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監督者:白澤光純
株式会社コンクルー 代表取締役CEO
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なぜ建設業だけがデジタル化に半世紀かかったのか。その答えは「四つの構造的な呪い」にあります。図面をデジタルにしたCAD、図面をデータに変えようとしたBIM——最初の二つの革命をたどりながら、その恩恵がなぜ町場の工務店まで降りてこなかったのかを、建設AIをつくる経営者の視点で読み解きます。
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建設の歴史をたどるこの連載で、私は毎回、同じ場所に引き戻されてきました。建設業は世界でもっとも古い産業のひとつでありながら、生産性が半世紀にわたって横ばいの、いわば「最後の未電化地帯」だということ。その原因は機械が足りないからではなく、産業が数十万の零細に断片化し、情報が紙と電話と現物合わせで流れているからだということ。そして、この断片化した産業を「ひとつに統合しよう」とした者はことごとく倒れ、「断片化したまま、情報で繋ごう」とした者が生き残ってきたこと——。
今回から数回にわたって、私はその勝敗の記録を書こうと思います。青焼き図面からCAD、BIM、クラウド、そしてAIまで。建設とソフトウェアが交わった40年余りを、企業の興亡としてたどる連載です。教養の書ではなく、実務の書のつもりで書きます。なぜなら、いま私自身が、日本の小さな建設会社に向けたソフトウェアをつくっている当事者だからです。この40年史は、私にとって他人の物語ではなく、明日の自分への警告と励ましの書でもあります。
歴史は繰り返しません。けれども、韻を踏みます。ConTech(建設×テクノロジー)の40年は、その韻の宝庫です。第1回である今回は、物語に入る前の「なぜ建設ソフトウェアはこれほど難しいのか」という構造の話から始め、最初の二つの革命——図面をデジタルにしたCADと、図面を「モデル」に変えようとしたBIM——を追いかけます。
個々の企業の成功と失敗を語る前に、私はどうしても押さえておきたい前提があります。この産業がなぜソフトウェア化に40年もかかっているのか。その理由を、私は四つの「構造的な呪い」として整理しています。これから登場するすべての企業の勝ち負けは、結局のところ、この四つへの回答として読めるからです。
第一の呪いは、一品生産です。建物は、ひとつとして同じものがありません。しかも工場ではなく、屋外の現場でつくられます。製造業のソフトウェアが当然の前提にしている「同じ工程の反復」が、ここには存在しない。だから、プロセスをかっちり固定してしまうソフトウェアは、現場に静かに拒絶されます。
第二の呪いは、断片化です。米国の建設業は70万社を超え、平均従業員は10人前後。日本の建設業許可業者は約47万社にのぼります。一つのプロジェクトに、元請・設計・数十の専門工事会社・資材業者・発注者・行政が関わり、その全員が別の会社です。つまり建設ソフトウェアは、本質的に「他社と他社のあいだのワークフロー」を扱わなければならない。社内業務の効率化ツールとして設計すると、いずれ確実に壁に突き当たります。
第三の呪いは、買い手の貧しさです。建設業の営業利益率は数%が普通で、IT予算はほぼゼロ。情報システム部門を持つ会社は、上位のごく一部にすぎません。買い手の大半は、社長がトラックの助手席でスマホを触っているような会社です。この購買層に、大企業向けSaaSの売り方は通用しません。
第四の呪いは、現場の重力です。泥、雨、手袋、騒音、電波の届かない地下、そして「前の現場ではこうやってた」という慣習。UIが1タップ多いだけで使われなくなり、ログインが面倒なだけで紙に戻ります。機能の優劣よりも、現場の摩擦係数のほうが強い。ここで、数えきれないほど多くの優れた製品が死んでいきました。

この四つは、日本の町場——従業員数人から十数人の中小建設会社——にこそ、もっとも濃く効いています。一品生産で、重層下請で断片化し、ソフトに払う予算はなく、社長は夜に事務所で紙と格闘している。私が向き合っている市場は、この四つの呪いが最大濃度で重なった場所だと言ってもいい。
