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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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竹の足場が這う香港の垂直都市、退役軍人が建てた台湾の高速道路、そして台北101の日台JV。最終回は「もう一つの中国圏」の建設史と、2200年を貫く5つのパターン、紀元前からの並列年表です。
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中国建設業2200年史、最終回です。大陸の物語と並行して、中国圏にはもう二つの建設史が流れています。香港と台湾——いずれも大陸とはまったく異なる制度の下で育ち、そして大陸と深く交差してきました。同じ言語を話し、同じ漢字で図面を描き、時に同じ建物を一緒に建てながら、まったく違う仕組みの上で建設業を組み立てた三つの社会。私はこの三つ巴を、制度が産業の形をどこまで決めるのかを見るための、またとない比較材料だと考えています。土地を政府が握る香港、軍隊が担い手になった台湾、国家そのものが最大のゼネコンであり続けた大陸——出発点の仕組みが違うだけで、同じ漢字文化圏の建設業が、これほど別々の顔つきになった。そのことを頭の隅に置きながら読み進めていただくと、最後の五つのパターンがより立体的に見えてくるはずです。最後にこの二つの「もう一つの中国」を見てから、2200年を貫く5つのパターンと、紀元前からの並列年表で連載を締めくくります。

香港は、「デベロッパーが建設を飲み込んだ都市」です。ここで言うデベロッパーとは、土地を仕入れ、企画し、建て、売り、そして管理までを一社で抱え込む不動産開発業者のことで、香港ではこの業態が施工業をほとんど内側に取り込んでしまいました。英領時代の1919年には英系の金門建築(ガモン)が生まれ、道路や港湾、庁舎といった植民地インフラを担いましたが、戦後の香港建設史の本当の主役は、施工会社ではなくデベロッパーの側でした。李嘉誠の長江実業や新鴻基地産といった華人デベロッパーが、その中心にいます。彼らが握っていたのは、香港特有の「土地はすべて政府が所有し、期限付きの使用権(リース)だけを競売にかける」という制度でした。土地の供給を政府が絞り、限られた区画に世界一とも言われる高値がつく——その地価が、天を突くような超高密度・超高層の垂直都市を必然にしたのです。
デベロッパーたちは、その垂直都市を自前の施工部隊で量産しました。たとえば新世界系の協興建築のように、開発会社が建設会社を系列に抱え、企画から施工までを垂直統合していきます。日本や大陸のように独立した総合建設会社(ゼネコン)が受注競争でしのぎを削る構図とは違い、香港では「土地を持つ者」がそのまま「建てる者」を従える形で産業が育った——ここに制度の刻印がはっきり出ています。象徴的なのは、その超高層の外壁工事に、今なお竹の足場が組まれてきたことです。数十階建てのガラスのタワーに、しなやかな竹が縦横に這い上がる光景は、世界で香港にしか残っていない、伝統と近代の異様なまでの共存でした。竹は軽く、しなり、熟練の職人が縄一本で驚くほど速く組み上げていく——高密度で工期の短い香港の現場に、この古い技術は合理的に生き残ったのです。ただし安全性の観点から、近年は金属足場への転換が政策的に進められつつあり、この風景もまた歴史になろうとしています。町場の目線で言えば、古い工法が「遅れているから」ではなく「その現場に合っていたから」残ってきたという事実は、私たちが自社のやり方を見直すときにも忘れたくない視点です。
この「土地を持つ者が建てる者を従える」構図は、香港の街並みそのものにも刻まれています。駅の真上に住宅とショッピングモールが積み重なり、歩道橋で塔から塔へと渡り歩けるあの立体都市は、鉄道と沿線開発を一体で手がける事業モデルの産物でした。土地の使用権を握る側が、交通も、商業も、住まいも、まとめて設計してしまう。建設は、その大きな不動産事業のなかの一工程として位置づけられます。独立した施工会社が技術と信用で仕事を勝ち取っていく日本の町場とは、産業の重心の置き場所がまるで違うのです。どちらが良いという話ではなく、土地という資源の握り方一つで、建設業の立ち位置がここまで変わるという事実そのものが、私には示唆的に映ります。
