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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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「3日に1階」の深圳速度、日本の大成建設が中国の入札制度を変えた「魯布革の衝撃」、3億人の農民工、住宅の商品化と土地財政——中国が「世界の工事現場」になるまでの30年を描く中国編第3回です。
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中国建設業2200年史の第3回です。毛沢東時代の遺産と傷を抱えた建設業は、鄧小平の改革開放で市場化の最前線の実験場になります。「3日に1階」の深圳速度、日本の大成建設が引き金を引いた制度改革、3億人の農民工、そして世界史上最大級の不動産産業の誕生——中国が「世界の工事現場」になるまでの30年です。前回まで見てきたとおり、この国の建設は一貫して「国家による大動員」の物語でした。万里の長城も大運河も紫禁城も、中央集権国家が途方もない人的資源を動員して国土のスケールを変えるという一点で共通していた。その遺伝子が、市場経済という新しい燃料を得たときに何が起きたか。ここからの30年は、その壮大な実験の記録です。


鄧小平の改革開放(1978年〜)において、建設業は市場化の最前線の実験場になりました。ここには理由があります。工場を建てるにも、道路を通すにも、まず現場に人とコンクリートを投入して物理的に何かを立ち上げなければならない。建設は、抽象的な「市場」という概念が最初に目に見えるかたちを取る産業なのです。だから改革の成否は、まず建設現場の速度に表れました。
ここで、この時期の建設業が背負っていた「遺産と傷」を確認しておきます。1949年の建国後、中国はソ連モデルにならって建設企業をすべて国有化し、労働者は国家に雇用される「工人」となりました。工事は5カ年計画のもとで中央が配分する対象になり、第一次5カ年計画(1953〜57年)ではソ連の援助による「156項目」と呼ばれる重工業プロジェクト群——製鉄所、機械工場、発電所——が各地に築かれて、産業の基礎体力が養われます。しかし1958年からの「大躍進」は、非現実的な生産目標のもとで無謀な動員を強い、粗製濫造のダムや製鉄炉を各地に生んで、大飢饉という破局に終わりました。国家の号令一下で人海を動かすという中国型建設の負の側面が、最も悲劇的なかたちで露呈した時代です。改革開放が引き継いだのは、この「動員は得意だが、原価も採算も知らない」施工部隊でした。深圳速度は、その部隊が新しい速度を身につけていく最初の物語なのです。
その象徴が、1980年に指定された深圳経済特区です。香港と川一本を隔てただけのこの土地は、それまで人口3万ほどの辺境の漁村にすぎませんでした。それをまるごと都市に変えるという、常識では考えられない工事が始まります。「一年一小変、三年一大変」——一年で小さく変わり、三年で大きく変わる、というスローガンが掲げられ、荒れ地に測量の杭が打たれていきました。そして1985年、その工事の中で高さ160m・53階の深圳国貿大厦が「3日に1階」というスラブサイクルで立ち上がります。1フロアの型枠を組み、鉄筋を配し、コンクリートを打ち、養生して次の階へ——この一連の工程を3日で回すというのは、当時の中国の施工水準からすれば驚異的な速さでした。施工したのは中建三局(中国建築第三工程局)。計画経済のもとで訓練された国営の施工部隊が、滑動型枠などの工法を工夫しながら、市場が求める速度を自らの手で体現してみせたのです。
「3日に1階」がなぜそれほど画期的だったのかは、施工の中身を思い浮かべると分かります。高層ビルの一フロアを立ち上げるには、鉄筋を組み、型枠を建て込み、コンクリートを打設し、それが所定の強度に達するのを待ってから上へ進む、という工程を積み重ねます。従来の中国の現場では、この一巡に何日も、時に十日以上かかっていました。それを3日で回すには、型枠の転用や作業の並行化、資材の途切れない供給といった段取りのすべてを噛み合わせる必要があります。つまり深圳速度とは、勢いや気合ではなく、工程を設計し直した結果の速さでした。指令で人を動かすことに慣れていた施工部隊が、初めて「段取りで速さを作る」という発想を身につけた——そこにこそ、この記録の本当の意味があります。段取りが速さを生むという原則は、規模を問わず、あらゆる現場に共通する普遍の真理です。
