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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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左官職人が開いた中国人初のゼネコン、外国人の嘲笑を跳ね返した鉄道技師・詹天佑、そして建国後に軍隊が建設会社になるまで。世界の建設売上を独占する巨人たちの意外な祖先をたどる中国編第2回です。
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中国建設業2200年史の第2回です。前回は、都江堰から紫禁城まで「国家が民を動員して天下を作り替える」文明の原型を見ました。始皇帝の長城、煬帝の大運河、永楽帝の紫禁城——いずれも、中央集権国家が途方もない人的資源を一点に集中投下して国土のスケールを変える、という同じ原理の反復でした。米国の建設業が「請負業者という商人」の物語、日本のそれが「棟梁の技術」の物語だったとすれば、中国のそれは一貫して「国家による大動員」の物語です。今回はその物語が最も激しく揺さぶられ、そして最も特異なかたちに結晶する時代を扱います。アヘン戦争から毛沢東時代の終わりまでの激動の130年。この130年のあいだに、中国の建設業は「外国人の下請けとして市場に生まれ」「その市場ごと国家に接収され」「省庁と軍隊の一部門に姿を変える」という、他のどの国にも見られない三段跳びの変転を経験します。租界で中国人請負業が生まれ、やがて建設業そのものが国家機構になり、軍隊が建設会社になるまでの物語です。日本の町場の中小建設会社を経営する立場からこの130年を眺めると、「制度が産業の形をどこまで変えてしまうのか」という問いが、他人事ではなく迫ってきます。

1840年のアヘン戦争と続く不平等条約は、中国の建設に新しい発注者をもたらしました。租界の外国人です。それまで中国の建設の発注者は、王朝と官——つまり国家がほとんど唯一の巨大クライアントでした。ところが敗戦と開港によって、上海、天津、広州、漢口といった開港場に外国の「租界」が設けられ、そこに西洋式のオフィスビル、銀行、教会、洋館が建ち並び始めます。設計はパーマー&ターナー(公和洋行)などの外国事務所が担いましたが、施工の現場を握ったのは、中国人の請負業者——「営造廠(えいぞうしょう)」でした。西洋人が図面を描き、中国人の親方と職人がそれを実際に建てる。この分業のかたちそのものが、半植民地という時代の産物でした。
その第一号とされるのが、上海の楊斯盛です。寧波近郊の貧しい家に生まれ、左官職人から身を起こした彼は1880年、中国人として初の近代的請負業「楊瑞泰営造廠」を設立し、1893年には上海税関(江海関)の庁舎を完成させて名を上げました。一介の職人が、外国人が主導する開港場の建設市場のなかで、自分の名を冠した請負会社を興し、税関という公的な建物の施工を勝ち取る。これは単なる立身出世譚ではなく、「職人の腕」が「会社の信用」へと転化していく、近代建設業の誕生そのものです。ここで少し立ち止まって、太平洋を挟んだ同時代を並べてみたいのです。米国でジョージ・A・フラーがゼネコン——設計と施工を分け、工程全体を一社が請け負って管理する近代的な総合請負——を発明したのが1882年、日本で日本土木会社が設立されたのが1887年。楊斯盛の1880年を加えれば、太平洋の三国で、ほぼ同じ10年間に「建設の会社化」が始まっていたことになります。蒸気船と鉄道と電信が世界を一気に近づけた時代に、建設という最も土着的な営みまでもが、期せずして同じ方向へ動き出していたのです。近代化の入口では、日米中は驚くほど横一線だったと言ってよいでしょう。ただし、そこから先の道は三様に分かれていきます。これは後半の主題になります。