そして返還前夜の1990年代、香港は都市そのものを一段と作り替える巨大事業に踏み切ります。「新機場核心計画」——チェク・ラップ・コク新空港を核に、本土と空港をつなぐ青馬大橋、鉄道、大規模な埋立を含む10大プロジェクト、総額200億米ドル超という、当時世界最大級の土木事業群です。海を埋め、島を平らにし、橋を架け、鉄道を通す一連の工事に、日本・欧州・中国本土のゼネコンが一つの都市で同時に競演しました。英国統治の最後の数年に、その英国が仕切る舞台で、返還後の宗主国となる大陸の企業も腕を振るう——政治の潮目と建設の現場が重なった、20世紀末の建設万博のような光景でした。制度の違う者同士が一つの現場で肩を並べるとき、そこには例外なく技術と作法のせめぎ合いが生まれます。それは、規模こそ違えど、異なる会社が一つのJV(共同企業体)を組むときに私たちの業界でも日々起きていることの、拡大版でもありました。
台湾の物語の中心には、軍隊がいます。第二次大戦後、国共内戦に敗れて大陸から渡ってきた膨大な数の兵士たちを、島の社会にどう根づかせるか——これは戦後台湾の重い課題でした。1956年、蒋経国の主導で、その退役軍人(栄民)に職を与えるための建設組織「栄民工程処(RSEA)」が設立されます。武器を持っていた手に、今度はツルハシとダイナマイトを持たせ、国土をひらく仕事に振り向ける。彼らの最初の大事業が、中央山脈を東西に貫く中部横貫公路でした。三千メートル級の山々が連なる険しい脊梁を、機械の力も限られたなかで断崖を削りながら通したこの工事で、200人以上の栄民が命を落としています。道そのものが、彼らの墓標を兼ねているとも言えるでしょう。
ここに、内戦で分かれた双方の、歴史の対称があります。大陸では、人民解放軍の鉄道兵がやがて除隊・転業して国有建設企業・中国鉄建の母体になりました。台湾では、国民党軍の退役兵が建設部隊になった。海峡を挟んで敵味方に分かれた両者が、期せずして同じ発想——軍隊という規律ある大集団を、そのまま建設会社へ転用する——にたどり着いたのです。軍と土木は、動員・規律・工期という点で、もともと相性がよい。この符合は、中国語圏における「国家が建設の主体である」という性格の根深さを、別の角度から照らし出します。
1970年代、台湾は国連の代表権を失い、主要国と次々に断交する国際的孤立のただ中にありました。その苦境のなかで蒋経国が断行したのが「十大建設」です。南北を貫く中山高速公路、桃園国際空港、大製鉄所・大造船所など、経済の背骨となる社会資本を一気に整える国家プロジェクトで、これが台湾経済の離陸台となりました。そしてその施工の主力もまた、栄民工程処だったのです。孤立を、内へこもる理由ではなく、自力でインフラを固める好機に変えた——この転換は、外部環境が厳しいときこそ足元の基盤を作り込むという、経営にも通じる姿勢だと私は受け取っています。
十大建設が興味深いのは、その多くが「産業のための産業」を建てるものだったことです。高速道路や空港は人と物を動かす動脈であり、大製鉄所や大造船所は、その上を走る車や船をつくるための土台になります。つまり台湾は、目に見える成長のためのビルではなく、成長を支える骨格そのものに国家資源を注いだ。孤立の時代に見栄えよりも足腰を選んだこの判断は、結果として次の数十年の産業化を支えました。派手な一棟よりも、地味でも会社の土台を固める投資が効いてくる——規模はまったく違っても、私たち中小の経営が長く続くための勘どころと、どこか響き合う話だと感じます。
やがて台湾の建設は、国産の軍由来部隊と外資技術のハイブリッドへと成熟していきます。2004年、台北101が世界一の超高層ビルとして完成したとき、その施工を担ったJVの中核は、日本の熊谷組と、この栄民工程の系譜(RSEA)の組み合わせでした。地震と台風の常襲地に世界一の塔を建てるという難題に、日本の超高層技術と台湾の施工力が組んで挑んだわけです。さらに台湾高速鉄道(2007年開業)は、民間が建設・運営し一定期間後に公共へ引き渡すBOT方式としては当時世界最大級の民間インフラ事業であり、車両とシステムに日本の新幹線(700T型)を、土木構造物には欧州基準と日台のゼネコンを組み合わせた、日欧亜の建設技術のハイブリッドとして実現しました。異なる規格・異なる作法を一本の路線の上で束ねるその調整の難しさは、想像に余りあります。