この「深圳速度」という言葉は、単なる工期の話を超えて、改革開放そのもののスローガンとなりました。鄧小平は完成した国貿の回転展望室から特区の成果を宣言することになります。計画経済の施工部隊が、市場の速度を体現してみせた瞬間でした。そして深圳は、この後わずか数十年のうちに人口1000万を超えるメガシティへと変貌していきます。町場の経営に引き寄せて言えば、深圳が示したのは「速さそれ自体が一つの競争力であり、旗印になる」という事実です。ただし後の回で見るとおり、速さを旗印にした文明は、いつか「何のための速さか」を問い返される日を迎えます。私たちが日々の現場で工期を縮めるとき、その速さが誰の役に立っているのかを見失わないことが、この30年史からの最初の戒めです。
しかし、中国建設業の制度を根本から変えた事件は、きらびやかな特区ではなく、雲南の山中で起きました。1984年、世界銀行の融資を受けた魯布革水力発電所の導流トンネル工事が、中国初の本格的な国際競争入札にかけられます。世銀の融資は、透明な国際入札を条件としていました。計画経済の中国にとって、外国企業と札を並べて競うこと自体が初めての経験です。そして落札したのは——日本の大成建設でした。大成の入札額は中国側の内部見積もりのほぼ半分、しかも少数精鋭の管理で工期を数か月短縮してみせます。
なぜこれほどの差がついたのか。国営工程局の常識では、工事とは「なるべく多くの人員を投入し、上からの指令どおりに動かすもの」でした。人件費も資材も国家が配分するので、原価という概念そのものが希薄だったのです。対する大成は、工程を分解し、どの作業に何人・何日・いくらかかるかを積み上げて管理していた。少ない人数でも、段取りと工程管理が緻密であれば、はるかに速く安く仕上がる。国営工程局の常識が、外国ゼネコンの原価管理と施工管理に完敗した——この「魯布革の衝撃(魯布革衝撃)」は、単なる一工事の敗北にとどまらず、全国的な大論争となりました。「我々のやり方は根本から間違っていたのではないか」という自問が、建設業界を超えて広がったのです。
1987年、国務院が「魯布革の経験に学べ」と号令を発します。ここから、入札制度、プロジェクト経理(項目法人責任制)、工事監理といった市場的仕組みが中国建設業に一気に導入されていきました。入札制度は、価格と技術で仕事を競わせる仕組み。項目法人責任制は、プロジェクトごとに責任と採算を負う主体を立てる仕組み。工事監理は、発注者に代わって施工の品質と工程を第三者的にチェックする仕組みです。いずれも、原価と品質と工程を「誰かが責任をもって握る」ための制度でした。魯布革の経験は、いくつもの後続工事のモデルとなり、外国企業と組んだプロジェクトを通じて、原価管理・工程管理の技法が国営企業の内部に静かに移植されていきました。中国が単に外国に工事を明け渡したのではなく、負けたやり方をむさぼるように学んで自らのものにしていった点が重要です。半世紀前、半植民地状態のなかで、京張鉄道を外国技師に頼らず中国人技師・詹天佑の手で完成させた国です。技術的自立への執念は、この国の建設に一貫して流れる伏流水でした。魯布革の敗北を「学びの契機」に変えたのも、同じ執念だったといえます。日本編で主役の一社として登場した大成建設が、中国建設業の市場化の引き金を引いた——これは日中建設史の最も重要な交差点の一つです。そして持ち帰りとして重いのは、原価を把握した者が勝つという普遍の法則が、ここでは一企業ではなく一国家を動かしたという事実です。町場の一社の工事であっても、どの作業にいくらかかっているかを握っているかどうかで、勝負は静かに決まっている。魯布革はそれを国家規模で証明した事件でした。
制度が変わると、組織も変わります。1982年、国家建工総局が企業化されて中国建築工程総公司(CSCEC)が発足しました。それまで省庁の一部局として指令を執行していた施工部隊たちは、看板を「公司(会社)」に掛け替え、独立採算の巨大企業グループへの長い転身を始めます。この転身は一朝一夕ではありませんでしたが、後にCSCECをはじめとする中国の国有建設企業群は、売上高で世界の建設会社ランキングの上位を独占する、地球上で最も大きな建設会社群へと育っていきます。その規模感は、後年、世界の建設企業の売上ランキングを見れば一目瞭然になります。米国のスーパーゼネコンの売上が数十億から二百億ドル規模であるのに対し、CSCEC一社の売上はやがて三千億ドルに迫る水準へと達しました。国家が株主である巨人が、桁違いの規模で世界を建てている——請負業者という商人が主役だった米国とも、棟梁の技術が主役だった日本とも異なる、中国だけの建設のかたちです。国家そのものが最大のゼネコンであるという中国型の本質は、市場化のなかでも姿を変えて生き延びたのです。町場の一社からは想像もつかない規模ですが、逆に言えば、これほどの巨人が並ぶ市場のなかで、地域に根ざした中小の施工者がどう自分の持ち場を守るかという問いは、国が違っても通じる普遍のテーマです。