楊斯盛に続いて、寧波や川沙の同郷ネットワークから営造廠が続々と生まれました。中国の請負業は、血縁と地縁——とりわけ同じ郷里の出身者が親方と職人を融通し合う紐帯——を骨格として広がっていきます。仕事の受注も、腕のいい石工や大工の手配も、資金の融通も、しばしば同郷の信頼関係のうえで回っていました。近代的な契約書や積算よりも先に、まず「顔の見える関係」で現場が動いていたのです。上海の外灘(バンド)の石造建築群は、こうして「外国人が設計し中国人が建てる」という分業で立ち上がっていきました。20世紀初頭の外灘は、新古典主義やアール・デコの壮麗な建築が林立する「東洋のウォール街」と呼ばれるまでになります。職人の腕と親方の差配で仕事を回す、という営造廠の姿は、実は同時代の日本で開港場の洋館を手がけながら請負業へ育っていった大工たちと、ほとんど同じ構図でした。町場の会社が人のつながりで現場を回すという原型は、洋の東西を問わないのだと、あらためて思います。私たちが今、日本の中小建設会社で当たり前にしている「地縁で人を集め、信用で仕事を受ける」やり方は、実は近代建設業のいちばん最初の姿でもあるのです。
その頂点が1934年の上海国際飯店(パークホテル)です。ハンガリー人建築家ラースロー・フデック(鄔達克)が設計した高さ83.8m・24階建てのこのホテルは、当時アジアで最も高い建物でした。そして施工したのは、陶桂林率いる中国人営造廠・馥記(陶馥記営造廠)です。陶桂林もまた楊斯盛と同じく左官職人あがりの叩き上げで、彼の会社は上海最大の営造廠へと成長し、南京の中山陵——孫文の霊廟、1929年完成——の中核工事も担いました。左官や大工という手仕事の底から出発した人物が、一代で近代建築の頂点の施工を任されるまでになる——そこには、腕さえ確かなら国籍や出自を超えて仕事が集まるという、勃興期の建設市場の活気がありました。近代中国を象徴する建築の相当数が、この一代で身を起こした親方たちの手で建てられているのは、偶然ではありません。高さ83.8mという数字は今の目には慎ましく映るかもしれませんが、鉄骨を高く積み上げて風と地盤に耐えさせる技術は当時の最先端であり、それをアジアで最初に実現した現場を握っていたのが中国人の親方衆だった、という事実は重い。アジア一の摩天楼を、欧州人が描き、中国人が建てた——上海国際飯店は、半植民地上海の縮図のような建物です。ちなみに少年時代の建築家イオ・ミン・ペイ(I.M.ペイ)が、このビルの建設を眺めて建築を志したという逸話も残っています。後にルーヴルのガラスのピラミッドなどで世界的名声を得る建築家の原点に、上海で中国人が建てた摩天楼があった——設計と施工が国籍で分かれていた時代の記憶は、こうした個人の物語のなかにも静かに刻まれています。
民間の営造廠が都市を建てる一方、国家プロジェクトの象徴は鉄道でした。そしてそこには、国家の威信を賭けた物語が生まれます。清朝は、幼童留学生として米国に送っていた詹天佑(せん・てんゆう、エール大学卒)に、北京と張家口を結ぶ京張鉄道の建設を委ねました。当時、鉄道は列強が利権として争う対象であり、中国人技師が単独で幹線を敷くなど不可能だ、と外国人技師たちは公然と嘲笑したと伝えられます。八達嶺一帯の急勾配は、まっすぐ登れば機関車が牽けない難所でした。詹天佑はここをスイッチバック——線路をZ字(人字形)に折り返して勾配をかせぐ工法——で克服し、1909年、設計から施工まで中国人のみによる初の幹線鉄道を完成させます。彼が「中国鉄道の父」と呼ばれるのは、技術そのものだけでなく、この屈辱と克服の物語ゆえです。半植民地状態にあった国にとって、一本の鉄道は技術的自立の狼煙でもありました。