香港のデベロッパー文明、台湾の軍隊由来の建設部隊と外資ハイブリッド、そして大陸の国有巨人——同じ中国語圏に、三つのまったく異なる建設業モデルが並び立ったこと自体が、制度が産業の形を決めることの、これ以上ない実証実験になっています。人も言葉も文化も近い三つの社会が、土地の持ち方、動員の仕方、資本の出どころがちがっただけで、これほど違う建設業を育てた。私たち町場の会社が「うちの地域はこういう会社が多い」と感じるとき、その背景にもたいてい、その土地の制度や歴史がある。産業の形は、意志だけでなく、置かれた仕組みが決めていく——この補章は、そのことを静かに教えてくれます。

第一に、主語が国家であること。米国の建設業は商人(フラー、ベクテル)が、日本のそれは棟梁(金剛組、竹中)が主語でした。誰が産業の物語の主人公なのか——これは国ごとに驚くほど違います。中国では、その答えが二千年間ほとんど変わりません。秦の徭役、すなわち民を無償で徴発して働かせる労役から始まり、社会主義期には人々を丸ごと抱え込む「単位(ダンウェイ)」へ、その単位を束ねる省庁直属の施工組織「工程局」へ、軍そのものである鉄道兵へ、そして今日の巨大国有企業へと、名前と形を変えながら、建設の主語はつねに国家でした。世界最大の建設会社CSCEC(中国建築)は民間企業ではなく、もとをたどれば省庁の施工部隊の直系子孫です。それは「集中力量弁大事(力を集中して大事を成す)」という、この国の統治思想そのものを実行する装置でもあります。この一貫性の根は深く、たとえば宋代の1103年に李誡がまとめた『営造法式』は、建築の部材の寸法や比例、そして原価の積算までを国家が法令として定めた、世界でも最古級の建築標準でした。何をどう建て、いくらで積むかを、民ではなく官が規格化する。明の永楽帝が北京に築いた紫禁城が、全国から工匠や人夫を集めて国家総力で立ち上げられたのも、同じ思想の延長線上にあります。徴発の労役から国家標準の積算基準まで、建設をめぐるあらゆる仕組みが「官のため、官による」ものとして組み上げられてきた——これが二千年変わらなかった、という事実の重みは大きいと思います。だからこの国では、建設は産業である前に、統治の言語なのです。翻って日本の町場では、主語はいつも「その会社」「その棟梁」でした。国が号令をかけるのではなく、一社一社の判断と技の集積が、地域の建設を形づくってきた。この違いは優劣ではなく、私たちがどこに立って仕事をしているのかを教えてくれる座標軸だと思います。
第二に、速度が正統性であること。建国10周年に間に合わせた人民大会堂の10か月、深圳・国貿大厦の「3日に1階」、そしてコロナ初期に病院を建てた火神山の10日間。中国では、動員が生み出す速度そのものが、体制の能力の証明として政治的に消費されてきました。速く建つことが、そのまま「この体制はやれる」というメッセージになる。米国のフーバーダムが工期を2年前倒しした話も、日本の新幹線が開業に5年で漕ぎ着けた話も、それぞれ国威を語る物語ではありました。けれども、中国ほど「速度の展示」そのものが統治の中核に据えられている国は、他に思い当たりません。そして光の裏には、どうしても影がついてまわる。大躍進期に非現実的な号令のもとで各地に生まれた粗製濫造のダム、スピード最優先が招いた温州の高速鉄道事故、資金が尽きて建設が止まったまま放置される爛尾楼——これらはいずれも、速度を正統性にしてしまった体制が払い続けてきた代償の歴史です。興味深いのは、この「速さの誇示」がただの見栄ではなく、動員力という体制の実力を可視化する装置として機能してきたことです。短期間で巨大なものを立ち上げられること自体が、人と資材と意思決定を一点に集められる力の証明になる。だからこそ火神山の10日間は、世界に生中継され、能力の広告として消費されました。けれども速度は、丁寧な段取りと十分な検証を削ることで買われる場合があります。工期は確かに大切です。しかし工期のために品質と安全を後回しにした先に何が待つかを、この二千年史は繰り返し警告しています。速く建てる誇りと、安全に建てる責任は、どちらか一方では立ちゆかない——これは規模の大小を問わず、現場を預かる者すべてに向けられた教訓だと私は受け止めています。
