998年には明石海峡大橋——中央支間1,991m、四半世紀にわたり世界最長の吊橋であり続けた——が開通し、日本の橋梁技術が世界の頂点に立ったことを示しました。地震があり、台風が来て、海流の速い日本の海峡に、これだけの長さの橋を架けるのは、静穏な条件の国よりもはるかに難しい。その難条件が、かえって世界最高の耐風・耐震設計を鍛えたという点で、明石海峡大橋もまた「弱みを強みに反転させた」日本建設業の系譜に連なる作品でした。
もう一つ、この時代に忘れてはならない「海の建設業」があります。関西国際空港(1994年開港)では、水深18mの海に人工島を造成するという世界初の挑戦が行われ、五洋建設をはじめとする「マリコン」(海洋土木専門会社)が腕を振るいました。陸から遠く離れた深い海の上に、空港が丸ごと乗る島を人の手で作る——これは陸の土木とはまったく別種の技術です。五洋建設は1896年に呉の軍港工事から始まった会社で、戦後はスエズ運河の拡幅工事を成し遂げ、シンガポールでは国土面積を広げる埋立を半世紀にわたり担い続けている、知る人ぞ知る日本建設業の海外の星です。ゼネコンの海外進出が概して苦戦する中で、この海洋土木という一芸に特化した会社が、静かに世界で存在感を築いてきた——これは、規模で勝負しない専門特化という生き残り方の、一つの見本でもあります。町場の会社にとっても、総合力で大手と張り合うのではなく、「これだけは負けない」という一芸を磨いて狭い市場の第一人者になる道は、決して非現実的な選択ではありません。五洋建設が呉の軍港工事から始まって海の土木一筋で世界に出ていったように、狭くても深い専門性は、規模の大小を超えて長く生き残る力になります。
一方で、巨大事業は社会との衝突も生みました。成田空港(三里塚闘争)は、強制収用をめぐる激しい反対運動で開港が大幅に遅れ、公共事業と住民合意という、その後の日本が抱え続ける問いを突きつけます。国家が「公共のため」と決めた事業でも、そこに暮らす人々の同意なしには進まない——高度成長の勢いのままに突き進んだ建設国家は、ここで初めて、自らの正統性を問われることになりました。前回、江戸時代の宝暦治水で薩摩藩士が命を落とし、国家が命じ地方が血を流すという公共事業の緊張を見ましたが、成田はその現代版でもありました。強制収用という国家の力と、土地に根を張って生きる人々の抵抗——公共の名のもとにどこまで個を犠牲にできるのかという問いは、近代のはるか以前からこの国に伏在し、高度成長の絶頂で再び噴き出したのです。この問いは、その後の日本のあらゆる大型事業に、静かに重くのしかかり続けることになります。また1973年の第一次石油危機で列島改造ブームは急停止します。原油価格の暴騰は「狂乱物価」と呼ばれる激しいインフレを引き起こし、あれほど熱かった建設ブームを一気に冷やしました。その転換点で、住宅着工は1973年の約190万戸という空前絶後のピークを記録した後、長い波を描きながら減少に向かいます(2023年度は約80万戸。半世紀で6割減です)。この190万戸という数字は、日本の住宅市場が二度と戻れない山の頂でした。作り続ければ需要がついてくる時代が終わり、これから先は縮む市場の中でどう生きるかという、まったく別の問いが始まったのです。もっとも、この転換の意味を当時はっきり悟った者は多くありません。石油危機は一時的な嵐で、嵐が過ぎればまた成長が戻ると、多くの人が信じていました。市場の頂は、たいてい後になってから、それが頂だったと分かるものです。縮小の始まりを認めるのは苦しく、だからこそ産業も企業も、しばしば見込み違いのまま設備と人を抱え込み過ぎる。半世紀で6割減という数字の重さは、この最初の踊り場をどう読むかにかかっていたのだと、今から振り返れば見えてきます。
需要の踊り場で、ゼネコン各社は二つの方向に動きます。一つは海外、もう一つは技術です。国内の需要がいつまでも右肩上がりではないと悟った各社は、国境の外と、技術の内側という、二つのフロンティアへ活路を求めました。
海外では1970年代に中東ブーム(米国E&Cと同じ油田・プラント市場)に挑みました。オイルマネーで沸く産油国のインフラ建設は、巨大な市場に見えたのです。しかしイラン革命(1979年)などの政変で、進行中の大型案件が凍結・中断に追い込まれ、日本ゼネコンは手痛い授業料を払いました。契約や政治リスクの読みが甘く、慣れない土地でリスクを丸抱えしてしまった。この苦い経験もあって、日本ゼネコンの海外比率はその後も米欧大手に比べて低いままにとどまります。代わりにプラント輸出の主役となったのが、日揮、千代田化工建設、東洋エンジニアリングの「エンジニアリング御三家」です。石油精製や化学プラント、そして液化天然ガス(LNG)の巨大設備を、設計から調達・建設まで一括で請け負う会社群で、特に千代田化工はカタールなど世界のLNGプラント建設で圧倒的な実績を築き、「日本のベクテル」と呼びうる存在になりました。ただし、この会社が後に、アメリカ編に登場したのと同じ毒——固定価格EPC、すなわち「いくらかかっても契約額は変えない」という契約形態のリスク——で死線をさまようことになるのは、最終回で見ます。海外は、日本建設業にとって夢であると同時に、繰り返し手を焼かされた鬼門でもあったのです。