面白いのは、この四つが「弱点」であると同時に、越えた者にとっての「堀」にもなることです。呪いが強い市場ほど、まともに攻略した会社は少なく、いったん現場に根を張れば簡単には剥がれません。楽に売れる市場には、楽に競合が入ってくる。難しい市場だからこそ、正しく届けば、深く長く選ばれる。私は、この逆説を毎日のように自分に言い聞かせています。——だからこそ、これから始まる40年の物語を、私は「他社の歴史」ではなく「自分の設計図」として読むのです。

すべての始まりは1963年でした。MITの博士課程学生だったアイヴァン・サザランドが開発した「Sketchpad」です。ライトペンで画面に直接図形を描き、「この線とこの線は平行」といった拘束条件を与えられるこのシステムは、コンピュータグラフィックスとCADの共通の祖先になりました。ただし当時、これを動かせるコンピュータは数億円級。CADは長いあいだ、航空宇宙と自動車の大企業だけの技術でした。
転機は1982年です。この年、二つの出来事が起きました。一つはIBM PCという安価な標準機の登場。もう一つが、ジョン・ウォーカーら十数名がAutodeskを創業し、翌年にAutoCADを発売したことです。当時のCADは専用ワークステーションとセットで数千万円が常識でしたが、AutoCADは「あなたがすでに持っているPCで動く、数十万円のCAD」でした。この価格破壊が何を意味したかは明白です。CADが、大企業の設備投資から、町の設計事務所の経費になったのです。
私は、Autodeskの初期の戦い方に、いまも学ぶべきものが詰まっていると思っています。第一に、機能の優位ではなく、価格と可用性で勝ったこと。第二に、DXF(図面交換フォーマット)を公開して、周辺のソフトやプラグインが自社製品にぶら下がる生態系を育てたこと。第三に、販売をディーラー網に委ね、教育本と資格が周辺産業として育ち、「AutoCADが使える」ことが製図技術者の職能そのものになったこと。ソフトウェアが職能の定義を書き換えたとき、それは事実上の標準になります。1990年代、青焼き(ジアゾ複写)の匂いのする製図室は世界中から消え、製図板を並べた大部屋は、ディスプレイの列に置き換わりました。
けれども、この革命の本質は、正確に見ておかなければなりません。CADが変えたのは「作図」であって、「建設」ではありませんでした。紙に鉛筆で引いていた線が、画面上のベクターになっただけで、その線が意味するもの——この壁は何でできていて、いくらで、誰がいつ施工するのか——を、コンピュータは理解できません。図面はあくまで人間が読むための「絵」であり、データではなかった。だからCADは設計事務所の生産性を数倍にした一方で、産業全体の生産性統計をほとんど動かしませんでした。第一の革命は、業界の最上流にある、最も知的な工程だけを電化して、そこで止まったのです。
日本でも、同じことが起きました。1980年代後半から90年代にかけて、大手ゼネコンや設計事務所にCADが普及し、専用機(富士通、日立、NECなど)からAutoCADやJW_CADへと移っていきます。特筆すべきは、清水建設の技術者が開発し1990年頃から無償公開されたJw_cadが、日本の中小設計事務所や工務店に爆発的に広まったことです。フリーソフトが一国の中小建築設計のデファクトになるという、世界的にも珍しい現象でした。これは裏を返せば、日本の中小建設事業者がいかにソフトウェアにお金を払えなかったか——いや、払う文化を持たなかったか——の証拠でもあります。そしてこの記憶は、30年後にSaaSを売ろうとする私たちにとって、避けて通れない前提条件になります。
私はこのJw_cadの逸話を、悲観の材料としてではなく、むしろ深く尊重すべき事実として受け止めています。町場が有償ソフトに手を出さなかったのは、彼らが保守的だったからでも、ITに疎かったからでもありません。単純に、月々の固定費に見合うだけの手応えが、目の前になかったからです。無料で十分な仕事が回るなら、そちらを選ぶのは経営として正しい。だとすれば、彼らの財布を開く鍵は、値引き競争ではなく、「払った額を、たしかに超える時間とお金が返ってくる」という実感を、いかに早く手渡せるかにあります。三十年前に無料を選んだ判断の速さは、価値さえ示せれば、有料を選ぶ判断の速さにもなり得るのです。
