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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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熟練職人の最後の大量世代が、機械とAIの最初の教師になれるのは今後15年——賃金・外国人材・自動化が同時に動く労働の未来と、170年間跳ね返されてきた「建設の製造業化」の三度目の挑戦を描く第2回です。
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「建設の未来 2026-2075」の第2回です。前回、人手不足は待っても解消しない与件だと書きました。景気が良くなれば人が戻る、という循環的な話ではなく、労働人口そのものが構造的に細っていくという、動かしがたい前提です。では、どう解くのか。人手不足への人類の回答は、歴史上つねに同じでした。賃金を上げるか、新しい担い手を連れてくるか、機械に置き換えるか。この三択は、中世の黒死病後のヨーロッパでも、産業革命期のイギリスでも、戦後日本の高度成長期でも繰り返されてきた、労働経済の古い方程式です。次の50年は、この三つが同時に、かつてない規模で進む時代になります。そして後半では、170年間跳ね返されてきた「建設を製造業に変える」夢の、三度目の挑戦を見ます。技術の話に入る前に一つだけ申し添えると、本稿が扱うのは予言ではなく、いま観測できる兆しを50年の時間軸に引き伸ばした「見通し」です。当たり外れよりも、町場の一社が明日どう動くかの手がかりを、歴史の補助線とともに残すことを目的にしています。
まず賃金。半世紀にわたり「安くて過酷」の代名詞だった建設労働の価格は、構造的な上昇局面に入りました。ここで「構造的」という言葉を強調するのは、これが不況になれば元に戻る一時的な高騰ではなく、担い手の数そのものが減り続けることに根を持つ、片道の変化だからです。日本では公共工事の設計労務単価が10年以上連続で引き上げられてきました。この単価は、国が公共工事の積算基準として毎年見直す「職種ごとの一日あたりの標準賃金」であり、いわば建設労働の公定価格の目安です。それが10年以上、一度も下がらずに上がり続けているという事実は、需要に対して供給が慢性的に足りていないことを、統計が淡々と告げているに等しい。
賃金が上がるという事実の意味を、労働経済の歴史に照らして押さえておきたい。人手が足りないとき賃金が上がるのは市場の当たり前ですが、建設労働に関して言えば、これは単なる需給の話を超えた、産業の立ち位置の転換を示しています。半世紀のあいだ、建設労働の賃金は「きつい・汚い・危険」の対価として低く抑えられ、若者に選ばれない仕事の象徴でした。その価格が構造的に上向くということは、市場が「この仕事はもっと高く評価されるべきだ」と再計算を始めたということにほかなりません。中世ヨーロッパで黒死病が人口を激減させたあと、生き残った職人や農民の賃金が跳ね上がり、それが封建的な労働秩序を内側から溶かしていったように、労働力の希少化はしばしば、賃金だけでなく働き手と雇い手の力関係そのものを組み替えます。いま建設業で起きているのは、その現代版の入り口です。
海の向こうでも同じ地殻変動が起きています。米国では大学進学一辺倒への反動から、Z世代が電気工や配管工など高収入の技能職に回帰する「ツールベルト世代(tool belt generation)」現象が語られ始めています。四年制大学の学費が高騰し、卒業しても学生ローンを抱えたまま事務職に就くよりも、需要が旺盛で参入障壁もある技能職のほうが割に合う——若者がそう計算し始めた、という話です。腰道具のベルトを締めて現場に出る世代、というこの呼び名自体が、ホワイトカラー志向で語られてきた戦後の職業観の潮目が変わりつつあることを象徴しています。皮肉なことに、労働者にとっての建設業の未来は、産業にとっての危機とちょうど裏表で、明るいのです。人が足りないという産業の悲鳴は、そのまま「腕を持つ個人の値段が上がる」という朗報の裏返しでもある。腕一本で機械に代替されにくい複雑作業をこなす職人は、今後20年、先進国で最も希少性の上がる労働力の一つになります。町場の経営で言えば、これは「人件費が上がって苦しい」という守りの話であると同時に、「腕のある会社は堂々と適正な単価を求めてよい」という攻めの話でもあります。安請け合いで疲弊してきた業界が、価格を語れる側に回る好機が、いま来ています。