技術では、この時代に日本のゼネコンの最大の特異性が完成します。各社が本格的な技術研究所を抱え、ゼネコン自身が研究開発主体になったのです。これは世界的に見て、極めて異例のことでした。米国のゼネコンが「リスクを仲介する商人」であり、研究開発はほとんどしない——技術は専門メーカーや大学に任せ、自分は調整役に徹する——のに対し、日本のスーパーゼネコンは、自前で研究者を雇い、実験棟を建て、基礎研究にまで踏み込んでいきました。鹿島が1949年に設けた研究所を嚆矢として、大林、清水、大成、竹中の各社が大規模な技術研究所を整備し、耐震・免震、シールドトンネル、大空間構造、原子力施設(原子炉建屋の施工で鹿島は最大手です)といった分野で世界水準の研究を蓄積しました。売上数千億円の建設会社が、自前の耐震実験棟や風洞実験施設を持ち、博士号を持つ研究者を大勢抱えている——こんな業態は、世界でもほぼ日本にしかない「研究所を持つ建設会社」です。1988年に竹中工務店が完成させた東京ドーム(空気膜構造)は、その技術志向の象徴でした。屋根を支える柱を一本も立てず、内部の空気圧でドーム状の膜を膨らませて支えるという、それまでの常識の外側にある構造。あの「ビッグエッグ」は、技術を内製する文化がなければ生まれなかった建物です。なぜ日本のゼネコンだけが、こんな重い研究開発費を抱え込む道を選んだのか。理由の一端は、序章以来たどってきた「設計施工一貫」の伝統にあります。設計と施工を一人の棟梁の頭の中で一体化させてきたこの国では、施工会社が技術そのものに責任を負うのが当たり前で、だからこそ自前で研究する必然があった。米国のように設計者と施工者が制度的に分かれた国では、施工会社が基礎研究まで抱える動機は乏しい。歴史の分かれ道が、そのまま業態の違いになって現れているのです。ただし——ここが肝心なのですが——技術の高さと経営の健全さは、まったく別の話でした。世界一の技術を持つ会社が、経営判断ひとつで奈落に落ちる。それがまさに、この直後に来ます。
そして1980年代後半、バブルが来ます。1985年のプラザ合意による急激な円高と、その後の金融緩和が、大量のマネーを土地と株式に流し込みました。地価は天井知らずに高騰し、「土地は決して値下がりしない」という土地神話が国じゅうを覆います。民間活力の導入、いわゆる民活ブームの中で、アークヒルズや東京臨海副都心といった大規模再開発が次々と立ち上がり、建設受注は爆発的に膨らみました。
問題は、ここでゼネコンが「本業を超えた」ことです。あまりに土地と開発が儲かるので、建設会社が施工を請け負うだけでは飽き足らず、自ら不動産開発の事業主体になり、リゾート開発の保証人にまでなっていったのです。建てるだけでなく、土地を仕入れ、リゾートに投資し、他人の借金の保証まで引き受ける——本来なら不動産会社や金融がやるべきリスクを、施工会社が丸ごと背負い込んだ。熊谷組はハワイやオーストラリアの不動産に巨額を投じ、香港・台湾でディベロッパーまがいの事業を広げます。「トンネルの熊谷」と呼ばれた技術の名門が、いつのまにか海外不動産の投機家になっていた。青木建設は米国の名門ホテルチェーン・ウェスティンを買収します。施工会社が、地球の裏側のホテルチェーンのオーナーになる——それがどれほど本業から離れた賭けだったかは、少し立ち止まれば分かるはずでした。けれども、値上がりし続ける資産と、膨らみ続ける含み益が、その距離感を麻痺させたのです。建設投資は1992年度に約84兆円という史上最大に達しました。これは当時の日本のGDPの実に18%前後に相当します。国全体の富の五分の一近くが、建設に回っていたということです。誰もが、この宴が続くと思っていました。土地は上がり続け、仕事は増え続け、借金は資産の値上がりが返してくれる——そう信じて、産業全体が自分の身の丈を忘れていったのです。本業で稼ぐ力と、資産の値上がりで膨らんだ見かけの利益を、取り違えてはいけない——バブルが遺したこの教訓は、規模の大小を問わず、あらゆる会社経営の芯にある戒めです。この宴がどう終わったかは、次回、じっくりお話しします。

①機械化は一夜で常識を変える。佐久間ダムの米国製重機は、10年仕事を3年に縮めました。道具の世代交代は、その現場で必要な人の数も種類も一変させます。新しい道具を最初に使いこなした会社が次の10年の仕事を持っていく——そして乗り遅れた会社から静かに消えていきます。②「研究所を持つゼネコン」は日本の発明。技術を内製する文化は世界的に特異な強みであり、東京タワーや東京ドーム、超高層を可能にした源泉です。ただし技術の高さと経営の健全さは別物——それはバブルで証明されてしまいます。③公共事業は政治と一体化すると、産業の正統性そのものがリスクになる。田中角栄が完成させた政・官・業のトライアングルは、地方に希望を運んだ装置であると同時に、業界ぐるみ・制度ぐるみの癒着でもありました。その清算が、次回の主題です。
次回(4)は、崩壊。ゼネコン汚職、名門の連鎖破綻、談合決別、市場半減——そして東日本大震災の「くしの歯作戦」で、社会が建設業の価値を思い出すまでです。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。数値・記録には資料により幅があります。