私はこの章から、三つのことを胸に刻んでいます。価格破壊と開かれたフォーマットは、機能の優位に勝つということ。標準を握った者が、その後20年の生態系の「家賃」を取り続けるということ。そして、日本の町場は有償ソフトへの支払い習慣が歴史的に薄く、この壁は値段の安さではなく、価値の証明と、オンボーディングの摩擦を減らすことでしか越えられないということ。——「紙をデジタルにする」だけでは産業の生産性は上がらない。デジタル化されたのが「絵」なのか「データ」なのかを、私たちは常に問わなければならないのです。
CADが「絵」で止まった限界を、最初から見抜いていた人々がいました。彼らが目指したのは、線の集まりではなく、「壁」「柱」「窓」という意味を持ったオブジェクトの集合体——つまり、建物のデータベースとしての3Dモデルです。この思想は1970年代から研究者が「ビルディング・プロダクト・モデル」などと呼んでいましたが、産業として最初に実装した主役は、意外にもハンガリーでした。
1982年、社会主義体制下のブダペストで、物理学者ガーボル・ボヤールがGraphisoftを創業します。彼は西側の禁輸(COCOM)をかいくぐってアップルのコンピュータを手に入れ、1984年にArchiCADを発売しました。世界で初めて、PC上で動く本格的なBIM(当時の呼称は「バーチャル・ビルディング」)です。鉄のカーテンの向こう側から、建設ソフトウェアの未来がやってきた。のちにボヤールは、社会主義国から生まれた最初の西側上場企業として、この会社をブダペスト証券取引所に上場させることになります。

しかし市場を決定づけたのは、1997年に米国で創業したRevit Technology社でした。パラメトリック——あるパラメータを変えると、関連する全要素が自動で更新される——という自動車設計由来の思想を建築に持ち込んだRevitは、「平面図を直すと、立面図も断面図も数量表も自動で直る」という、設計者にとって革命的な体験を提供します。そして2002年、Autodeskがこの会社を約1億3千万ドルで買収しました。自社の主力製品であるAutoCADを、将来的に食い殺しかねない製品を、あえて買ったのです。この決断が、Autodeskのその後20年の覇権を決めました。カニバリゼーション(自社製品の共食い)を恐れて自社製品を守った企業は、たいてい次の時代に消えていきます。——自社の既存製品を食う次世代製品は、他社に食われる前に、自分で買え。これがこの買収の教えです。
BIMという言葉自体も、この時期に定着しました(Autodeskの2002年の白書などを通じて)。産業は「図面からモデルへ」の、長い戦争に突入します。けれども、私がこの物語のなかで最も重要だと考える断層は、まさにここにあります。BIMは、設計と大手のためのものになり、現場と中小のものにはならなかった、という事実です。理由は明快です。BIMの導入には、高価なライセンス、高性能なPC、専門教育を受けた人材、そして「関係者全員が同じ土俵に乗る」ことが必要でしたが、第二・第三の呪い——断片化と、買い手の貧しさ——が、それを許さなかった。元請がBIMで設計しても、実際に鉄筋を組み、配管を通す下請の会社は、依然としてPDFを印刷して現場に持ち込んでいたのです。
だから、各国の政府が介入しました。英国は2016年から公共工事にBIMレベル2を義務化し、シンガポール、北欧、そして日本の国土交通省も、同様の推進策を取ります。制度による普及。これはこれで有効でしたが、義務化されたBIMは、しばしば「提出のためのBIM」になりました。現場の生産性向上に直結せず、ただ提出物としてつくられるだけになる、という批判を招いたのです。私はここに、日本の町場の未来への戒めを読みます。現場の便益から設計されていないデジタル化は、コストとして憎まれる——制度に背中を押されて導入するときほど、この落とし穴は深くなります。