次に、担い手の争奪戦。足りない担い手を外から連れてくるという発想は、どの先進国も同時に思いつきました。だからこそ、これは獲得ではなく争奪戦になります。日本の特定技能、韓国の雇用許可制、湾岸のカファラ、台湾・欧州の受け入れ拡大——主要建設国は、ベトナム・インドネシア・南アジア・アフリカという同じ労働力プールを奪い合う構図に入りました。それぞれの制度の性格を少し開いておくと、日本の特定技能は、一定の技能と日本語能力を持つ外国人に現場での就労を認める在留資格で、建設は当初からその主要分野の一つに位置づけられてきました。韓国の雇用許可制は、政府が受け入れ枠を管理しながら送り出し国と協定を結ぶ国家主導の仕組みです。湾岸諸国のカファラは、現地の雇用主(スポンサー)が外国人労働者の在留を保証する古くからの制度で、ドバイやドーハの摩天楼群は、実質この仕組みが運んだ南アジアの労働力によって建てられてきました。呼び名も設計も違いますが、いずれも「足りない現場労働を国境の外から調達する」という一点で同じ機能を果たしています。
問題は、その水源が永遠ではないことです。送り出し国自身が経済成長して国内で人を使うようになるため、このプールは今後細ります。かつて多くの労働者を海外に送り出した国が、自国の建設ブームで人手不足に転じ、逆に受け入れ側に回るという逆転は、歴史上何度も起きてきました。つまり「外国人材」は恒久解ではなく時間稼ぎであり、その獲得競争力は賃金だけでなく、在留の安定・家族帯同・キャリアパスといった「選ばれる国」の制度設計で決まります。同じ月給を提示しても、家族を呼び寄せられる国と単身の出稼ぎしか認めない国とでは、選ばれ方が違う。移民政策が建設コストを直接左右する時代は、これからが本番です。町場にとっては遠い国の政策論に見えるかもしれませんが、現場に来てくれる人がいるかどうかは、めぐりめぐってこうした制度設計の巧拙に左右されます。加えて、来てくれた人に長く働いてもらえる会社かどうか——言葉や生活の支え、技能を認めて処遇する姿勢——が、時間稼ぎの時間を最大限に延ばす鍵になります。
歴史を振り返れば、労働力を外から呼び込んだ社会は、いずれ「呼んだ人々は定住し、次の世代を生み、社会の一員になっていく」という現実に向き合ってきました。労働力として招いたはずが、いつしか隣人になる——これは戦後ヨーロッパが移民労働者を受け入れた歴史が、繰り返し教えてきたことです。単身の働き手を安く一時的に使うという発想は、短期には合理的に見えても、長い目で見れば選ばれなくなり、地域社会との軋轢も残します。逆に、家族とともに腰を据えてもらい、技能を身につけて処遇も上がっていく道筋を用意できた国や会社は、細っていく水源のなかでも人に選ばれ続ける。この争奪戦は、賃金の高さだけでなく、迎える側の度量が問われる競争でもあるのです。町場の一社にとっても、これは制度論ではなく、目の前の一人とどう向き合うかという、きわめて具体的な経営判断として立ち現れます。

そして機械。建設ロボティクスは長く「デモ止まり」と揶揄されてきました。展示会では華々しく動くのに、実際の現場では足場が悪く、天候は荒れ、想定外のことが毎日起きるため使い物にならない——この「デモと実務の谷」が、半世紀にわたって建設自動化の夢を跳ね返してきた壁でした。ところが2020年代に入り、その谷を越えて実用の閾値をまたいだ領域が、明確に見えてきました。突破口は、意外にも最も泥臭い場所——土工です。土を掘り、運び、敷き、締め固める。建設のなかで最も原始的で、最も力仕事で、最も危険な工程が、真っ先に機械に置き換わり始めている。これは示唆的です。人がやりたがらない仕事から自動化が進むという順序は、産業の歴史がたどってきた王道でもあるからです。