同じ系譜に、橋梁技師・茅以升(ぼう・いしょう)がいます。彼が設計した銭塘江大橋(浙江省杭州)は、中国人による初の近代的大橋として1937年9月に開通しました。道路と鉄道を上下二層に通すこの橋は、中国人自身の設計と監理で近代的な大河を渡り切った、という点で画期でした。鉄道の橋を外国の技師に頼らず架けるということは、京張鉄道と同じく、技術的な自立の宣言でもあったのです。ところが開通からわずか3か月後、南下する日本軍の進撃を止めるため、茅以升は自らの橋を自らの手で爆破します。中国が近代技術でようやく手に入れた誇りの構造物を、戦火が竣工の直後に消し去った——これほど中国近代建設史の宿命を凝縮した挿話もありません。技術者は橋を落とす前夜、いつか自らの手で架け直すと固く心に期したと伝えられ、実際に橋は戦後、彼自身の手で再建されました。壊すのも建て直すのも同じ技術者だったという事実に、この時代の建設が帝国主義と戦争の刻印を深く帯びていたことが表れています。平時の営みであるはずの建設が、いかに簡単に戦争の道具にも犠牲にもなりうるか。私たちが穏やかに現場を積み上げていられること自体が、決して当たり前ではないのだと、この一件は静かに教えてくれます。
この時代には、建設を「造る」だけでなく「記録し体系化する」動きも芽生えていました。1930年代、梁思成・林徽因(りょう・しせい/りん・きいん)夫妻らが結成した「中国営造学社」は、失われつつあった伝統建築の実測調査を各地で進め、山西の応県木塔や仏光寺といった古建築を学術的に「再発見」していきます。戦乱と近代化のなかで朽ちるにまかされていた木造建築を、一つひとつ縮尺図に起こし、その構法を解読していく作業は、自国の建築の系譜を自らの手で確かめる営みでもありました。前回ふれた宋代の『営造法式』——柱の上に斗栱(ときょう)を組み、釘をほとんど使わずに屋根の荷重を支える工法を、寸法・比例・積算まで法令として体系化した技術書——を近代の眼で読み解こうとしたのも、この学社でした。西洋の設計事務所が外灘に君臨する一方で、中国は自らの木造建築の伝統を学問として取り戻そうとしていたのです。一方、国民政府は南京で近代的な首都計画を進め、呂彦直設計の中山陵が完成します。しかし、この学術と都市計画の芽は、日中戦争と国共内戦にすべて呑み込まれていきます。1949年の建国時点で、中国の近代建設業が手元に残していたのは、都市の営造廠と、戦火で疲弊した鉄道網だけでした。ここから中国は、世界史上でも類例のない「国家まるごと建設会社化」の道を歩み始めます。町場の会社を経営する者として言えば、ここから先は「会社という器そのものが一度消える」という、経営の常識が通用しない領域に入っていきます。

1949年の建国後、中華人民共和国は建設業を「産業」ではなく「国家の行政機能」として再編します。手本はソ連でした。すべての建設企業は国有化され、営造廠は接収・改造され、経営者と職人は市場から切り離されます。労働者はもはや請負契約で動く職人ではなく、「単位(ダンウェイ)」の職工——国家に雇用される「工人」——となりました。単位とは、国有企業や政府機関という所属先のことで、それは職場であると同時に、住宅・食堂・診療所・学校までを丸ごと供給する自己完結型の共同体でした。人はどの単位に属するかで人生のほとんどが決まり、都市は企業ごとの「大院(ダーユエン)」——塀に囲われた小さな街——の集合体として建てられていきます。住宅は商品ではなく、単位が職員に配給する福利になりました。この「住宅=配給」という発想は、半世紀後に世界最大の不動産市場へと反転する伏線でもあるのですが、それは次回以降の話です。ともかくこの時点で、市場も請負も、そして「会社」という商業的な器そのものも、いったん消えたのです。代わって出現したのが、省庁ごとの「工程局」システムでした。
ここが、この連載でどうしても伝えたい一点です。現在、世界の建設売上ランキングを独占する中国の巨大企業群は、すべてこの毛沢東時代の「省庁の施工部隊」を直接の祖先としています。鉄道部の下に鉄道工程局群——後の中国中鉄の前身。水利電力部の下に水電工程局群——後の中国電建。交通部の下に航務・公路の工程局群——後の中国交建。冶金部の下に冶金建設部隊——後の中国中冶。そして国家建築工程部の下に中国建築第一〜第八工程局——後の中国建築(CSCEC)の中核。名前を眺めるだけでわかるとおり、これらの企業のルーツは「どの省庁の、どの分野を施工する部隊だったか」で分類できます。