第三に、農民工という「内なる移民」。米国の建設ブームは国境を越えてきた移民が、日本のそれは農村からの出稼ぎと外国人材が担いました。中国の場合、その担い手は、戸籍の壁の内側にいる3億人とも言われる農民工です。彼らは国内で移動しているにもかかわらず、戸籍(戸口)の上では農村に属したままで、都市の正式な住民としては扱われません。自分たちが汗して建てた高層マンションを買うことも、そのそばの学校に子どもを通わせることも、制度の壁に阻まれてきました。この壁は、社会主義期の「単位(ダンウェイ)」制度に淵源をたどれます。かつて人々は勤め先の単位に丸ごと帰属し、住宅も食堂も学校も、その単位から配給されました。都市の住民であることと、その都市に職と籍を持つことが、分かちがたく結びついていたのです。改革開放でその仕組みが緩み、農村から都市へ膨大な労働力が流れ込んでも、籍を移す壁だけは残った。だから彼らは、都市を建てながら都市の外部に留め置かれるという、独特の宙づりの立場に置かれてきました。建てる者が、そこに住めない——これは中国建設業の最も深い影です。国境を越える移民、農村からの出稼ぎ、戸籍の内なる移民。形は違えど、三国いずれも、都市の繁栄は「都市の完全な市民ではない人々」の労働の上に建っている。これは建設業の世界史に共通する、最も重い事実です。だからこそ私は、現場で働く一人ひとりの処遇こそが、その産業の成熟度をはかる本当のものさしだと考えています。
第四に、巨大建設は王朝の偉業にして命取りであること。始皇帝の長城、煬帝の大運河、そして現代の土地財政と恒大。国家能力を天下に誇示するはずの建設が、規模が過剰に達した瞬間に、体制そのものの重荷へと転化する——このパターンを、中国史は何度も繰り返してきました。北の遊牧民を防ぐはずの長城が、その徴発の負担で秦を短命に追い込み、南北を結んで国を富ませるはずの大運河が、その工事の過酷さで隋を傾けた。そして現代では、地方政府が土地の使用権を売って財政を回す「土地財政」と、それに乗って膨張したデベロッパーの負債が、経済の重荷になりました。私は米国編で「固定価格リスクが巨人(企業)を殺す」と書きましたが、中国ではリスクを背負う単位が一企業ではありません。王朝であり、地方政府であり、マクロ経済そのものなのです。規模の文明であるがゆえの、規模の宿命。町場の経営で言えば、身の丈を超えた一件の大型案件が会社を傾けることがあるのと、構図はまったく同じで、ただ桁が国家サイズなだけ——そう思うと、この教訓は決して遠い他国の話ではありません。
第五に、建設は外交であること。1970年代前半、まだ貧しかった中国が自国の技術者と資金でアフリカに敷いたタンザン鉄道は、建設外交の原型でした。それが半世紀を経て、2013年に習近平が掲げた「一帯一路」へ、さらにインドネシアのジャカルタ〜バンドン高速鉄道をめぐる日中の受注争いへとつながっていきます。中国にとって海外建設は、単なる商売ではなく、つねに国家戦略の道具でした。象徴的なのは、その出発点にある逆転劇です。かつて雲南の魯布革(ろぶかく)水力発電所の工事で、中国は入札に参加した日本の大成建設に価格でも工期でも敗れ、そこから市場経済のやり方——競争入札や工程管理——を痛みとともに学びました。その国が、40年後には世界の高速鉄道・港湾・トンネル掘削機(TBM)の市場で、かつて自分に教えた先進国と正面から競うまでになった。この逆転こそ、改革開放期の建設史の総決算です。タンザン鉄道が援助と友好の道具だったとすれば、一帯一路の下でアフリカや東南アジアに敷かれた鉄道・港湾・道路は、融資と受注をひとまとめにした、より戦略的な布石でした。相手国の返済負担をめぐる「債務の罠」という批判や、現地雇用の少なさといった摩擦も生みながら、それでも中国の建設能力は国境の外へと押し出されていきます。そして今、国内の住宅需要が飽和したこの巨大な建設能力が、次に世界のどこへ向かうのか——それは21世紀の地政学そのものを左右する問いになっています。学ぶ側から競う側へ回った物語は、規模こそ違え、後発の会社が先行者から吸収して力をつけていく私たちの現場の縮図でもあります。魯布革で味わった敗北を糧に変えたように、負けや遅れをどう学びに転じるかが、次の実力を決めていく。それは国であっても一社であっても、変わらない道理だと思います。

年 | 中国国家の歴史 | 建設業の歴史 |
|---|---|---|
前256頃 | 戦国末期、秦の台頭 | 李冰の都江堰(2200年後も現役の水利システム) |
前221–前206 | 秦の統一と崩壊 | 長城・阿房宮・始皇帝陵への大動員、負担で王朝滅亡 |
605–610 | 隋の全国統一 | 大運河開通、趙州橋(世界最古級の石造アーチ) |