秋田の成瀬ダムでは、鹿島の自動化システムの下で無人のダンプとブルドーザーとローラーの群れが昼夜協調して堤体を打設しており(日本編参照)、鉱山で先行した自律重機の技術が土木に降りてきています。鉱山という、区画が管理され、人の出入りが限られ、同じ動作を延々と繰り返す環境は、屋外でありながら最も「工場に近い現場」でした。だからこそ自律重機はまず鉱山で実用化し、その成熟した技術がいま、より条件の複雑なダム現場へと下りてきている。技術は易しい場所で育ち、難しい場所へ移植されるという、この伝播の順序を押さえておくと、次に何が現場に降りてくるかが読めます。並行して、通信の低遅延化は「一人のオペレーターが遠隔で複数台を監督する」形を可能にし、危険地・災害地・深夜の無人施工が現実になりつつあります。一人が一台を操る時代から、一人が群れを差配する時代へ。これは単に人が減るという話ではなく、現場労働の中身が「操作」から「監督」へと質的に変わることを意味します。組積や墨出しなど単一工種の反復作業では、レンガ積みロボットや図面を床に描くロボットが商用化されました。墨出しとは、設計図の通り点や線を現場の床や壁に写し取る、建物のすべての工事の起点となる地味だが精緻な作業で、ここをロボットが担い始めたことの意味は小さくありません。ここで一つ、機械化の順序についての見立てを添えておきます。自動化は「難しくて花形の仕事」からではなく、「単純で反復的で、環境を区切りやすい仕事」から進みます。土工がその筆頭であり、レンガ積みや墨出しのような単一工種がそれに続く。これは、産業革命以来あらゆる機械化がたどってきた道筋と同じです。織機はまず最も単調な工程から人手を置き換え、複雑な仕上げは長く職人の手に残りました。建設でも、機械が最初に奪うのは危険で単調な作業であり、判断と器用さと段取りが絡む仕事は最後まで人のもとに残る。だからこそ、若い担い手が向かうべきは、機械に真っ先に置き換わる末端の力仕事ではなく、機械を差配し複雑な納まりをさばく側だ、という職業選択の指針もここから読み取れます。逆に言えば、配管・電気・内装仕上げのような、狭所で多工種が絡み合う仕事は自動化の最後尾であり、だからこそ後述の「工場化」が効きます。現場でほどけない複雑さは、工場という管理された環境にあらかじめ移してしまう——機械化と工場化は、同じ問題を別の側から攻める両輪なのです。
ここで、この移行期に固有の、一度きりの歴史的機会について書いておきます。熟練職人の最後の大量世代が、機械とAIの最初の教師になれるのは、今後15年しかありません。この15年という時間の意味を、少し立ち止まって考えたい。前回触れたとおり、日本の建設就業者の高齢化は世代の断層とでも呼ぶべき水準に達しており、いま現場を支えている最も厚い層が、この十数年でまとまって引退していきます。彼らが持ち場を去るとき、その頭と手のなかにある知識も一緒に去る。だからこの窓は、開いたまま待ってはくれません。
型枠大工の手の運び、溶接の音の聞き分け、地山を見る目——4000年間、徒弟制の暗黙知として身体から身体へ渡されてきた技能を、モーションキャプチャと映像とセンサーでデータ化し、ロボットの制御則とAIの教師データと若手の教材に変換する。ここで語られているのは、ピラミッドの時代から連綿と続いてきた技能の継承様式そのものの転換です。溶接の良し悪しをアークの音で聞き分ける、掘るべき地山の崩れやすさを表情で読む——こうした言葉にならない判断は、これまで親方の背中を何年も見て盗むほかに受け継ぐ道がありませんでした。それを、はじめて機械が読める形に翻訳できる技術が、いま揃いつつある。これは単なる省力化ではなく、人類史編で描いた「口伝の知」から「計算可能な知」への、建設知識の相転移です。文字を持たなかった知が、はじめて記録され、複製され、遠くへ運べるものになる。この15年でデータ化に失敗した技能は、担い手の引退とともに、文字通り消滅します。図書館が静かに焼けていくのを、私たちはいま目撃しているのかもしれません。しかも、いちど途切れた暗黙知は、あとから復元できません。設計図なら描き直せますが、地山を見る目や溶接の勘は、それを持つ人が去れば、二度と同じ形では戻ってこない。この非対称性——蓄えるのは何十年、失うのは一瞬——こそが、この15年を「期限つき」と呼ぶ理由です。