鉄道は鉄道部、電力は水利電力部、というように、産業の縦割りがそのまま企業の系譜になっているのです。つまり今日のスーパーゼネコンたちは、市場競争のなかで顧客を奪い合って生き残った勝者ではなく、行政組織の一部門としてまず生まれ、改革開放を経て後から「会社」の形を与えられた存在です。日本や米国のゼネコンが、受注競争と淘汰を勝ち抜いて大きくなったのとは、成り立ちがまるで逆さまだと言えます。制度が産業の形を根こそぎ決めてしまう、という中国型の本質が、ここに凝縮しています。同じ「建設会社」という言葉を使っていても、その中身が国によってここまで違いうるという事実は、経営という営みを相対化して考えるうえで、忘れがたい教訓です。
さらに特異なのが、軍隊です。人民解放軍には「鉄道兵」という兵科がありました。歩兵や砲兵と並んで、鉄道を敷き、橋を架け、トンネルを掘ることを任務とする正規の兵科が存在したのです。朝鮮戦争では、爆撃で寸断される補給線の鉄道を、敵の空襲のもとで昼夜を問わず復旧し続けました。その経験を携えて、彼らは国内の険しい山岳鉄道を、文字どおり血で贖いながら建設していきます。この鉄道兵およそ数十万人は、1984年に部隊ごと「集団転業」——軍籍を離れ、組織を丸ごと民間の建設部隊へ移すこと——して鉄道部の建設部隊となり、それが現在の中国鉄建(CRCC)です。売上10兆円級、世界第2位級のゼネコンの前身が、文字どおり軍隊そのものだった。これは米国にも日本にも存在しない系譜です。加えて新疆では、生産建設兵団が開墾と国境警備と建設を一体で担い、「兵が建てる」伝統は辺境で今も続いています。会社が軍隊から生まれる、という発想そのものが、日本の建設業の常識からは遠く隔たっています。
最初の建設ラッシュは、ソ連が設計しました。第一次五カ年計画(1953〜57年)の中核が、いわゆる「156項目」です。鞍山の製鉄所、長春の第一汽車(自動車工場)、洛陽のトラクター工場——ソ連の資金・図面・技術者の援助による重工業プロジェクト群が各地に建ち、中国の産業都市と建設部隊を同時に鍛え上げていきました。ここで重要なのは、この事業が単に工場を建てただけではなく、「どう工場を建てるか」というノウハウと管理の型そのものをソ連から移植した点です。図面の読み方、工程の組み方、原価の管理、労働の編成——近代的な施工管理の作法を、まだ幼かった建設部隊が実地のプロジェクトを通じて叩き込まれていったのです。前章で消えたはずの「積算と管理」の技術が、今度は国家の計画のなかで、まったく別の顔をして復活してくる。この時期に、企業ごとに塀で囲われた自己完結型の街区「大院」が各地に生まれ、働く場所も住む場所も一体でつくられ、都市の姿までがソ連モデルに沿って形づくられていきました。
そして1959年、建国10周年に合わせ、人民大会堂を含む「十大建築」が北京に一斉竣工しました。新しい国家がその存在を内外に誇示するために、首都の中心に十の記念碑的建築を一年で建て並べる——建設が政治的なメッセージそのものとして企画された、象徴的な事業です。なかでも象徴的なのが人民大会堂です。延床17万平方メートルというこの巨大建築は、設計変更を重ねながら、着工からわずか10か月余りで完成しています。通常なら数年を要する規模を、政治日程が「建国記念日に間に合わせよ」と定め、全国からの動員がそれを可能にした。政治日程が工期を決め、動員がそれを実現する——後年の「深圳速度」や、コロナ禍の武漢で病院を10日で建てた「火神山」に至る、中国的スピードの原型が、まさにここにあります。国家が期日を宣言し、全国からヒト・モノ・カネをその一点に注ぎ込むことで、常識的な工期を圧縮してみせる。速さそのものが国家の能力の証明として演出される、という発想の起点がここです。半世紀後に世界が驚いた中国の「爆速施工」は、突然現れた芸当ではなく、建国10周年に間に合わせた人民大会堂の頃から、脈々と受け継がれてきた作法なのです。日本の町場の感覚では、工期は施工の都合と安全から積み上げるものですが、ここでは順序が逆で、政治が期日を先に決め、現場がそれに命がけで合わせる。この非対称は、後の光と影の両方を生む種になります。