BIMの理想は、竣工後の維持管理まで含めて、建物の全ライフサイクルを一つのモデルで管理することでした。その理想は、まだ半分しか実現していません。それでも、忘れてはならない成果があります。BIMは、建物を「計算可能なデータ」に変えようとした、最初の本格的な試みでした。これがなければ、のちのAIによる設計最適化も、デジタルツインも、干渉チェックの自動化も、ありえなかった。BIMは、勝者ではありません。けれども、その上にすべてが積み上がっていく地層です。——上流(設計・大手)から入った技術は、下流(施工・中小)には自動的には降りてこない。この断層は自然には埋まらず、だからこそ、そこに次の事業機会が眠っているのです。

ここまでを振り返ると、最初の二つの革命は、どちらも同じ場所で足を止めています。CADは作図を電化し、BIMは建物をデータにしようとした。けれども、そのどちらも、日本でいえば従業員数人の工務店や一人親方の手元までは降りてこなかった。彼らは、いまも見積をExcelで作り、工程を手書きのカレンダーで管理し、写真を個人のスマホに溜めています。40年前の革命の恩恵の、そのまた外側にいるのです。
私が興味を持つのは、まさにこの「降りてこなかった断層」です。歴史は、上流から下流へと革命が降りていくと教えます。しかし、それは自動的には起きない。誰かが、下流のために別のプロダクトと別の売り方を用意したときにだけ、断層は埋まる。CADとBIMの40年は、その空白がいかに大きく、いかに長く放置されてきたかを、静かに証明しています。日本の町場にとって、図面が本当の意味で「データ」になる日は、実はまだ来ていないのかもしれません。
ここで大事なのは、断層を「遅れ」として嘆かないことだと私は思っています。大手や設計事務所が先に電化を終えたのは、彼らにその余力があったからで、町場が遅れているのは怠慢だからではありません。むしろ、上流で三十年かけて磨かれた「絵をデータにする」という思想が、ようやく町場の手元でも成り立つだけの、安さと手軽さの条件が揃いつつある——そう捉えるほうが、事実に近い。技術は先に生まれ、それを迎える器と気運が後から追いつく。CADもBIMも、その順番で広がってきました。私はいま、その同じ順番の、最後のひとコマに立ち会っているのだと思っています。
もう一つ、私がCADとBIMの物語から受け取っている教訓があります。それは、標準を握ることの重みです。AutodeskはDXFという交換フォーマットを開くことで、自社製品の周りにソフトやプラグインの生態系を育て、二十年ぶんの主導権を手にしました。ArchiCADやRevitが提示した「意味を持ったオブジェクトの集合」という発想も、いまや世界中の建設データの共通言語になりつつあります。どちらも、単独の機能で勝ったのではなく、みなが乗ってくる「土台」になることで勝ったのです。町場に向けたソフトウェアを考えるとき、私が最後に問うのはいつも同じです——これは便利な道具で終わるのか、それとも、業界のみんなが自然と乗ってくる土台になれるのか。四十年の歴史は、後者だけが生き残ると、繰り返し告げています。
次回は、この空白に光を当てた第二の革命——クラウドとスマホが現場を主役に変えた十年を追います。ソフトウェア企業が10年も雌伏し、最後にiPadというハードウェアの成熟に救われる物語です。そこには、いま私が向き合っている中小建設の現場に、より直接つながるヒントが詰まっています。歴史は繰り返さないけれど、韻を踏む。その韻を、一緒に聞き取っていきましょう。
最後に、この連載を通じて私が確かめたいことを、あらかじめ書いておきます。私は、建設ソフトウェアの40年を、勝った会社を称え、負けた会社を笑うために振り返るのではありません。この産業のソフトウェアは、最終的には、人を減らすためではなく、人を守るために売られるべきだと信じているからです。夜10時に事務所で見積と格闘している社長の時間を返すこと。若い人が「入りたい」と思える仕事にすること。四十年前、CADが製図工の手の疲れを軽くしたように、これから起きることも、突き詰めれば同じ問いに行き着きます。この産業を、次の世代にちゃんと手渡せるか。その一点を軸に、次回からの物語を進めていきます。