もっとも、記録すれば技能が保存されると単純化するつもりはありません。身体で覚えた勘のすべてがデータに移せるわけではなく、翻訳の過程でこぼれ落ちるものは確かにあります。それでも、何も残さずに引退を見送るのと、動画とセンサーで一部でも形にして次代へ渡すのとでは、10年後に残る差は決定的です。完璧な保存を待って何もしないより、不完全でも記録を始めるほうが、はるかに賢い。これは巨大ゼネコンだけの課題ではありません。むしろ、一人の親方の頭のなかに会社の競争力が集約されている町場の中小こそ、その属人性が最大のリスクであり、記録する意味も大きい。親方の段取りを若手が動画で撮り、あとで一緒に見返す——それだけで、暗黙知はわずかずつ会社の共有財産へと移り始めます。
労働の姿も変わります。2040年代の現場監督の仕事は、人間の職人班とロボット群と遠隔オペレーターの混成チームを差配する「フリートマネジメント」に近づき、危険・重筋作業はアシストスーツと機械が引き受け、現場は「若い肉体の使い捨て」から「経験値の高い専門職の職場」へと年齢構成を変えていくでしょう。腰や膝を痛めて40代で現場を去る、という建設労働の古い宿命が、装着型の補助機械によって和らげば、職人はより長く、より安全に腕を振るえるようになります。そして人類史編で指摘した最大の未完——女性比率1割前後という産業の偏り——は、筋力の意味が薄れるこの転換の中でしか、おそらく本質的には解消されません。重い物を持てるかどうかが参入の壁であり続ける限り、間口は広がらない。その壁を機械が肩代わりして初めて、この産業は性別や体格を問わない仕事に近づきます。機械化の成否は、生産性の問題であると同時に、この産業が初めて「誰でも働ける産業」になれるかどうかの問題なのです。町場の一社にとっても、記録を残し、体への負担を機械に移す取り組みは、採用の間口を広げ、長く働ける職場をつくる投資として、生産性の話を超えた意味を持ちます。

「建設を製造業に変える」という夢は、水晶宮からレヴィットタウン、メタボリズム、そしてKaterraの破綻まで、170年間挑まれては跳ね返されてきました(各編参照)。この系譜を少し開いておきます。水晶宮は、規格化した鉄とガラスの部材を工場で作り現場で組み上げた、プレファブ建築の原点というべき存在でした。レヴィットタウンは、戦後アメリカの郊外に自動車工場の流れ作業を思わせる方式で住宅を大量供給し、「家をベルトコンベアで作る」思想を体現しました。メタボリズムは、1960年代の日本で、建物を交換可能なユニットの集合体として構想した建築運動です。いずれも「建設を、繰り返し作れる工業製品に近づける」という同じ夢の、時代ごとの姿でした。そして、いずれも完全には成就しませんでした。水晶宮は万博という一度きりの祝祭のための仮設建築であり、恒久の都市を規格部材で覆い尽くすには至らなかった。レヴィットタウンの均質な住宅群は、やがて画一性への飽きと批判を招いた。メタボリズムの交換可能なユニットという理想も、実際には設計者の思い描いたようには更新されず、多くは構想のまま老いていった。この「挑んでは跳ね返される」反復こそが、建設という仕事の一品性の頑固さを物語っています。次の50年、この夢は三たび挑まれます。ただし今度は、過去の失敗の解剖図つきで。同じ夢を、同じ失敗を繰り返さずに追えるかどうか——ここが、これからの製造業化の勝負どころです。