しかし毛沢東時代の建設は、栄光と犠牲が分かちがたく結びついていました。大躍進(1958〜60年)では、非現実的な生産目標のもとで無数のダムや製鉄炉が突貫で築かれます。専門家の設計も十分な材料もないまま、とにかく数を競って造れという号令が全国を覆い、その多くが粗製濫造のまま、後に決壊などの災厄を残しました。急いで大きく造ること自体が目的化し、品質と安全がその陰で犠牲になる——国家の号令一下で人海を動かすという中国型建設の負の側面が、最も悲劇的なかたちで露呈した時代でした。速さと量を至上とする号令が、いかに現場の実態から遊離して暴走しうるか。工期や数字が独り歩きすることの怖さは、規模を別にすれば、どんな建設の現場にも通じる普遍的な戒めだと思います。やがて中ソ対立で援助が断たれると、中国は外国技術に頼れなくなり、「自力更生」を旗印に掲げます。その象徴が、南京長江大橋(1968年)です。それまで長江本流の大橋は外国の技術と資材に頼らざるをえず、ソ連の技術者が援助のさなかに引き揚げてしまったことで、事業は宙に浮きかけました。それでも中国は、自前の設計・自前の鋼材で、道路と鉄道を上下二層に通す大橋を架け切ります。かつて茅以升が銭塘江大橋で外国に頼らぬ架橋を果たしたのと同じ誇りが、より大きな長江の本流で、国家事業として再現されたのです。この橋は、技術的自立の記念碑として、そして「外に頼れないなら自分たちで造る」という時代精神の象徴として、いまも語り継がれています。援助が断たれたことがかえって自前の技術力を鍛えた、という逆説も、ここには含まれています。
そして、米ソ双方の核攻撃に備えて軍需産業を内陸の奥地へ移す一大国防プロジェクト「三線建設」が始まります。その動脈として貫かれたのが、四川と雲南を結ぶ成昆鉄道(1970年開通、約1,100km)でした。この路線は、絶壁と断層が連続する横断山脈の難地形を、橋梁とトンネルをほとんど途切れなく連ねることで無理やり貫いたものです。線路の大半が橋かトンネルという常識外れの構造で、駅すら斜面に張りつくように造られました。落盤や土砂崩れ、爆破作業の事故が相次ぎ、犠牲者は2,000人以上ともいわれます。「一里ごとに一つの忠魂」——一里進むごとに一人の命が失われた、と語られる路線です。地図の上の一本の線が、これほど多くの命の上に引かれている。私たちは完成した鉄道や道路を当たり前のものとして使いますが、その一本一本の背後に、それを敷いた人々の労苦があるという事実は、規模を問わず建設に関わる者として胸に刻んでおきたいところです。同じ時代、河南省林県(現・林州)では、農民たちが10年がかりで太行山の絶壁に、総延長1,500kmに及ぶ水路・紅旗渠(こうきょ)を手掘りで刻みました(1969年完成)。慢性的な水不足に苦しむ土地に、山の向こうから水を引くために、村ぐるみで岩盤を削り続けたのです。国家の号令と人民の人力が地形そのものを作り替える——毛沢東時代の建設は、その極致であり、同時にその代償の記録でもありました。
紅旗渠が示すのは、国家の号令だけでなく、その号令に応えて岩盤を削り続けた無数の名もなき人々の労働です。中国の建設は、長城の農民や大運河の民衆と同じく、都市や政治の中心の外から来た者たちの犠牲的な労働に、繰り返し支えられてきました。造る者が、その恩恵に与れるとは限らない——この構造は、次回以降に登場する現代の「農民工」にまで、かたちを変えて受け継がれていきます。都市を建てる出稼ぎ労働者が、自らが建てたその都市に住む資格を持てない、という現代の矛盾の遠い源流が、すでにこの時代の労働のなかに横たわっているのです。誰の手で自分たちのインフラが建っているのかを忘れない、という視点は、規模はまるで違っても、私たち日本の建設業が現場の職人や協力会社とどう向き合うかという問いにも、静かに通じています。