1056 | 北宋と遼の対峙 | 応県木塔(現存世界最古・最高の木造塔) |
1103 | 北宋の官僚制成熟 | 李誡「営造法式」=世界最古級の国家建築標準 |
1406–20 | 明の永楽帝、北京遷都 | 紫禁城造営(工匠10万・人夫100万と伝わる) |
清代 | 康熙〜乾隆の盛世 | 「様式雷」一族が7代200年宮廷建築を世襲 |
1840 | アヘン戦争、半植民地化 | 租界の洋館建設が始まる |
1880 | 洋務運動 | 楊斯盛が中国人初の近代請負業「営造廠」を創業 |
1909 | 清末、辛亥革命前夜 | 詹天佑の京張鉄道(中国人のみで建設した初の幹線) |
1934 | 南京国民政府期 | 上海国際飯店(アジア最高層を中国人業者が施工) |
1937 | 日中戦争勃発 | 茅以升、完成3か月の銭塘江大橋を自ら爆破 |
1949 | 中華人民共和国成立 | 建設業が国家化、省庁の「工程局」体制へ |
1953–57 | 第一次五カ年計画 | ソ連援助「156項目」で重工業都市を建設 |
1956 | (台湾)蒋経国の時代へ | 栄民工程処設立、中部横貫公路(殉職200人超) |
1959 | 建国10周年 | 人民大会堂など「十大建築」を突貫竣工 |
1964–70s | 中ソ対立、文化大革命 | 三線建設、成昆鉄道(犠牲2千人超とも)、紅旗渠 |
1970–75 | 第三世界外交 | タンザン鉄道を援助建設(建設外交の原型) |
1976 | 唐山大地震、毛沢東死去 | 耐震の欠如が露呈、動員時代の終わり |
1978 | 改革開放 | 建設業が市場化の実験場に |
1980–85 | 深圳経済特区 | 国貿大厦「3日に1階」=深圳速度 |
1984–87 | 対外開放の深化 | 魯布革の衝撃(日本の大成建設が落札、入札制度改革へ) |
1982–84 | 機構改革 | 中国建築(CSCEC)発足、鉄道兵が転業し中国鉄建へ |
1992 | 鄧小平の南巡講話 | 浦東開発が加速、農民工の大移動時代へ |
1994 | 社会主義市場経済 | 三峡ダム着工(孫文以来75年の構想) |
1997–98 | 香港返還、アジア通貨危機 | チェク・ラップ・コク新空港など「新機場核心計画」完成、住宅制度改革=不動産業の爆発 |
2001 | WTO加盟 | 「世界の工場」化で産業・都市建設ラッシュ |
2004–07 | (台湾)民主化の成熟 | 台北101(熊谷組×栄工系JV)、台湾高速鉄道(日欧亜ハイブリッド) |
2006–08 | 和諧社会路線 | 青蔵鉄道開通、北京五輪(鳥の巣)、上海環球金融中心(森ビル) |
2008 | リーマン・ショック | 4兆元対策、高速鉄道の爆発的建設へ |
2011 | 高度成長の陰り | 温州高速鉄道事故、鉄道部汚職の摘発 |
2013 | 習近平体制 | 「一帯一路」提唱、建設が再び外交の主役に |
2015–18 | 新常態への移行 | 上海中心(632m)、港珠澳大橋、ENR上位を中国勢が独占 |
2017 | — | 雄安新区「千年の大計」始動 |
2020 | コロナ危機 | 火神山医院を10日で建設、世界が生中継視聴 |
2020–21 | 「共同富裕」路線 | 三条紅線→恒大デフォルト(負債40兆円超)、超高層500m規制 |
2022 | 人口減少開始 | 爛尾楼とローン不払い運動、「保交楼」政策 |
2023 | 一帯一路10年 | ジャカルタ〜バンドン高速鉄道開業(日中競争の帰結) |
2024–25 | 内需低迷と再編 | ヤルンツァンポ水力(三峡の3倍)着工、花江峡谷大橋が世界最高橋に |
中国編はここまでです。国家が最大のゼネコンであり続けた二千二百年を、長城から高速鉄道まで駆け抜けてきました。次は連載の最終部・ヨーロッパ編。コンクリートも、セメントも、「請負業者」という職業も、そのほとんどを発明した大陸の2000年を読みます。ローマの軍団が街道と水道橋を敷いた話から、契約と保険と資本で「運営する建設業」へと進化していく話まで——この連載全体の締めくくりです(シリーズはアメリカ編・日本編から読めます)。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。古代の動員数や伝承、犠牲者数、企業の売上規模等には資料により大きな幅があります。個別の事実を意思決定や対外資料に用いる際は一次資料での確認をおすすめします。