Katerraが教えた失敗の型は明確です——巨大工場への垂直統合は、建設需要の変動と一品性の前で、固定費の塊として死ぬ。Katerraは、設計から部材製造、施工までを一社で丸ごと抱え込み、建設を製造業のように垂直統合しようとした米国のスタートアップで、巨額の資金を集めながら数年で破綻しました。教訓ははっきりしています。工場は、需要が安定して大量に流れ続けて初めて元が取れる装置です。ところが建設需要は景気で大きく上下し、しかも一つとして同じ建物がない。この変動と一品性という建設の本質の前では、巨大な自前工場は、稼働してもしなくてもかかる固定費として、企業を内側から圧し潰す。過去の製造業化の夢が例外なく跳ね返されてきたのも、根はここにあります。これに対して現在進んでいるのは、逆張りの分散型です。
第一に、部位のモジュール化。建物一棟を丸ごと工場で作るのではなく、バスルーム・機械室・外壁・配管ラックといった「反復性の高い部位」をユニット化して現場で組む。丸ごとを狙って死んだKaterraの逆を行き、繰り返しの効く部分だけを工場に移す発想です。ホテルや病院、データセンター、そして半導体工場のような「同じものを速く大量に」が要る建物ほど効きます。同じ規格の客室や病室が何百と並ぶ建物、あるいは工期の一日が莫大な機会損失につながるデータセンターや半導体工場では、工場でユニットを先行製作し現場では据えるだけ、という方式の恩恵が最も大きい。第二に、木造の産業化。オーストリア発のCLT(直交集成板)は、欧州と日本で中高層木造を実用化させ(欧州編・日本編参照)、林業から製材・加工・組立までをデジタルで一気通貫させる「木の製造業」を育てつつあります。CLTは、板を繊維方向が直交するように何層も貼り合わせた分厚い木の面材で、鉄やコンクリートに迫る強度を持ちながら軽く、工場で精密に加工できます。これによって、これまで低層に限られてきた木造が中高層へと解禁されつつある。木造は炭素を貯蔵する構造材でもあるため、次回の脱炭素とも合流します。育つ間に大気の炭素を取り込んだ木を建物として固定する、という考え方です。第三に、実は世界最先進の工場化を半世紀続けてきたのが日本のハウスメーカー(日本編参照)であり、鉄骨ユニットを工場で8割組み上げて現場一日で据える生産方式は、世界が今から向かう場所に、日本の住宅産業だけが1970年代から住んでいたことを示しています。世界が「これから目指す未来」として語るモジュール建築の到達点に、日本の住宅産業は半世紀も前に静かに住んでいた——この事実は、町場を含む日本の建設業が、実は世界に誇れる工場化のノウハウを内に抱えていることの証しでもあります。
3Dプリンティングは、誇大宣伝の谷を越えて、適所を見つけ始めました。数年前まで「家が丸ごとプリントされる」という映像ばかりが独り歩きし、期待だけが膨らんで幻滅が続く、いわゆる誇大宣伝の谷にはまっていた技術です。しかし、その谷を抜けて、この技術が本当に効く場所が見えてきました。型枠という、コンクリート工事のコストと廃棄物の大きな塊を丸ごと省けるのがこの技術の本質です。コンクリートを流し込むには、まず木や鋼でその形の枠を組み、固まったら壊して捨てる——この型枠づくりと解体が、コンクリート工事の手間と廃材の大きな部分を占めてきました。ノズルからコンクリートを積層して形を直接立ち上げれば、この枠そのものが要らなくなる。ここにこそ、3Dプリントの本当の値打ちがあります。米ICONの住宅群(レナーと組んだ100戸の街、そしてNASAの月面建設研究)、日本のセレンディクスの小型住宅(躯体を丸一日で打設する試み)、金属3Dプリントの橋梁などが実装例です。地球上の住宅街から月面基地の構想まで、そして家という大きな塊から橋の精密な部材まで、この技術が適所を広げつつあることが分かります。50年スパンで見れば、本命は「プリンターが家を建てる」ことではなく、設計データがそのまま物体になるというワークフロー自体が、部材工場と現場に浸透していくことでしょう。図面を人が読み解いて手で形にする、という数千年続いた工程の間に横たわる「翻訳の谷」が、データから物体へと一続きにつながる。そのとき変わるのは建て方だけでなく、設計と製造の関係そのものです。町場の視点で言えば、3Dプリントで家を建てる日を待つ必要はありません。むしろ先に効いてくるのは、設計データがそのまま加工機や部材工場に流れ、拾い出しや加工の手戻りが減っていく方向です。図面を人が読み替えて材料を発注し、寸法違いで作り直す——この繰り返してきた無駄が、データの一続き化によって静かに削られていく。派手なプリンターより、この地味な連続性のほうが、日々の現場には早く届きます。