この時代の刻印は、海外にも残されています。1970〜75年、中国はタンザニアとザンビアを結ぶタンザン鉄道(1,860km)を、自国がまだ貧しいさなかに援助建設しました。延べ数万人の中国人技術者・労働者が送り込まれ、そのうち60人以上が任地に葬られています。銅の輸出に頼るザンビアが、隣国の港まで自前の鉄道を持てずにいた——その苦境に、まだ自国も貧しかった中国が手を差し伸べた。西側と国交の乏しかった当時の中国にとって、途上国のインフラを自らの手で建てることは、外交そのもの——連帯を示し、影響圏を広げる手段だったのです。援助と引き換えに友好国を増やし、国際社会での孤立を破る。建設は、鉄とコンクリートで書く外交文書でした。自国の民が飢えるほどの状況で、なお海外に鉄道を敷いた事実は、建設が国家戦略と一体だったことを、これ以上なく雄弁に語ります。半世紀後の「一帯一路」——国有建設企業が中国の融資と労働者を伴って世界のインフラを担う構想——の原型は、まぎれもなくここにあります。建設が国家の外交戦略と一体で動く、という中国型のふるまいは、この時代の海外援助で型ができ、後に規模を桁違いに拡大して世界へ広がっていくのです。そして1976年、唐山大地震が24万人以上の命を奪い、中国の都市と建築が抱えていた耐震性の欠如を、残酷なまでに暴きました。速く安く大量に、を優先してきた建設が、地震という自然の審判の前にいかに脆かったか。造る速さと同じ熱量で「壊れない造り方」に向き合わなければ、犠牲は防げない——この教訓は、地震国である日本の建設業にとっても、決して遠い話ではありません。同じ年、毛沢東が死去します。中国建設業は、動員の時代が遺した巨大な組織と、その裏面の深い傷とを同時に抱えて、次の時代へと入っていきます。

①「建設の会社化」は日米中ほぼ同時だった。フラー1882年、日本土木会社1887年、楊斯盛1880年——近代化の入口では三国は横一線でした。ところがその後の道は三様に分かれます。米国は請負業者どうしの競争のなかで、日本は棟梁の技術を核に、それぞれ会社を育てていったのに対し、中国は建国とともに会社という器そのものを一度消し、国家機構として作り直しました。同じ起点から出発しながら、制度の違いがこれほど異なる産業の姿を生む。制度が産業の形を決める、その最大の実例です。町場の会社を経営していると、事業の形は自分たちの努力と技術で決まると思いがちですが、その土台をなす「制度」がひとたび変われば、器そのものが消えも生まれもする。中国のこの130年は、その極端な標本です。②世界2位級ゼネコンの前身は軍隊そのもの。鉄道兵から中国鉄建(CRCC)へ、という系譜は、日米には存在しません。数十万の兵士が部隊ごと軍籍を離れて建設会社になる、という出来事を、日本の建設業の常識で想像するのは難しい。会社のルーツが行政部門や兵科にある、という事実は、企業とは何か、そもそも会社という器はどこから生まれるのか、という問いそのものを揺さぶります。③動員のスピードには、ほぼ例外なく犠牲の裏面があった。人民大会堂の10か月の裏に、成昆鉄道の2,000人がいる。速度の物語を読むときは、その代償も一緒に読むべきだと、私は思います。速く大きく造ることの光と影は、日本の高度成長期の公害とも通じる、建設業の普遍的な主題でもあります。この130年を通して見えてくるのは、建設という営みが、その国の政治や制度のあり方を、これ以上なく正直に映し出す鏡だということです。誰が発注し、誰が建て、誰が住み、誰が犠牲を負うのか——その組み合わせのなかに、その社会の姿がまるごと表れます。私たちが日々向き合っている一つひとつの現場もまた、規模はささやかでも、同じ問いを含んでいるのだと思います。
次回(3)は、改革開放。「3日に1階」の深圳速度、そして日本の大成建設が中国の入札制度を変えてしまった「魯布革の衝撃」——日中建設史の最も重要な交差点です。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本連載は通史的な読み物です。動員数・犠牲者数等には資料により大きな幅があります。