同時に、労働の世界にも革命が起きます。毛沢東時代の農村を縛っていた人民公社が解体され、農村から膨大な余剰労働力が解き放たれました。土地に貼りつけられていた人々が、初めて移動の自由に近いものを得たのです。その膨大な労働力が、沿海の都市で沸き立つ建設現場へと流れ込み始めました——「農民工」の誕生です。彼らは戸籍(戸口)制度によって都市の市民権を持たないまま働きました。中国の戸籍は農村戸口と都市戸口に分かれ、農村戸口のままでは、たとえ都市で何年働こうと、その都市の住宅を買うことも、子を都市の学校に通わせることも難しい。彼らを現場に束ねたのは「包工頭」と呼ばれる労務請負の親方たちで、農民工はこの親方に率いられて工事から工事へと渡り歩きました。
包工頭を頂点とする労務の世界は、幾重にも下請けが連なる重層構造でした。元請けから工区を請けた親方が、さらに小さな親方へ、そこからまた同郷の若者たちへと仕事が流れていく。同じ村の出身者が一つの現場に集まり、方言でまとまって働くことも多く、労働は血縁と地縁のネットワークに乗って動きました。これは、日本の建設業が長く抱えてきた重層下請け構造と、驚くほどよく似た姿です。安く早く人を集められる一方で、末端に行くほど契約は曖昧になり、誰がいくら受け取るのかが霧のなかに沈んでいく。この曖昧さが、後に見る賃金未払い問題の温床になりました。
米国の建設業を移民が支え、日本のそれを農村からの出稼ぎが支えたように、中国の建設ブームを支えたのも、この「国内の移民」たちでした。構図は同じです。都市の外部からやってきた者の、安価で膨大な労働が、繁栄の土台になった。ただしその規模は桁違いで、農民工はやがて3億人に達し、人類史上最大の労働移動となります。そして最も重い逆説は、「建てる者が、そこに住めない」という一点にありました。自らの手で林立させた高層マンションを、彼ら自身は買えない。この構造的な不公平は、中国建設業の最も深い影として、この後もずっと物語につきまといます。町場の現場を預かる立場からすれば、これは他人事ではありません。現場を実際に動かしているのが誰なのか、その人たちが仕事の恩恵からこぼれ落ちていないか——規模は違えど、問いの本質は同じです。
1990年、上海・浦東の開発が国家戦略となり、水田だった川向こうに東方明珠塔(1994年)が立ち上がると、中国の都市化は離陸段階に入りました。そして1992年、鄧小平が南方の特区を視察して改革の再加速を訴えた「南巡講話」が、停滞していた改革のアクセルを踏み直します。ここから中国は、人類が見たことのない規模と速度の建設時代——世界のクレーンの半分が中国で回る時代——へ突入していくのです。
1990年代から2008年までの中国は、文字通り「世界の工事現場」でした。その原動力は二つ——住宅の商品化と、国家の超大型プロジェクトです。まずは前者から見ていきます。
決定的だったのは1998年の住宅制度改革です。それまで住宅は単位(職場)が現物支給する福祉でした。人々は国有企業や政府機関という「単位」に所属し、その単位が職場であると同時に、住宅から食堂、診療所、学校までを丸ごと供給する。だから都市は、企業ごとの塀に囲まれた自己完結型のコミュニティ——「大院」——の集合体として建設されていました。住宅は買うものではなく、単位が職員に配給する福利だったのです。ところが1998年、この現物分配が廃止され、住宅は「商品」になりました。「住宅=配給」という半世紀続いた発想が、一夜にして「住宅=売買される商品」へと反転したのです。ここから中国不動産業という、世界経済史上最大級の産業が爆発します。10億人規模の巨大な住宅市場が、制度変更ひとつで出現しました。人々は初めて自分の家を「買う」対象として意識し、都市の風景そのものが変わっていきます。塀に囲まれた単位の大院は次第に姿を消し、代わって、名前とブランドを競う分譲マンション群が郊外へ郊外へと広がっていきました。住宅が福祉から資産へと性格を変えたことで、家は住む場所であると同時に、値上がりを期待して持つ「金融商品」に近づいていきます。この変質が、後の熱狂と反動の両方の火種になりました。