そして、最も静かで最も巨大な革命が、素材で起きます。派手なロボットや3Dプリンターに目を奪われがちですが、建設の未来を最も深く変えるのは、おそらく建物を形づくる物質そのものの入れ替えです。セメントは世界のCO2排出の約8%を占め(人類史編参照)、このままでは気候目標と正面衝突します。人類がこれほど大量に作り、これほど当たり前に使ってきた人工物であるコンクリートが、実は気候問題の主要な当事者だった——この事実の重みが、素材革命を不可避にしています。解決の経路は出揃いつつあります。焼成クリンカーを粘土等で置き換える低炭素セメント(LC3)。セメント製造でCO2が出る大きな原因は、石灰石を高温で焼いてクリンカーという中間材料を作る工程にあり、その一部を焼かずに済む粘土などで置き換えるのがLC3の考え方です。CO2をコンクリートに注入して鉱物化する技術。排出物であるはずのCO2を、逆にコンクリートの中に閉じ込めて石に変えてしまう発想です。電気化学や新プロセスでセメントを作り直すスタートアップ群、水素で還元した「グリーンスチール」(スウェーデンで世界初の量産が始まりつつあります)。鉄づくりは石炭で鉄鉱石を還元する際に大量のCO2を出しますが、それを水素に置き換え、出るのが水だけという製鉄を目指す試みが、北欧で先陣を切っています。バクテリアがひび割れを自己修復するコンクリート、そして解体材を資源として設計段階から記録する「マテリアルパスポート」。建物を、いつか解体される廃棄物の予備軍としてではなく、将来ふたたび使える資材の一時的な集積として捉え、何がどれだけ使われているかを最初から台帳に記録しておく——都市を鉱山と見なす発想です。加えて需要側では、AIによる構造最適化が「同じ強度をより少ない材料で」を可能にし、部材量を2〜3割減らせる事例が出ています。人類史編で見たとおり、人類は時代を素材で数える種です。石器・青銅・鉄・コンクリートの次の時代区分は、おそらく特定の新素材ではなく、「炭素を数えながら建てた時代」という会計方法の名前になるはずです。何で建てたかではなく、建てるたびにいくら炭素を出し、いくら閉じ込めたかを勘定した時代——後世は私たちの時代を、そう呼ぶのかもしれません。

①技能のデータ化は、15年の期限つき事業である。ベテランの腕を動画・データで残す取り組みは、いま始めれば資産になり、10年後では手遅れになります。町場でも「うちの親方の段取りを記録する」ことから始められます。大掛かりなシステムは要りません。段取りの手順、材料の選び方、危ない兆候の見分け方を、スマートフォンの動画とひとことのメモで残していくだけでも、それは会社に蓄積されていく資産です。②製造業化の勝ち筋は「全部」ではなく「部位」。ユニットバスや配管ラックのような反復部位から工場化する分散型が、Katerraの失敗を越える道です。丸ごとを狙わず、繰り返しの効くところだけを先に工場へ移す——この分散の発想は、大規模開発だけでなく、町場の段取りの組み方にも応用が利きます。③職人の価値は上がり続ける。複雑な納まりをこなせる腕は、機械化が進むほど希少になります。単純作業から機械に置き換わるということは、裏返せば、機械には難しい複雑な仕事ほど人の腕の値打ちが際立つということです。人手不足の時代は、腕のある会社にとって単価交渉の時代でもあります。
次回(3)は、情報と金融。「産業の9割を占める零細の海にAIが届くか」が生産性の謎の答えを決めるという、この連載の中心的な見立てと、「工事を売る」から「性能を売る」への三度目のビジネスモデル進化を描きます。今回見た機械や素材の革命も、それを末端の現場までつなぐ情報の層がなければ、大手の実験室にとどまってしまう。次回はその「つなぐ層」の話です。
株式会社コンクルー 代表取締役 白澤光純
※本編は歴史ではなく「見通し」を扱います。統計・制度は2026年前半時点の情報に基づきます。