担い手は個性的な創業者たちでした。深圳で1984年に万科を興した王石。左官職人から身を起こし、広東の農村で碧桂園を築いた楊国強。製鉄所の労働者から恒大集団を作り、一時アジア一の富豪となった許家印。軍人出身で商業施設の万達を築いた王健林。学歴も出自もばらばらな彼らに共通していたのは、時代の反転を嗅ぎ取る嗅覚でした。彼らは香港デベロッパーの「プレセール(青田売り)」モデル——未完成のマンションを先に売り、その代金で次を建てる——を大陸に移植し、高回転のレバレッジで都市を量産します。一方、地方政府は農地を収用して開発用地として売却し、その土地譲渡収入が地方財政の3〜4割を占める「土地財政」が確立しました。土地を売って都市を建て、都市が地価を上げ、地価が財政を潤す——この自己増殖する機械が、以後20年の中国の成長エンジンであり、同時に後の危機の火薬庫になりました。この土地財政という仕組みは、地方政府にとっては打ち出の小槌でした。中国では土地は国家のものであり、その使用権を売る権限を地方政府が握っています。農地を安く収用し、造成して開発用地としてデベロッパーに高く売れば、その差益がまるごと財政に入る。売れば売るほど道路や公園を整備でき、街が便利になればまた地価が上がり、次の土地がさらに高く売れる。地方政府とデベロッパー、そして融資する銀行の三者が、土地と建設を延々と回すエンジンが組み上がっていきました。改革開放が生んだこの独特の成長装置は、確かに20年にわたって中国の都市を作り替え続けます。プレセールで買い手から前金を集め、その金でさらに土地を買い、次を起こす。借金と前受金を燃料にした自転車操業で規模を膨らませるこの仕組みは、回り続けている限りは魔法のように見えます。しかし回転が止まった瞬間に何が起きるかは、次回の主題です。町場の経営でも、前受金や借入で回す高回転のモデルは、成長期には力になりますが、需要が一段止まれば真っ先に資金繰りを直撃します。増殖する仕組みほど、止まったときの反動が大きい——この両義性は、規模を問わず建設という商売につきまとう性質です。

国家の側では、世紀の夢が次々と実体化します。筆頭が長江三峡ダムです。このダムは、一人の指導者の思いつきではありません。孫文が1919年の「建国方略」で構想し、毛沢東が「高峡に平湖出づ」——険しい峡谷に穏やかな湖が現れる——と詩に詠んだ、実に75年越しの国家的な夢でした。世代を超えて受け継がれてきた構想が、1994年についに着工されます。そして2,250万kWという世界最大の水力発電所として完成しました(本体2006年、全面稼働2012年)。洪水制御、発電、水運という三つの便益が、この巨大構造物に託されました。
しかし便益には代償が伴います。ダム湖に沈む町々から移転を強いられた住民は、約130万人にのぼりました。故郷ごと水底に消えた人々の数です。水没した町と生態系への影響、文化遺産の喪失をめぐる論争は今も続いており、三峡は中国的巨大建設の力と代償の両方を象徴しています。大運河が隋を富ませもし傾けもしたように、巨大インフラは便益と代償が常に背中合わせである——中国史が繰り返し教えるこの教訓が、現代の規模で再現されたのです。
興味深いのは、三峡が一党支配のもとでさえ、決して静かに進んだわけではなかったことです。着工までに構想から75年を要したのは、技術の壁だけでなく、水没する遺跡や移転する住民をめぐる激しい議論があったからでした。全国人民代表大会での採決では、この種の議案としては異例なほど多くの反対・棄権票が投じられたと伝えられます。巨大な意思決定であればあるほど、賛成一色では通らない。速度と規模を誇る国家建設にも、迷いと反対の記録が刻まれていたことは、記憶しておく価値があります。町場の経営でも、大きな設備投資ほど社内の反対に耳を傾けておくことが、後の禍根を減らします。
国土改造は三峡にとどまりませんでした。2006年には、標高5,000mを超える凍土地帯を貫く青蔵鉄道がラサに達し、「鉄道の空白地帯チベット」が消えました。永久凍土の上に線路を敷くという難工事を、中国は自らの技術で乗り越えたのです。高速道路は1988年の上海・滬嘉高速(中国初)からわずか四半世紀で総延長世界一となり、現在は18万kmを超えて米国の州間高速道路網の2倍以上に達しています。西部の天然ガスを上海に送る「西気東輸」、長江の水を北京に導く「南水北調」——地図を描き替える国土改造が、五カ年計画のリズムで、一つの意思のもとに進みました。国家そのものが最大のゼネコンであるという中国型の本質が、最も雄弁に語られた時代です。
2001年、中国は世界貿易機関(WTO)に加盟します。これは、中国が世界の貿易ルールのなかに正式に組み込まれ、外資と輸出が一気に流れ込む号砲でした。「世界の工場」として無数の工場・港湾・物流施設が沿海部に建ち並び、それを支える都市インフラの需要もまた膨れ上がります。建設は、この製造業の爆発を土台から支える産業として、さらに加速していきました。そして、その総決算として2008年の北京オリンピックがやってきます。国家体育場「鳥の巣」、水泳センター「水立方」、当時世界最大級の単一ターミナルだった首都空港第3ターミナル。世界の名だたる建築家が設計したこれらの構造物は、中国の施工力なくしては立ち上がりませんでした。1964年の東京、1970年の大阪がそうだったように、五輪と万博(2010年上海万博)は、その国の建設業の技術力を世界に示す成人式です。中国はこの舞台で、もはや安さだけの国ではないことを証明してみせました。同じ2008年、世界はリーマン・ショックに揺れますが、中国は4兆元という巨額の景気対策を打ち、その多くをインフラ建設に投じて危機を乗り切ろうとします。世界が投資を絞るなかで、中国だけが建設のアクセルを踏み込んだ。この選択が、次の10年の高速鉄道網の猛拡張へとつながっていきます。そして、こうした国家的プロジェクトを実際に施工したのは、CSCECをはじめとする巨大国有企業群でした。かつて国家建工総局という一部局にすぎなかった組織が、四半世紀のうちに、売上規模で世界の並みいるゼネコンを見下ろす巨人へと育っていたのです。
この時期、摩天楼の時代も本格化します。上海の金茂大厦(1999年)に続き、2008年には日本の森ビルが手がけた上海環球金融中心(492m)が完成しました。日本の不動産デベロッパーが、中国の摩天楼時代を象徴する一棟を建てた——魯布革の大成建設と並んで、これも記憶されるべき日中建設史の交差点です。上海・陸家嘴の川沿いに競うように伸びていく超高層群は、20年前まで水田だった土地に出現した、都市化の速度そのものの記念碑でした。
そして光が強まるほど、影も濃くなります。急増した農民工の賃金未払いは、深刻な社会問題となっていました。末端では、包工頭が下請けの下請けへと工事を丸投げし、金の流れが不透明になるほど、現場で汗を流した者への支払いが後回しにされたのです。2003年には、温家宝首相が視察先で一人の農民工の妻から直訴を受け、その場で未払い賃金を取り立てさせた出来事が全国ニュースになりました。一国の首相が個別の賃金未払いに介入しなければならないほど、末端の「包工頭」システムは無法だったのです。裏を返せば、原価と支払いの流れを誰も責任をもって握っていない現場では、最も弱い立場の者にしわ寄せがいく。魯布革が国家に突きつけた「原価を把握する」という教訓は、じつはこの賃金未払い問題とも地続きです。賃金未払いはその後、法整備や監督強化の対象になっていきますが、末端まで金を確実に届けるという課題は、重層下請けが続くかぎり容易には消えませんでした。首相の直訴介入という劇的な一幕は、裏を返せば、制度がまだそこまで届いていなかったことの証でもあったのです。春節に数億人が帰省する「春運」は、都市に根を下ろせない農民工の国=中国の年中行事となり、その巨大な人の流れそのものが、建てる者と住む者が分かれた社会の姿を毎年可視化しました。都市の高層マンションを建てた人々が、正月には数千キロ離れた農村の実家へ帰っていく。その往復の距離こそが、この時代の繁栄がどこに支えられていたかを物語っています。

①外圧と敗北が、制度を最速で変える。魯布革でのたった一度の完敗が、中国の入札・原価管理・監理制度を一新させました。しかもその相手は日本のゼネコン。内向きの改善では何十年かかっても動かなかったものが、外との競争で一度負けた瞬間に一気に動いた。原価を把握した者が勝つという普遍の法則の、国家規模の実例です。②繁栄は「都市の完全な市民ではない人々」の上に建った。3億人の農民工と賃金未払い問題は、米国の移民、日本の出稼ぎと同じ構図の、桁違いの拡大版です。建てる者がそこに住めないという逆説は、規模こそ違え、私たちの現場にも問いを投げかけています。③自己増殖する成長エンジンは、いつか火薬庫になる。土地財政とプレセールの回転は20年間の奇跡を生み、次回見るとおり、その後始末はまだ終わっていません。増殖する仕組みほど、止まったときの反動が大きい——これは中国だけの話ではなく、建設という商売の普遍の性質です。
次回(4)は、「基建狂魔」の絶頂と転換。毎年数千kmの高速鉄道、10日で建てた火神山医院、そして負債40兆円の恒大ショック——速度の文明が初めて「誰のために建てるのか」と問われるまでです。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。数値・記録には資料により幅があります。